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境目

こんばんは、みなさん。

広野です。

下書きばかりが溜まっていきます。そういうところわたしっぽいな。

文章を書く身として、完結こそが始まりだと本当に感じる。

書きたいことはあるのに終われない。話が跳躍しすぎてまとまらない。

あるあるだけど、なんでもいいから完結しないと、誰にも観てもらえない。誰かに見てもらうために文章を書いているんじゃない、と食らいつきつつも、やはり誰かに読んでほしい自分がいる。

肯定とか共感とか議論とかでなく、「認知されたい」という気持ちがあるのだから日記ではなく、noteをやっている。

そうだった、そうだったわ、と思った。

今回のタイトルは「境目」。

今、思い浮かぶ「境目」をただただ思いついた順に書こうと思う。

支離滅裂でも許してほしい。なんせもう酔っ払っていて、自分の世界にいるんだ。

ソーシャルな私とプライベートな私が居て、私はもう完全にオフラインで過ごしているのだから。

私は、他者があまり得意ではない。

家族、りんりん、動物は例外。

それ以外は一緒に御飯を食べることは愚か、隣にいるだけでなにかを消耗している。それが何かは正直良よくわからん。

けど確実に何かを摩耗して生きている。

大凡検討は着くがメンタルだろう。

メンタル、とだけ簡単に申し上げる事はできるが、私にとってあくまでも感覚的にしか解らず、他者との共有はできない。

よって言語化もできない。わたしと他者には境目がある。

「それってなんだ」という話なんだが、申し訳ない。

私にはわからない。

でも必ず感じる。わたしと私以外の認知の壁がある。

「伝わらない、こと」が解る。

何いってんだ、わたしは。

私には嫌いな人が居ないわけだが、許せる人がいるわけでもない。

世の中に生きる人、全てが憎く、全てが苛立つ。

これは、家族、りんりんも該当する。

しかし、私以外のそれらをコントロールできないことは完全に理解しているので、私はこのように判断してしまった。

「すべてを許す」という概念。

嫌いな人は居ない。でも総じて嫌いなところはある。

私以外は、もうどうしようもない人間。

だからもうどうしようもない、許す。

じゃあ、私は?

私は何でもいい。

何でも自由にしていいし、何をしてもかわいい。たとえヘマをしても最終的にわたしは私を許してくれる。

「自己肯定」によって、私は生きている。

私は人とは違くて、私は私が私を何でも許してくれることを熟知しているので、私は個をもう失うことは無いだろう。

私と他者の間には物質的な境目より、心理的境目のほうが正しい気がする。

もし、今後人類がデータ化されて生き延びるとして、私のこの心理が残らないのなら、人類は終わり。

残るのなら、わたしはなにとも一生相容れない。

どうしようもない自己と他者との間に境目があるから。

自分がこう思っていることを他者に知られた段階で私は終える。

それが個の終わり。

私は、私が他者のことを全く諦めていることを知られたくないのに、麺s機のない人にだけ知ってほしくてここへ書いている。

破綻そのもの。世界の縁はすぐそこにある。

あー、これ、見返した時が恐ろしいな、自分でも解るかわかるか怪しいけど。

でも消さない。

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