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寂しさが故の誰かではなく、その人を愛せるようになりたい。

朝の6時にようやく眠りについた。
人の会話をまともに聞いたのは久しぶりな気がしたけれど、2日前には人と一緒に過ごしていたのだったと、ぼんやり思い出す。2日間寝込んでいただけで人との関わりを忘れてしまうのはかなしかった。

ライブが楽しかったのと同じくらいしんどくて、2019年や2021年のあの頃のような健やかな喜びや純とした切なさを思い出せなくなった。眠るに眠れず、1時間半の睡眠だけをとり、翌日のトークイベントのために鈍行に揺られた。わずかに仮眠を挟んでなんとか降り立ったのは吹田市。フォロワーさんと迎えたトークイベントは楽しく、30分という時間は瞬く間に過ぎた。

そして、サプライズで決行されたムツムロさんによる弾き語り。どれだけ大きくなってもライブハウスで歌い続けるから、と言いながら届けてくれたフェイバリットソングは、嬉しく切なかった。まるで、偏愛を語る自分のために作ってくれたような曲だと思っていて、でもサビの最後の部分にだけは共感していなかった曲。大阪城ホールでライブをしても、きっとこの人たちならライブハウスを見捨てたりしない、そうわかっている。今まで何年見続けてきたと思ってるんだ。でも、同じくらいに、フロアの歌声を聞いた時、わたしはサビの最後の部分に痛みを感じてしまった。1日前と、同じように。もしかしたら、きっと、誰もがあの歌を歌ってしまったら、誰もがあの歌を聴いてしまったら、わたしは好きなままでいられるだろうか。誰にも知られたくないけど誰かにわかってほしかったあの詩たちが世界中で流れてしまったら、僕の居場所はどこにあるんだろう。逃げ場所だったはずのライブハウスでは息がしづらくて、ヘッドフォンの中に逃げるしかできなくなってしまって、でもその音楽すら自分だけのものじゃなくなったら?
フェイバリットソングを聴いている中、ぽろぽろと流れ落ちる涙は、あの瞳に届いていただろうか。嬉し泣きをしたというツイートを見たけれど、僕のような感情で涙を流した人はいたのだろうか。
ハンブレッダーズが生きる意味。そう豪語していた自分は嘘ではない。今も、そう思っている。だからこそ、今確実に生きる意味を失いつつあることが嫌でもわかる。彼らは何も変わっちゃいない。変わり続けているからこそ変わらないあなたたちがいることを、わかっている。大きくなっていく姿、ライブハウスでのフロアの様子、それを見ていく中で、どうしても、どうしても変わってしまった自分がいると気づく。

静かになった千里山ホールで、涙を拭って隣にいたフォロワーさんと顔を見合わせる。何も言えない自分がいた。ライブ終わりにも、そうだった。楽しかった、じゃなかった。ネガティブな言葉は出したくなかった。ライブ後に静かになってしまう自分は、わかりやすいのかもしれない。何かを言いたい気持ちはあるけれど何かを口から出したら全てが止まらないような気がしてこわかった。ライブ終わり、誰かに会ったら泣き出すような気がしていたけれど、そんなふうに感情的になることはなく、自分を押し殺して過ごしていた。

ガルル珈琲さんや、ファミリーマートなどを訪れた後に解散して、ぼーっとまた電車に揺られた。


家に帰ってからは、何もする気が起きずただ怠惰を貪り、眠り、また鬱の海に沈んでいた。
人と一緒に過ごすことが寂しさを紛らわすことなのだとしたら、どれだけ寂しい人間だろう。誰かの作ってくれたご飯、誰かと触れ合った肌、誰かと歩いた道、誰かの生活の匂い。
人は1人じゃ生きていけない。でも、1人の時間がないと生きていられない。
誰かと過ごす時間は尊いものだ。喜びや楽しさや幸せを共有できる。悲しみや苦しみを受け止めてもらえる。けれど、それは本当は自分だけのもので、同じものを同じように感じることはできない。どこまでいっても、本当の意味で交わることもわかり合えることもない。だからこそ人は孤独を感じるものなのだし、誰しもが本当は孤独なのだと思う。1人の時間にそれらと向き合い、消化し、昇華し、なんとか生きている人間がたくさんいる。1人の時間でなければできないこと。孤独を味わい飲み込む、それは苦しいことかもしれない。時には自分を楽にできる術かもしれない。わたしはそういう時間を、こうして文章を綴ることで生きている。それが音楽かもしれない、読書かもしれない、散歩かもしれない、写真かもしれない、運動かもしれない、睡眠かもしれない、食事かもしれない。それでいいよ。生き抜くことができるなら、それでいいよ。
孤独に飽きたらまた誰かを頼ればいい。でも、寂しさが故に人と過ごすのだとしたら、どれだけ僕は寂しい人間だろう。その人といたいから、ではなく、寂しさを理由に誰かに寄りかかってしまうことは、とてもわがままだ。そしてまた、そのわがままを許してくれる、許してしまう人は、とんでもなくお人好しだ。敵わない。君は君だけのために生きてほしいよ。

気晴らしに散歩に出かけた。久しぶりにカメラを持って。歩きながら良さそうなものを見かけては写真を撮る。いつも思う、わたしのカメラロールには植物ばかりだ。絞り値1.8のレンズ、何万円だったか覚えていないけれどたぶん3万円くらい。愛着。ぼやけた写真が、ミラーレス一眼らしくて好きだった。こんな写真ばかり撮っている。
一体いつまでこうしているんだろう。いつまでこうしていられるんだろう。

同じことばかりして、何も変わろうとしない、何も変えようとしない。変わりたいのは口ばかりで、本当は変わりたくないのかもしれない。変わることがこわいのかもしれない。

今週末に控えるのは、ハンブレとベボベの対バン、青森にて。初めて訪れる東北地方。ベボベの曲を聞いて、なんだか好きだな、と思った。少しだけ元気が湧いてきた気がした。音楽には不思議なものがある。人を行動させる、人を感動させる、その力が宿っている。わたしが文章で成し遂げたかったもの。悔しいけれど、でも音楽を聴くのをやめられない。それはやはり音楽に救われた経験があるからで、音楽と共に生活をしているからで。
知らない土地で、初めて見るバンドと、生きる意味となっているバンドが対バンをする。そこで何が起こるのだろう。わからない。わからないから、こわいし、わからないから、楽しみでもある。どうか、11月18日が愛すべき日になりますよう。


この文章はコメダ珈琲さんにて書かれました。居心地の良い空間を作ってくださりありがとうございます。

そしていつも読んでくれているあなたへ、ありがとう。

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