下衆の極み私見
高校生には高校生の悩みが
大学生には大学生の悩みが
おとなにはおとなの悩みがある。と聞いた。
高校生、大学生は自分のために悩むことが多く
おとなは人のために悩むことが多い。とも聞いた。
実際どうなのだろうか。
自分は学生だから大人の感覚はわからない。
学生はクラスや部活などという組織があって、クラスメイトや部員という相手がいる。
おとなは働いている以上、会社という組織があって、一緒に働く人やお客様という相手がいる。
組織があり相手がいるという形には変わりない。
好きでやってるものでなければ、
きっとどちらも人の為と言うよりは人の所為で悩む。
わざわざ嫌と思うものに体力を使いたくないだろう。
学生だっておとなだって隣の芝はいつだって青く見えるだろうし、ストレスは対人関係からしか生まれないのだから、悩みの根源はさほど変わらない気がする。
誰だって、立ち止まって振り返った時に
「なんで“あの人”のために悩むのだろうか」と悩む。
だが、“あの人”を目の前にした瞬間は
「人のために悩める自分自身」に酔いしれるのだろう。
それを悪と捉えてた自分はかなり自分の首を絞めた。
それを外に出した時にこんな話を聞かされた。
誕生日プレゼントを喜ぶ反応を見る為に渡してるのだろうか。プレゼントを渡してる自分という形が欲しいからじゃないか?と。
確かにそんな気もする。と思った。
ではそのことを認め、それを善としたら。
例えば、何かを人に指導する際「相手の能力の向上のため」なんて言うのは建前で本心は「教えている自分と満足感のため」であるということ。
自分はそういう感情が根底にあるということを認めることが出来た。同時に上の立場の人に「認められたい」「褒められたい」なんて言う感情は諦めた。
当時自分は、“人に認められない、褒められない。あれだけ世話を焼いてるのに、指導しているのに誰も見てないのか、悔しい”と思っていたクズだったから自分の首を絞めていたものは緩んだ。
それこそ「認められたい」「褒められたい」のような
向上心まがいのものは失いかけるが、
指導するモチベーションだけは保てる。
どっちかだけあればどうにかなると思う。
結局誰も彼も何があっても自分自身がいちばん可愛くて、大切にしたいと思うものなのだから自分自身の都合がいいように考えた方がこの世界楽じゃないか。
自分が楽に生きたいと思うように相手も楽に生きたいと思っているって考えたら、基本的になんでも受け入れられるようになることに気がついた。
そもそも先程のような下衆の極みみたいな考えをしていたら殆どの相手は自分よりマシな考え方をしているから、余計受け入れるしかなくなってしまう。
真に自分の下衆の極みみたいな考えを見せないようにバレないように振舞っていたら案外誰も気づかずいい人でいられるのだ。ウケるね。
着地点を見失ったし一貫性がないね。
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