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食を刃にかえない(宣言)

食べることが好きだ。

小さい頃から人一倍、食べるという行為に幸福感を感じていたし、食べものに対する執着が強かった。

でも、そんな私でも思春期以降は「食べる」という行為は「苦痛」だったり「ストレスの解放」として機能するようになった。


私は丸顔がずっとコンプレックスだった。


小さい頃から、父からは「俺に似て丸い顔だな」と馬鹿にされ、親戚からもそういう風な扱いを受けて育った。

体型は一般的だったぶん、生まれ持ったこの輪郭と食欲旺盛な様が、私を「ぽっちゃり」枠に君臨させた。

中学時代は一時、大福と呼ばれていたけれど、まだこの頃は自分の顔に自信があったから気にしなかった。



大学に入り、転機が訪れた。

高校時代、勉強勉強の生活に追われていた私はInstagramとTwitterを同時に始めた。

Twitterは中学時代にやっていた時期もあったけれど、Instagramは初めての経験だった。

写真を撮ること、人とそれを共有することがすきだったし、何より自己顕示欲が高かった私は、Instagramに夢中になった。


そしてこの世界での ものさし を知った。

SNSのキラキラした世界は私を苦しめた。

標準体型でしかない自分と理想とのギャップ。
可愛くて細い数多のモデルたち。


Instagramの投稿を見回しては自分と比較して、マインドもルックスも誇れるものは無いように思えた。

こんなに長年自分の顔・体型を愛そうとしてきたのに。他人からこの顔パーツ体型を冗談まじりに揶揄されつつも自分の顔が体型と思えていたのに。

SNSは世間は時に残酷である。

色白で二重、涙袋を羨んでくれた。
指を細長いと何度も褒めてもらった。
脚長いと褒めてくれた友達もいたし、肌や瞳を綺麗と言ってくれた人もいた。

そんな自分を嫌いになりたくなくて、私はInstagramを消した。

内定者同士で繋がりあったばかりだったけど、あの世界にいられるほどに私は強くなかった。



ただ、今でも私はルッキズムに囚われている。

やっぱり可愛くなりたいし、他人からもそう思われたい。女友達から褒められるのもいいけど、自分の外見を好きと言ってくれるような人にも出会いたい。欲張りなので。

とはいえ生理前はそうもいかなくて、メンタルがやられている分、食欲が大暴走してしまう。
否、メンタルを取り戻そうと食に走ってブレーキが効かなくなったり、寂しさや虚しさを埋めるように口寂しさを埋めようとしてしまう。ひどい時は口の中に米をいっぱいに詰め込んで、咀嚼してかさが増したそれを、飲み込むまいと必死に口から出してゴミ袋に吐き出す、ということを繰り返す。こうすると、口いっぱいにものが詰まって満足できて、また、食欲が止まらない動物的な身体を頭が制止してくれるような気がして。そして嫌いな自分(気に入らない体型・顔の自分)に鞭を打てているような気がするのだ。
ただ、やっているうちに次第に惨めな気持ちになってきて、そんな自分を俯瞰して悲しくなり、目から涙が溢れたところで食欲が止まる。だから不思議なものだが、こうすることで食欲が止まると思うとやってしまう。汚くてごめんなさい。

あと食に囚われたことで言うと、最近はチートデイと称して羽目を外したりもした。お気に入りのインド料理屋に1人食べに行ったとき、持ち前のドケチ精神を発揮してサービスのナン(人の顔2個分くらいある)を1人で3枚も食べてしまった。食べてる最中から血糖値の高まりで動悸を感じていたにも関わらず、美味しいまま終われる2枚目でストップせずに3枚目(とラッシー)も頼んでしまった。流石に食べれなくてテイクアウトして店を出ると、食後の血糖値上昇で動悸が止まらなかった。息を切らしながら家に向かうと、ついてすぐ小一時間意識を飛ばした。流石にアホだった。

これからも私は、食に囚われながら奴を
心の救いとして、そして心への刃として
利用して付き合っていくだろう。


いつか刃に代える日がなくなりますように

そして、心から楽しむだけの手段に代えられますように。

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