見出し画像

『或るデラシネの一生』

カタチがない。
それが彼にとって最後の事実だった。
彼の最初の行動はペンケースを選ぶことだった。散らかし放題の机上を引っかきまわした。どこにも目当てのものはない。いや、あるにはあった。しかしどのペンケースも違った。缶のペン立て、プラスチックケース、帆布の袋もしっくりこなかった。さんざ悩んだ挙句、彼は革製のちいさなペンケースを選んだ。それは焦げ茶色の、使い古されたシンプルなものだった。これだ、これだ。彼は革の匂いにいくらかの安心をおぼえた。次に取る行動は簡単だった。真鍮のペンシルを探すこと。真鍮の塊は彼の目の前に転がっていた。塊はかつての黄金色をすっかり失くしていた。何年も前からそこに置きっぱなしにされているようであった。彼は真鍮のペンシルを丁寧にペンケースにしまった。小銭を握りしめた後のような匂いが彼の鼻腔に届いた。なつかしさのあまり彼は目眩すらおぼえた。最後に長さを測ったのはいつだったかな、そんなことが彼の頭をよぎった。定規。たしか真鍮の定規もあったはずだ。彼は目の前に積み上げられた書籍を崩し、マジックで「破棄」と大きく書かれたノオトをゴミ箱に放り投げた。ノオトはゴミ箱に直撃した。ゴミ箱が倒れる音が大きく響いた。そうだ、そうだ。真鍮の定規は栞にしてたんだっけ。ゴミ箱が倒れてくれておかげで答えがわかったんだ。いいことじゃないか。素敵なことじゃないか。わっはっは。彼は崩れた本の山から一冊の分厚い本を取り出した。挟まっていたのはくすんだ、みすぼらしい、真鍮の定規だった。彼は定規をペンケースの中のポケットにしずかにしまった。残るは朱色の鉛筆だけだった。消しゴムはもういらない、消さなきゃならないことなんてそうあるもんじゃないから。朱色の鉛筆はさっきまで使っていたこれでいいだろう。彼は短くなった朱色の鉛筆の感触を忘れたくなかった。なんだか詫びしかった。無性に詫びしかった。死んでしまおうと思った。これが最後だと決めた。

さて、何を書くんだっけ?

時刻は丑三つ時。彼と文具と紙の山。擦れ合う音だけがいつまでも響いていた。なんでもない、なんにもない、彼という人間の一生である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?