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「体験していなかった感情」との出会いについて

「ビートルズの新曲を聴いた時の感情」を、
自分の人生で味わえることになるとは思っていなかった。

ジョンレノンは1980年に亡くなった。
20年後に私は生まれた。
私にとってビートルズの曲は、写真アルバムのようだった。
開けば彼らを覗くことができるが、それは既に起こり終えてしまったことだった(”昔の”と言いたいわけでない)。

1960年に生まれていたらどんなに良かっただろうか。
駆け抜けていく彼らと同じ時を過ごして、私はどんな感情になっていたのだろうか。
それを体験することはできないと思っていた。

2023年11月2日。
ビートルズの最後の新曲がリリースされた。
1970年代にジョンが録音した曲。

冒頭の「1,2…」で息を呑む。
はじめに感じたことはなんだっただろう…
「ジョンレノンだ…」たぶんそんな感じ。

生きている彼がありありと浮かんできて、
と同時に、もうここにはいない、という事実が胸を刺す。
味わえないと思っていた感情を体験できた感動。
これが最後のジョンレノンかと心が躍り、呆然とする気持ち。
そして今度こそ、この先はもう二度と感じられないのだという喪失感。

これは「最後の」ビートルズの新曲を聴いた時の感情、か。


話は変わるが、今週触れた「感情」繋がりで言うと、連続テレビ小説ブギウギの話もある。

主人公のスズ子は、母の実家の近所の家の法事に呼ばれ、そこで自分の両親は生みの親でないことを知らされる。
スズ子は愕然として、2日ほど、ほぼ喋らず、家にも戻らず、放浪し続ける。
生みの親を訪ねたり、両方の親と一緒に行った川辺を訪れたりしながら、涙する。

「親が本当の親ではないと知った時の感情」

これも経験したことがない。
今のところ経験する予定もない。

彼女の涙はどんなものなのか。
驚き、信じられない、悲しい、何故なのか、裏切られた、騙された。
そんな感じ?
否、体験していない人にはその機微を理解することはできないし、理解したような顔をすることもできないと思う。

これから生きていく中で、「体験していなかった感情」にどれほど出会えるのだろうか。

そんな感じで、「感情くん」との出会いについて考える一週間だった。
また奇遇なことに、先週末から読み始めた鷲田清一さんの「想像のレッスン」という本でも、感情についての記述があった。

ある哲学者が言っていた。もしわたしたちが言葉というものをもたなかったら、ひとはいまじぶんを襲っている感情がいったいどういうものか、おそらくは理解できなかったであろう、と。これが意味するところは、言葉が、何かすでにあるものを叙述するというより、なにかある、形のさだかでないものに、はじめてかたどりを与えるということだ。言葉にしてはじめてわかるということがあるということだ。
「わかる」とは、まさに言い得て妙である。

鷲田清一「想像のレッスン」p.55

体験していなかった感情との出会いって、未知の生物との出会いみたい。
その感情と向き合って、自分でかたどりを与えて、自分だけの形で、コレクションしたいかも。