創作大賞2024応募作品『四月。』
まだ四月だというのに、車内は窓を開けないと耐えられないほど暑かった。男は信号待ちの間、煙草に火をつけようか迷ったが、結局つけなかった。チクチクと胃の辺りが痛むからだ。ここのところ物事が上手くいかず、気分もすぐれなかった。不惑という言葉が男の脳裏をかすめた。「こんなものか」男はハンドルを握りながら独りごちた。遠くの方でクラクションを鳴らす音がした。一瞬、それが何処から聞こえてきて誰に向けられた合図なのかわからなかったが、後方の車が自分に向けた音だとわかり、男は急いでアクセルを踏んだ。助手席には財布と携帯電話、くたびれた文庫本が無造作に置かれていた。「そう遠くはなく、それでいて近すぎない場所でのんびりと本が読めれば良いだろう」男はそう考えていた。
それから数十分間車を走らせた後、男はコンビニに停車した。「いらっしゃいませ」とやる気のなさそうな女性店員の声が聞こえた。男は数分間店内を歩き回ったが何を買っていいのかわからなかった。結局いつも飲んでいる缶コーヒーを買った。青い缶のコーヒーだ。男は車に戻り運転席に座ると、缶コーヒーのタブを開けた。「カシャ」という音が異様な程大きく響いた。「こんな味だったかな」男は缶コーヒーの成分表を見ながらぼんやりと考えた。
自転車のブレーキ音が響いた。男が視線を向けると学生服を着た少女が2人、ちょうど自転車から降りているところだった。顔は御世辞にも美しいとはいえなかったが、そこには生命力が溢れていた。風が彼女たちの髪をやさしくなびかせていた。1人の少女は白肌で、もう1人の少女は日焼けしているように見えた。「中年の男が2人の少女をみつめている」この事実に男は気不味くなり逃げるように視線を逸らした。するとコンビニのドアから眼鏡をかけた学生服の少年が出てくるのが見えた。白いワイシャツはズボンにインされていたが、ところどころ飛び出していた。髪はかなりの癖毛で真っ黒だった。少年は中指で何度もずり落ちる眼鏡を押し上げていた。その様子は少年にしっくりきていた。まるでその少年がその少年であることを証明しているかのようだった。少年は手にぶら下げていた袋から白玉餡蜜を取り出し、勢い良く食べ始めた。その姿を見た2人の少女が、少年の背後で音をたてずに笑っていた。
男の位置からはそのすべての光景が見てとれた。それはある種の懐かしさを思いださせた。学生時代、男は自分を主張することが出来なかった。それは勉強に対し、進学に対し、友人に対し、そして家族に対してだった。そんな学生時代、たったひとつの楽しいことがあった。それは甘い菓子を食べることだった。口中にめいいっぱい広がった甘味、少年はそれを体中で受け止めていた。ひとりで歩いた学校からの帰り道も、甘い菓子を食べればさびしさはやわらいだ。運動会でみんなが泣いている中、泣けずにどうすればいいのかわからなかったときも、ポケットに忍ばせた飴玉を舐めれば安心した。ガキ大将に腕相撲をしようともちかけられ、お互いの手を合わせた瞬間、相手の非力さを感じとってしまったときのやるせなさ。わざと負ける選択をしたときのどうしようもなさ。少年は悔しかった。全身で悔しかった。その有り余るエネルギーは持て余され、行き場所を失っていくだけだった。そんなとき、いつも少年の近くには甘い菓子があった。
男の脳裏には様々な思い出が去来していた。
「おれは……」
そのとき死が通り過ぎた。
それはちいさいが確実な死だった。
死はコンビニ裏の公園に流れて消えた。
次の瞬間、ちいさな女の子が公園の中からこちらを見ているのがわかった。女の子は男と目線が合うと勢いよく走り出した。大きく口を開き、笑っているようにも泣いているようにも見えた。女の子はゆるやかな傾斜を降っていった。周りにはたくさんの菜の花が咲いていた。男は誘われるように車を降りて菜の花畑に向かって歩き出した。頭上には茜色に染まった空が、すべてを飲み込むように広がっていた。
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