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恋の水平飛行

39度を超える熱を出した。誰もいない夜道の凍った水たまりの上を裸足で踏んでいるように寒くてなんだか無性に寂しくて孤独感に苛まれていたあたしは朝から布団にくるまって文字通り寝込んでいた。彼が看病に来た。ガチャ、と鍵の回る音がして、合鍵を渡しておいてよかったと思った。狭い1Kなのに玄関までの道のりが遠く感じるくらいにはあたしのHPは擦り減っていた。買ってきてくれたポカリを飲み、冷えピタを貼ってもらって寝たけれど全然下がらなくて、結局病院に行くことになった。彼が何度も電話をかけてくれて、ようやく予約できたところへ連れて行ってもらい(タクシーまで手配してくれた)、個室の待合室に案内され、その間じゅう彼はずっと優しく手を重ねてくれていた。翌日も彼はあたしのために仕事を休んで(彼女の看病をしたいからと正直に職場に連絡していた)、付きっきりで看病をしてくれた。インフルでもコロナでもなかったけれど、熱が下がるのに四日もかかった。彼はもう四日間、あたしの部屋にいる。


穂村弘の『もしもし、運命の人ですか。』という恋愛エッセイ本の中に、こんな文章がある。

恋の始まりのオーラに包まれたふたりは無敵だ。だが、そのような幸福は永遠には続かない。
空港を飛び立った飛行機は、まず急角度で高度をあげてゆく。だが、ずっとそのまま上昇しつづけるわけではない。どこかで必ず水平飛行に移る。「シートベルト着用」のサインが消えて、トイレに行ってもよくなるのだ。
同様に、恋の「ときめき」についても、その上昇カーブが少しずつなだらかになり、やがては水平飛行に変わるときがくる。


恋の「ときめき」を長続きさせるためには、急上昇しすぎないようにすることが大事だ、少しずつ上昇させること、つまり相手に自分の情報を小出しにするのがいい、みたいな話だったような気がする。

この本は、元彼がくれた。元彼とは、付き合ってから寝るまでに三週間もかかった。家に呼んだのもそのときくらい。付き合い始めのそわそわ感が、一か月くらいはあった。元彼とは二年続いて、それはあたしにとっては長いといえる恋だった。

今の恋人とは付き合う前に寝てしまったし、まだ付き合って一か月も経っていないのにもう半同棲状態である。先々週も先週もあたしが彼の部屋に週の半分くらいいて、今週は彼があたしの部屋にずっといる、熱で寝込んでいたからずっとすっぴんだったし、完全にオフのあたしを見せすぎているような気がして、ふと怖くなった。あたしも彼の全部を知ってしまったような気がしていて、もちろんそんなわけはないのだけれど、なんていうか「お楽しみ」がないというか。でももういい大人なんだしと思っている自分もいる。朝から晩まで、つまり一日の生活の始まりから終わりまでをすべて見るというのはそういうことで、でもあたしは彼と同棲したいとは思っていなくて、生活のプラスアルファに恋愛を介在させたかった。でももう遅かった。既に生活の中に彼は紛れ込んでいて、彼のいない生活はもうあたしの生活ではなくなっていて、それが怖くて、でもなんで怖いのかというと幸せだから怖いのだと思う。昔、一目惚れしたボールペンを買う際にインクがなくなったら替えられるかどうかを店員さんに聞いたことがあった、あたしはそういう性格だ。いつも終わりを想像して、どうしたら終わらずに済むかを常に考えて生きている。


朝、彼が準備をしている物音をBGMに夢うつつでいると顔を触られて、「なに」と言うと(あたしは朝は弱くて少し不機嫌になる、めんどくさい女だ)、「ううん、ただ顔が見たかっただけ」と言った彼を確かに愛しく思った。昼、彼のものとあたしのものを一緒に洗濯をしていて幸せを感じたように、彼の下着を干しながら、このまま永遠に乾かなければいいのに、あたしたちの未来もずっとずっと乾かなければいいのにと思うように、テーブルの上に彼がこぼしたコーヒーの染みがついているのを見て心が温かくなるように、あたしは彼のことが大好きだ。あたしの部屋の空気に、彼の匂いが少しだけ混じっている。あたしの部屋から空気が抜けても、彼はあたしのことを愛してくれるだろうか。


もしかしたらたぶん、ふたりのときめきエアラインは今、水平飛行になっているのかもしれないけれど、あたしはきみといろいろな景色が見たい。雨の日でも雪の日でも台風の日でも。たまに流れ星やオーロラが見えたら嬉しい。だから、どこにも着陸しなくていいと思うんだよね。目的地なんてなくたって、ふたりなら上手く飛んでいけるような気がするし。うーん、なんだかなにを書きたいのかよくわからなくなってきちゃったな、とりあえずシートベルトは着用したままでいてね。

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