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あいちトリエンナーレ2019レポ@名古屋会場

こんにちは、かどかわまほこです。

随分時間が経ってしまいましたが豊田会場レポに引き続き、2019年9月29日(日)に行ってきた「あいちトリエンナーレ2019」名古屋会場のレポを書きたいと思います。
状況がかなり変わってきているので、私が行った当時と展示内容が変わっているものがあるかもしれませんがご了承下さい。
行った当時の私の感想をつらつらを書いています。

これから行く人はネタバレにご注意ください。
読み進むと作品のネタバレになってしまうので、ネタバレしたくない人は見に行ってから読んでくれると嬉しいです。
それではどうぞ。

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(白川公園にいたうさぎの像)

思わぬアクシデント

この日は寝坊した。
本当なら前日のようにAM10:00には会場へ到着していたいところだったが、前日の疲れもあってか寝坊してしまい、大須観音駅に着いたのが11:00を回っていた。
ここで慌てて会場まで走ってしまったのが仇となる...

とりあえず名古屋市美術館へ到着する。
が、ポケットに入れていたはずのパスケースが…ない!!!
パスケースにはあいちトリのフリーパスを入れていただけでなく、ICカード、学生証、帰りの新幹線のチケットなどなど、大事なものがたくさん入っていた。
とにかく慌てて道を引き返して通った道を3往復ぐらい探した。だけど見つからない。
美術館と博物館の人にも届けられてないか尋ねてみたが無かった。
この時点でかどかわ放心状態である。年に何度かこういうウッカリなことをしてしまう...
情けなくなりながら、ひとまずそこの場所を管轄している警察署に電話で連絡して紛失届けを出し、誰かに拾われていることを心の底から願いながら止むを得なく1DAYパスを買い直した。フリーパスを買った意味よ…

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名古屋市美術館と作品の抜け殻たち

気を取り直して名古屋市美術館へと入場した。
ここでは豊田会場に比べてアクションを起こしている作家が多く、今回起こっている一連の騒動について考えざるを得なかった。
藤井光さんの《無情》も数日前にボイコットを決定したらしく、真っ黒に覆われた広い展示室には映像が投影されていた痕跡だけが見られ、薄明かりが差し込んでおり、タイトルも相まって喪失感のようなものを感じた。

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(藤井光さんの作品があったはずの部屋)

続いて、モニカ・メイヤーの《The Clothesline》。こちらもボイコットにより作品は残骸と化していた。
差別やセクハラ、性暴力について、来場者も参加して声をあげることが可能となる作品だったはずだった。
「声なき声」を拾い上げるはずの作品がバラバラに散らばって沈黙している。
事前にワークショップに参加していた人々や、あいトリオープン時から集められていた声は皆撤収されていて、その人たちの声ごと、作品と作家の心が引き裂かれていたように見えた。

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パスカレハンドロ(アレハンドロ・ホドロフスキー&パスカル・モンタンドン=ホドロフスキー)の《サイコマジック:アレハンドロ・ホドロフスキーへの手紙「アレハンドロ・ホドロフスキーのソーシャル・サイコマジック」》

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印象的だった作品はパスカレハンドロ(アレハンドロ・ホドロフスキー&パスカル・モンタンドン=ホドロフスキー)の《サイコマジック:アレハンドロ・ホドロフスキーへの手紙「アレハンドロ・ホドロフスキーのソーシャル・サイコマジック」》だ。
壁にはびっしりと手紙が貼られている。
外国の言葉で書かれていたのでその場で手紙を読むことは全然出来なかった。(日本語も含め訳された冊子が会場に置いてあり、それは持ち帰ることができる。)
歩を進めると、暗幕の先には映像作品があった。
それを見たらとにかくハッピーな気持ちになった

これは言葉にすることが難しいので是非会場で見てみてほしい。

正直、タイトルを聞いただけの第一印象は「なんかヤバそう」だった。
「サイコマジック」とは、映画監督のアレハンドロが独自に編み出した、アートとセラピーを組み合わせた心理セラピーだという。
手紙はその「サイコマジック」を受けた相談者たちからの手紙であり、映像は実際にアレハンドロと聴衆が集団で「サイコマジック」を実践している記録映像が流れている。
サイコマジックを施されている人々の表情のなんて解放的なことか。
私はある意味、このあいちトリエンナーレに来るまでの道のりの間に様々な理由でしんどい気持ちになっていたので、「サイコマジック」を鑑賞していたら「超ハッピーじゃんヤバー!」という気持ちになった。

あいトリの一連のことごとに対して怒っている人、悲しんでいる人、苦しんでいる人、絶望している人、みんなこの作品を見てくれ。

大げさではなく、世界中のみんながホドロフスキーのサイコマジックを受けたら世界平和があっという間に実現するのではないかなんて希望を抱いた。
これは生きる希望とか光を感じる作品だった。


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愛知芸術文化センターの様子

1時間ほどで名古屋市美術館を後にし、歩いて愛知芸術文化センターへ移動した。
メディアに取り上げられまくっていた「表現の不自由展・その後」も含まれた会場なので、どんな様子かと少し緊張する。
愛知芸術文化センターは道路に囲まれた立地だ。
気になったのは街宣車が一台、その道をぐるぐると、ゆったりとした速度で走りながら、あいトリに対する遺憾の意を大音量で表明していたことくらいだ。他にそうしたあいトリへの反対勢力的な存在は見当たらず、その車一台のみだった。

ひとまずメイン展示会場に向かう。
作品が密集している階層だ。客入りはそこそこあった。
この会場は特に、アーティストがアクションを起こしている作品の多い会場だった。主にボイコットだ。

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(LA FIESTA #latinosinjapan /レジーナ・ホセ・ガリンド)

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(・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・/クラウディア・マルティネス・ガライ)

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(抽象・家族/田中功起)

ボイコットされた作品たちは一様に照明が落とされ、作品の残骸だけが残されており、抜け殻といった様相だった。
あるいは立ち入り禁止になっていたり、扉が固く閉ざされ残骸すらも見ることが叶わない。
かつて展示されていた作品についてはキャプションによって知るのみで、加えて今回の騒動に対するアクションについてのキャプションも配されていた。
これだけ多数のアーティストが怒っている、というのは他では見られない光景だったと思う。
作品の残骸を見ていると、アーティストの引き裂かれた心を見ているような気持ちになった。

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件の「表現の不自由展・その後」のスペースだけど、ちょうど扉が半開したタイミングに出くわした。(上写真)
手前にはボイコットをしているCIRの作品の残骸がある。
大きな壁に隔てられた向こう側に「表現の不自由展・その後」があるらしかった。
中まで見ることは叶わなかったけれど、ここまで見て来た感じからして部屋の広さはおおよそ想像がついた。
全体の展覧会の要素的な割合で言ったら、言い方はとても失礼だけど、「表現の不自由展・その後」という1つのグループなんだな、という感じだった。
各マスメディアの取り上げ方や、SNSなどでの切り取られ方を見てから来ると、切り取られ方があまりにも視野狭窄的すぎてギャップを感じる。
これは見に来てみないと分からないことだったなあなんて思った。

「あいちトリエンナーレ=表現の不自由展・その後」くらいの感じで世間的に見られている印象を受けるけど、なんていうか、他の出品作品に対する言及が全然されていないことが腹立たしくなってくるくらいな気持ちだった。

もちろん、今浮き彫りになっている問題を軽視するわけではない。
ある意味いま出るべくして出た問題でもあり、これは今後の表現者や社会に関わる大きな問題であることは承知している。
だけどなあ…
大勢の人たちがインターネットの情報だけをソースとして、自分の目では確認しないまま「あいちトリエンナーレ」を袋叩きにしているような構図が愚かしくて浅ましくて、気持ち悪くなってしまう感じがした。
これが21世紀令和元年インターネットツイッターランドってわけか

10F愛知県美術館《ラストワーズ/タイプトレース》dividual inc.

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この作品は、壁に並んだ24台のモニターにインターネットを通じて集まってきた「10分遺言」が次々と表示される。
展示室の真ん中に置かれたPCは無人なのにキーボードがカタカタとキーが上下しており、文字が打ち込まれていく。
キャプションによると、アーティストが開発したソフトウェアによって、キーボード入力・削除のタイミングといった執筆プロセスが全て記憶されており、再生出来るというものだそうだ。

10分の間に人が思い思いに書いた遺言が画面に映し出されている。
私自身、よく最期の手紙や絵について考えたり書いたり描いたりしているので、すごく興味を惹かれた作品だった。
みんなの最期の言葉を見ているのは面白かった。
宛先1つとっても全然違う。親、兄弟、自分の子ども、パートナー、自分自身、誰でもない誰か。
内容も、宛先の人の未来に思いを馳せたり、これまでの自分の人生を振り返ったり、様々だった。
どこで書き直したのかや、どこで言葉に詰まったのかも浮き彫りになる。
寿命にあぐらをかきがちなこのご時世に、こういった作品があったのは良かったんじゃないかと感じた。

8F 愛知県美術館ギャラリー《ラヴ・ストーリー》キャンディス・ブレイツ

難民問題に対してアプローチした映像インスタレーション作品。
難民問題については日本のマスメディアでも時々取り上げられてきていたけれど、実際のところ世界で何が起こっていて「どうして国を出ざるを得なかったのか」それについては情報量が少ないし、
日本は最果て東の孤島みたいなもんだから、自分自身も含めて難民問題に対する当事者意識は薄い感じがする。
でも、難民問題って決して戦争や紛争に巻き込まれた人々だけの問題じゃないのだということに気づかせてくれた作品だった。

紛争はもちろん、政治的理由、宗教的な理由、ジェンダー・アイデンティティの問題によってとか、日本では想像が至らないような理不尽な理由によって、自分が生まれ育った祖国から離れざるを得なくなってしまった人のことなど、全然知らなかった。

手前の部屋では男女それぞれプロの俳優が、6人の難民の人たちのインタビューを再演している映像が流れていて、奥の部屋では実際に6人がインタビューを受けている映像が流れている。
手前の部屋で俳優の再演を見た時、ある一定の人種や性別や見た目に対する先入観が排除された状態でそれらの声を聞くこととなり、言葉がよりはっきりと意味を持って前に出てくるような感じがした。
世界のことを知るという意味でも、国際芸術祭の意味があったんじゃないかなと思った。

四間道・円頓寺エリア/メゾンなごの808《輝ける子ども》弓指寛治

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ゆっくりと愛知芸術文化センターに滞在していたら、閉場ギリギリの時間になってしまった。
時間をとって見る映像作品が結構多いので、時間配分に気をつけたほうがよかった。(反省)

慌てて愛知芸術文化センターを飛び出て四間道・円頓寺エリアに向かった。
どうしても見たいアーティストが1人いた。弓指寛治さんだ。

2年前に開催されていた「Death Line」というグループ展で初めて作品を見て、ご本人とお話ししてから気になっているアーティストだった。
当時、弓指さんは交通事故と死、自殺についてテーマに取り上げていて、私自身、交通事故と交通事故による友人の死の経験、臨死体験、生死の間を揺らぐ友人たちの存在などがあったから、そんな話を作品を見ながらぽつぽつお話ししたら、「へー!オールラウンダーや!」と笑いながら明るく話してくださったのが印象的だった。
その後2018年のTARO賞で岡本太郎現代芸術賞敏子賞を受賞されるなど目覚ましいご活躍をされていて、今回もあいちトリエンナーレに出品されているとのことだったので絶対見なくちゃと思っていた。

弓指さんは継続的に交通事故や死をテーマに制作をされていて、今回取り上げていたのは栃木県で起きた8年前の自動車事故だった。
てんかんを患っている男性が発作を起こして事故が発生し、6名の小学生が亡くなった事故だ。

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1つの部屋をぐるりと巡っていく形で作品は展開されている。
空間の構成、作品の散りばめ方、作品の鑑賞の方法、その構成力が本当にすごくて、かつ、絵もテキストも良かった。
あんまりにも良すぎたので2周した。もちろん2周目もすごく良かった。

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私はこれまでの自分の経験を思い出したり、当事者の人々へ思いを馳せて泣きだしそうだった。
でも展示会場で泣き出したら変人に見られてしまうから恥ずかしいからと思って、ぐっと涙をこらえて会場を出た。
そしたら出入り口のところに弓指さんご本人が立っておられた。
思わず声をかけたら、私のことを覚えていてくださっていたので嬉しかった。
「今回の内容はかどかわさんにとって重いものになってしまったかな」と声を掛けられて、それでもう堪えきれなくなってボロボロと泣いてしまった。
泣きながらも、その場で感じたことを直接お話し出来たのはとても幸運だった。
弓指さんは相変わらず笑いながら、気さくに話してくださってそれもまた救いだった。

弓指さんの作品のすごいところは、被害者をただの「可哀想な人」にするのではないところにあると思う。
いわゆる「感動ポルノ」になっていないところがすごいと思った。
そこに確かに存在していた彼らの人生を、「短くて可哀想な人生だった」にするんじゃなくて、確かに生きていた彼らの時間に向き合わせてくれる作品になっていた。
そして「彼らが今生きていたらどんな人になっていただろう」と思わず想像してしまう。
言語化するのがとても難しいのだけれど、アートの力をすごく感じさせられる作品だった。

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そして、この作品を「あいちトリエンナーレ」で展開したことにも大きな意味があると感じた。

愛知県はものすごい車社会で、車と生活が密着していると言っても過言ではない。
1人1台所有しているのが当たり前で、高校最後の春休みに免許証を取りに行って大学生のうちから車を所有する人がいるくらい。
都心部と比較すると、通勤通学で車を利用している割合はかなり多いんじゃないかな。
そのくらい、愛知県民にとって車は生活に欠かせない道具だ。
そして同時に、愛知県はこの16年間交通事故死亡者数は日本全国ワースト1だ。

車は生活を回していくのに欠かせない道具であるのと同時に、時に人命を奪うほど凶暴なものにもなり得る。
みんな頭で分かっていたとしても、生活に密着しているからこそ、そこに対する意識が薄れていく側面もあると思う。
弓指さんの今回の作品は、愛知県でこそ大きな意味を発揮する作品だったし、ご本人もそこに対する意識はあったそうだ。

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それから、不躾かなと思いながらも、今回のあいちトリエンナーレの一連の騒動による影響などについても伺ってみた。
色々なことが起こって、色々なアーティストがアクションを起こして、ボイコットしたりもしていたけれど、弓指さんは「自分に出来るのは出来る限り在廊して、直接鑑賞者の人とコミュニケーションすることだと思った」と仰っていて、言葉の通り、出来る限り在廊されているようだった。
過去の展覧会でもそうだったけれど、弓指さんはなるべく会場に在廊していて、自分の作品を介して多くの人とコミュニケーションしている姿が印象的だった。
今回もその姿勢を貫いているようで、その人柄や作品から弓指さんの誠実さみたいなものが伝わってきて胸が熱かった。
弓指さんだからこそ出来る作品であり、ある種のアクションなのだと強く思った。

【おわり】

名古屋会場はこんな感じ。
残念ながらここで閉場時間となってしまい、私は四間道・円頓寺エリアの作品を見きれないまま会場を後にすることとなった。

見きれなかったものの、やっぱり来て良かったなと思った。
ここまで色々書いてきたけれど、来る以前の自分がかなりメディアに影響されていて、視野狭窄的になっていた一人なのだと実感した。
来なければ分からなかったことがたくさんあり、鑑賞者やアーティストの声があり、芸術祭の面白さがあった。

会期はあと5日間だけれど、最後まで無事にあいちトリエンナーレが開催されることを願っているし、多くの人に見てもらえることを願っています。
様々な問題については(終着するにしよしないにせよ)まだまだ時間がかかりそうだし、今後も注視していたいと思っています。

最後まで読んで下さってありがとうございました!

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