見出し画像

母がついた嘘

小学校三年生にもなると、お手伝いを覚え ''小さいお母さん '' を演じるのが楽しかった時期があった。

「こぼさないように!」

「へいへい、すぃませんねぇ、お母さん」

いつも自分が言われている事をいっちょ前に父に注意し、父もそれを面白がった。


当時のマイブームといえば、家中の水回りを掃除する事。隅々まで綺麗にしてから最後にお風呂場の壁を一気に流すと淡い色の付いた水がサーッとタイルを伝って排水溝まで競争する。
私の心の汚れも一緒に流れていくような気がして流す瞬間が快感だった。

汗だくになってひと仕事終えた私に、母はいつもありがとうと満面の笑みを浮かべ頭を撫でてくれた。結婚指輪が当たって痛い時もあるが、ものの10秒くらいの母と子の結びつきが私はたまらなく好きだった。

その日、私は台所のシンクをピカピカに磨き上げようと決めていた。なぜならシンクには見慣れない新しいスポンジがおろしてあったからだ。
新品の硬いスポンジを早速泡立て、ステンレスのシンクに円を描いていく。
行ったり来たりを繰り返し、風呂場同様、最後に水を流すのを楽しみに一生懸命頑張った。一滴の泡も残すことなく水で洗い流し、満足気に母が来るのを待った。

まだかまだかと待ちわびて、階段を降りてくる足音に声を放った。

「お母さん、みてみて!綺麗になった!」

待ちきれず階段を半分登り、母の手をひく。
いつもの母ならここで大きな歯を見せてギュッとしてくれるはずだが、その日は一気に険しい表情になった。一言も発しないまますぐさまキッチンのシンクに向かう。

「あたらしいスポンジあったからそれで洗ったよ!」

いつもと様子の違う母へ余計な説明を加えて、褒められようと必死になった。

「ちょっと!こんなので擦ったらキズになっちゃうじゃない!!」

母が声を荒らげた。

一瞬の大声を食らって、完全に引き攣った私の顔は多分今にも泣き出しそうだったんだと思う。

「でも、ありがとう、ありがとうね」
母は直ぐに私の頭を撫でた。

嘘だと分かった。

私を傷付けないように母は私に嘘をついた。
そんな母の優しさを全身に浴びて、私もまたそんな母に気を使わせた事を悔やんで、泣きべそをかいた。

子供は思っている程子供ではない。
「大きくなったらお母さんみたいなお母さんになりたい」
そう決めた小三の夏の日だった。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?