1875年〜1879年 建築家 19名
1.日高胖(1875年 - 1952年)東京
1875年 旧幕府旗本の日高圭三郎為善の子に生まれる
父親は万延元年遣米使節員として渡米
その後渡英
明治政府の工部省
大蔵省記録寮に勤務
1900年 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業
住友本店臨時建築部の技師となる
1908年 欧米出張
1915年 野口孫市の死去
住友営繕の全責任者となる
1916年 住友総本店及住友銀行本店新築調査委員
1918年 建築材料調達のため渡米する
1921年 住友合資会社技師長となる
1928年 住友合資会社工作部長となる
1931年 住友合資会社を定年退職する
1952年 鎌倉市腰越の自邸にて逝去(享年79)
2.大江新太郎(1876年 - 1935年)東京
1879年 東京生まれ
京都府育ち
旧制三高
1904年 東京帝国大学工科大学建築学科卒業
1905年 清国へ学術調査
1907年 日光社寺大修繕工事監督嘱託
栃木県技師
1913年 神社奉祀調査会事務嘱託
1915年 明治神宮造常局技師兼任
内務省技師(神社局)
日光東照宮の修復や明治神宮の造営に関わる
1920年 東京帝国大学工学部講師嘱託
1923年 臨時震災救護事務局事務官
皇典講究所工事顧問嘱託
1926年 内務技師兼任
1929年 伊勢神宮御造営主任技師
1935年 56歳で逝去
子息の大江宏も建築家
3.加護谷祐太郎(1876年 - 1936年)
1904年 東京帝国大学を卒業
奈良県技師等を務める
古社寺の修復等に従事した
退職後は建築事務所を開設し住宅等の設計を行う
1911年 明石郡公会堂
1927年 同潤会猿江共同住宅
1932年 拓殖大学本館
1939年 浅草本願寺
4.片岡安(1876年 - 1946年)石川県金沢市
1876年加賀前田藩士細野直重の次男として生まれる
1897年 東京帝国大学工科大学造家学科を卒業
日本銀行技師となる
1899年 日本生命保険副社長片岡直温の婿養子となる
1903年 第三十四銀行技師
1905年 辰野金吾と辰野片岡建築事務所(大阪)を開設
1912年 大阪市中央公会堂コンペの一員に選ばれる
1917年 関西建築協会(後に日本建築協会)創立
初代理事長となる
1918年 内務省都市計画調査会委員
社団法人大阪工業会常務理事
1919年 日本生命保険取締役
松井清足と片岡松井建築事務所(東京)を開設
1920年 東京帝国大学より工学博士号授与
論文名「都市計画ノ科学的考察」
1922年 片岡建築事務所を開設
京都帝国大学工学部建築学科講師嘱託
社団法人大阪工業会会長
関西工学専修学校(現・大阪工業大学)の
初代校長および理事長に就任
1923年 大阪信用組合(現 大阪信用金庫)組合長
1927年 石本喜久治と片岡・石本建築事務所を設立
1934年 金沢市長
1940年 大阪商工会議所会頭
1946年 死去、享年71
5.大熊喜邦(1877年 - 1952年)麹町生まれ
父は元旗本であった
第一高等学校
1903年 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業
大学院に籍を置く
横河民輔の横河工務所に入所
帝国劇場などの設計に関与する
1905年 東京帝国大学工科大学講師
清国へ出張
1907年 大蔵省臨時建築部技師に就任
各国の議事堂建築の調査
議事堂建設予定地の敷地調査にあたる
1918年 臨時議院建築局工営部調査課長兼工務課長
1919年 内務省および内閣嘱託
工学博士号取得
1925年 大蔵省営繕管財局工務部工務課長
1931年 建築学会会長
1933年 ローテ・クロイツ勲一等名誉章 (ドイツ)
1937年 衛生工業協会会長
1939年 建築学会学術賞受賞
1941年 帝国芸術踪会員
1943年 交通経済史の研究で経済学博士号を取得
子息に建築家の大熊喜英(1905年 - 1984年)がいる
6.北村耕造(1877年 - 1939年)京都
代々近衛家の家臣をつとめる家に生まれる
1903年 東京帝国大学建築学科を卒業
同期に佐野利器、佐藤功一、大熊喜邦、
田辺淳吉らがいる
同期の集名「どんぶり会」の一人
清水満之助商店本店(現・清水建設)に入社
海外の建築界視察で一年の出張を命ぜられた
1913年 清水組大阪支店長を歴任
1917年 清水組を退社
財団法人理化学研究所建設工事主任技師
1921年 宮内省内匠寮に移る
宮内技師・工務課建築係長をつとめた
1922年 工務課長に任ぜられた
1927年 御料館を手がける
1931年 工務課長を免ぜられる
同年内匠寮臨時帝室博物館造営課長となる
1930年 建築学会副会長をつとめる
皇の建築責任者としては片山東熊、
大沢三之助につぐ三代目となる
7.竹中藤右衛門(1877年 - 1965年)愛知県愛知郡名古屋
12代竹中藤五郎の二男として生まれる
父は初代竹中藤兵衛正高が創始した神社仏閣の造営を担った棟梁であった
名古屋高等小学校を卒業
19歳で大阪商業学校に入学
1895年 商業実習で韓国に渡り1年間行商を経験
1899年 神戸市小野浜の三井銀行倉庫工事の
準備中に父藤五郎が急死
兄曻太郎が13代藤五郎となる
錬一(藤右衛門)が工事責任者となる
竹中藤五郎神戸支店を開設する
1909年 竹中は個人営業から合名会社に組織を変更
竹中工務店を設立
本店を神戸に支店を名古屋に置く
錬一は14代藤右衛門を襲名する
1920年 フラーが施工した丸ノ内ビルヂング工事
の影響により建設業界でアメリカの
経営方式への関心が高まる
藤右衛門は大林組一行と共に欧米視察
1937年 竹中工務店は株式会社組織に変更
同社社長
1945年 長男
竹中錬一が社長に就任して同会長となる
海外土木興業取締役会長
土木建築扶助会理事長などを務めた
1946年 貴族院勅選議員に任じられる
同和会に属して活動
1947年 貴族院廃止まで在任
1948年 竹中工務店の融資問題で衆議院不当財産取引
調査特別委員会に証人喚問される
建築業協会理事長
日本土木建築請負業者連合会会長を務める
8.永瀬狂三(1877年 - 1955年)愛知県渥美郡田原(現・田原市)
祖父は田原藩国元家老の鈴木弥太夫
父・永瀬誉の代から永瀬姓を名乗る
「狂三」の名前は『論語』子路篇の「不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也」に由来
1906年 東京帝国大学建築学科を卒業
横浜市にある下田菊太郎の事務所
(下田築造合資会社)
1908年 辰野・片岡設計事務所で働く
1909年 京都帝国大学建築部で嘱託となる
山本治兵衛の下で大学施設の建築を手がける
1917年 京都帝国大学工学部の講師となる
1919年 在任中に死去した山本の跡を継ぐ
建築部長となる
1920年 営繕課長となる
1929年 退職
京都帝国大学の営繕組織を率いる
拡大を続ける大学施設の建設を手がける
1920年 京都高等工芸学校
(現・京都工芸繊維大学)講師となる
京都帝国大学営繕課長退職後
1935年 京都工学校校長となる
1955年 死去、77歳
9.保岡勝也(1877年 - 1942年)東京
1900年 東京帝国大学工科大学建築学科
(現・東京大学工学部建築学科)を卒業
工科大学では学長であった辰野金吾に師事
丸の内一丁倫敦
岩崎久弥が社長の三菱合資会社
(現・三菱地所)に入社
1889年 三菱は政府より丸の内の一括払いを
受け「丸ノ内建築所」を設置
1894年 ジョサイア・コンドル「三菱一号館」が竣工
保岡は曽禰達蔵の下で丸の内赤煉瓦街の
設計に携わる
帝国大学の大学院に入学
(研究テーマは劇場的建築)
1905年 三菱に再入社
1906年 定年退社
曽禰達蔵の後任の技師長に就任
丸の内「一丁倫敦」の設計の総指揮
三菱8号館から三菱21号館」の設計を行う
三菱14号館は日本初の鉄筋コンクリート構造
三菱合資会社長崎支店唐津出張所
三菱銀行大阪支店などを手がける
大隈重信邸の西洋館では日本初の
システムキッチンを導入
1908年 欧米視察
岩崎弥之助深川別邸池辺茶亭を設計
1912年 三菱を退社
1913年 銀座に保岡勝也建築事務所」を設立
1915年 川越貯蓄銀行本店を設計
1918年 保岡の代表作となる第八十五銀行本店を設計
1926年 数寄屋造りの和室が融合した
洋館「山崎家別邸」を設計
1936年 埼玉県初のデパートである山吉デパートを設計
10.佐藤功一(1878年 - 1941年)栃木県小金井村(現・下野市)
1878年 栃木県小金井村(現・下野市)に
大越東七郎の次男として出生
佐藤家の養子になる
栃木県尋常中学校、錦城中学校卒業
1896年 第二高等学校卒業
1903年 東京帝国大学工科大学卒業
三重県技師
東大の同期に佐野利器がいる
1908年 宮内省内匠寮御用掛
1909年 欧米を視察
1910年 早稲田大学に建築科開設
講師就任
1917年 柳田國男と古民家保存が目的の
「白茅会」を発足
今和次郎らが参加
1919年 工学博士を授与される
1921年 東京女子高等師範学校講師
1923年 帝都復興事務嘱託
1925年 日本女子大学校教授
1929年 大礼記念京都美術館建築委員会委員
1941年 逝去
11.清水仁三郎(1878年 - 1951年)京都府京都市出身
建築家清水仁兵衛の二男として生まれる
同志社で学ぶ
建築工学を学ぶ
京都武徳殿の建築に参加した
1900年 宮内省・農商務省の委嘱を受け
パリ万国で日本建築・庭園模型を出品
1902年 岩崎男爵家の設計技師となる
1910年 日英博覧会の際には、再び宮内省・農商務省の委嘱を受け日本庭園の設計を担当
1911年 岩崎家の建築事務閉鎖に伴って独立し、清水建築工務所を開いた[2]。
1915年 サンフランシスコ万国博覧会では評議員を務めた[5]。
1912年 第11回衆議院議員総選挙に当選
『日刊工業新聞』を創刊
のち『大正民報』と改題
清水建築工務所所長
伊賀耐火煉瓦株式会社社長
播美鉄道株式会社常務取締役
小湊鉄道株式会社取締役
日本ラミー紡績株式会社取締役
湘南自動車株式会社監査役
中央工学校顧問・講師などを務めた
12.田村鎮(1878年 - 1942年)東京府芝区(現在の東京都港区)
華族・田村崇顯の長男として生まれる
1905年 東京帝国大学建築学科卒業
卒業後は陸軍省に入省
1906年 技師に任官
2年間樺太守備隊司令部付
1908年 樺太守備隊司令部付で陸軍技師専任
陸軍臨時建築部本部付
1910年 旧陸軍航空飛行隊の前身である臨時軍用気球研究会御用掛兼勤
建築学会委員にも就任
学会における活動にも積極的にかかわる
1939年 カトリック片瀬教会の木造聖堂(右側の建物)竣工
1920年 陸軍技師を退官
東京の青山一丁目に個人事務所を開設
1927年 片瀬に移住
分譲地の住宅建築
乃木幼稚園 (現・湘南白百合学園幼稚園 )
乃木小学校
乃木高等学校
カトリック片瀬教会の設計も手掛ける
建築家と民俗学者の共同による
民家研究会「白茅会」にも参画している
13.妻沼岩彦(1878年 - 1936年)山形県山形市
アメリカの高等学校入学卒業
1912年 シラキュース大学建築科に進学
卒業後TアンドL
バレル・ホフマン建築事務所などに勤務
1918年 独立
同郷の佐野利器、アメリカ留学して
建築を学んだ松田軍平兄弟らと親交をもつ
病気で引退を余儀なくされる
1922年 米国と日本でいくつか建物を設計
1921年 アメリカ建築家連盟に入会
ニューヨークの建築家連合
日本建築学会の会員
14.井手薫(1879年 - 1944年)
1879年 井手今滋の長男として出生
父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で
山梨県尋常師範学校長、
新潟県尋常師範学校長、
岐阜県海西下石津郡長などを務めた
1906年 東京帝国大学建築科を卒業
同期に岡田信一郎、本野精吾、倉田謙
辰野・葛西建築事務所に入所
辰野金吾のもとで建築設計に従事
1909年 陸軍に入り工兵少尉となる
1911年 台湾総督府技師に就任
台湾総督府庁舎の工事主任となった
1919年 民政部土木局営繕課長事務取扱となる
欧米各国に出張
1923年 民政部土木局営繕課長となる
総督府史料編纂委員、
市区計画委員等の要職を歴任
1929年 総督官房営繕課長
台湾建築学会会長となる
1940年 依願免官
15.國枝博(1879年 - 1943年)岐阜県
1905年 東京帝国大学工科大学建築科を卒業した
1907年 韓国統監府技師に任ぜられる
朝鮮総督府工事の主任技師を務めた
1912年 欧米各国へ出張
1918年 高等官3等に昇叙
退職
正五位に叙せられた
1919年 大阪市に國枝工務所を開設
1943年 64歳で死去
16.古宇田實(1879年 - 1965年) 東京
茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として生まれる
1902年 東京帝国大学工科大学建築学科を卒業
大学院に進む庭園研究を始める
1905年 東京美術学校教授に就任
1907年 文部技師を兼任
1910年 日英博覧会に出展された台徳院殿霊廟模型の
制作を彫刻家の高村光雲と監修
1919年 文部省留学生として建築裝飾硏究のため
インド、英国、フランス、イタリア、
アメリカを回る
1922年 神戸高等工業学校教授を兼任
1929年 神戸高等工業学校校長に就任
1935年 満州国·中華民国に出張
1937年 法隆寺国宝保存工事事務所長を兼任
国宝保存会委員となる
1938年 京都帝国大学の講師も兼務
1945年 神戸高等工業学校を退官
神戸市復興委員嘱託となる
1947年 神戸工業専門学校名誉教授
(後・神戸大学名誉教授)の称号を授与
1950年 杉野学園女子短期大学学長となる
17.田辺淳吉(1879年 - 1926年)東京府本郷西片町
父の新七郎は元福山藩士で宮内省の役人
兄の協一は日本画家として知られる
1892年 高等師範学校附属小学校高等科卒業
1897年 高等師範学校附属中学校卒業
1900年 第一高等学校卒業
東京帝国大学工科大学建築学科に入学
辰野金吾に学ぶ
同期は佐野利器や佐藤功一、大熊喜邦、
北村耕造らで、同期会「丼会」を結成
1903年 東京帝国大学工科大学建築学科卒業
北村耕造と清水組に入社
1909年 渋沢栄一の訪欧米視察団に随行員として参加
1913年 清水組(現清水建設)技師長就任
1920年 清水組を退社
1921年 中村達太郎と中村田辺建築事務所開設
1923年 京都府立第一高等女学校講師を嘱託
1924年 同潤会評議員
1926年 死去、享年48
18.鉄川与助(1879年 - 1976年)長崎県
1879年 大工棟梁の鉄川与四郎の長男として生まれる
1899年 野原棟梁と出会う
1906年 家業を相続し鉄川組を編成する
1959年 黄綬褒章
1967年 五等瑞宝章を授与
19.吉武長一(1879年 - 1953年) 山口県佐波郡牟礼村(現・防府市)
1909年 帰国し、海軍省嘱託
1910年 村井銀行建築部長となる
1913年 吉武建築事務所を開設
1915年 帝国ホテルの新築計画に関わる
F.L.ライトが送ってきた設計図を検討
支配人の林愛作のアメリカ出張の際同行
田園調布の駅前広場を設計した
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