見出し画像

『海峡の恋』試し読み

こちらは恋愛長篇『海峡の恋』の試し読みページです。
本作の冒頭を公開しています。

海峡の恋(恋愛/原稿用紙233枚)

 奏汰、と呼ぶと振り向いて、こちらにめがけて走ってきた。軽やかに走れるフォームをまだ知らないから、足の裏全体で地面を蹴っていてばたばたと音が鳴っている。たった五メートルくらいの距離なのに、転びやしないかと心配になりながら待つ。風が吹いて、川沿いの、とっくのむかしに花を落として葉の色を変えようとしている葉桜が揺れて音がした。桜が咲いていたのなんてもう半年前のことなのに、いまだにかつて花びらだった茶色い塵が地面に落ちている。奏汰はきゃっきゃと嬉しそうな声をあげながら無事にここまで走ってきて、足に抱きついてきた。一度しゃがんで、奏汰を抱きあげる。産まれたばかりのころに比べるとすっかり首もすわって身体の幹もできて、ずいぶんと重くなったなとおもう。絹恵譲りの色素が薄いすべすべの髪を撫でる。だはあ、と奏汰がからだをのけぞらせながらくすぐったそうに笑った。夕陽の色を映して、鴨川の水面がきらめいている。
「帰ろっか」
 そう言うと、いやあや、と腕のなかで身体を揺らす。ふたたびしゃがんで、足が地面についたのを確かめて手を離す。すると、家の方向にむかって走りだした。三歳児ながら、ちゃんと帰り道がわかっていることにびっくりする。さいきんは抱っこよりも自分で歩いたり走ったりするほうが好きらしい。
 奏汰が突然立ちどまる。なんだろうとおもって見ていると、振り向いた。
「ぱぱ、てて」
 その場で地団駄を踏むように飛び跳ねる。てて、とはなんだろうと考えつつ奏汰のところまで走った。
「なあに?」
「てーてするの!」
 ジャンプしながら、奏汰はこちらにむかって精一杯腕を伸ばす。どうやら、てて、は手を繋ぐことらしい。こっちも手を出して、差し伸べられた手を掴んだ。肩をすこし下げないと手が掴めなくて歩きにくいけれど、自分の子どもと一緒に歩くことの喜びのほうが大きくて、土手から道路に上がる階段に辿り着いたころには歩きにくさなんてどうでもよくなっていた。いままで、いろいろなひとの、うまく動かないいろいろな身体に触れてきたけれど、奏汰の手は誰のどんな皮膚よりも柔らかくて温かかった。


 八時には正面入り口にお年寄りの行列ができて、八時半にもなると待合スペースの席が来患でいっぱいになる。いつ見ても、京都西病院に来るひとの多さに圧倒される。そのなかに自分が担当しているリハビリ患者を三人くらい見かけて、三人かける三十分で十時半までは休憩なしだなと頭のなかで計算した。診察時間がはじまってから来院するひともいるからそんな計算をしたところでとくに意味はないのだけれど、いつもなんとなく計算してしまうのだった。
 待合室を通り抜けて、リハビリテーション室に入る。入ってすぐのところで夏壁先生がリハビリ患者のカルテを担当スタッフごとに仕分けている。
「おはようございます」
「ああ、明日谷先生、おはようございます。今日はもう三人来てはりますよ」
 夏壁先生が、三人、ということばを強調しながら右手の人差し指と中指と薬指をたてる。五十年生きて、この仕事と家のことをしてきた、皺が深く刻まれてビニールみたいにつるつると光を反射する指だった。
「今週もフル出勤ですか?」
「フル出勤です」
「ひゃあ、大変」
 夏壁先生はぎゅっと目をつぶって半袖のケーシー白衣からむきだしになっている二の腕をさする。こういう仕草をする夏壁先生はいかにも関西のひとという感じがした。こっちのひとはなにかと身振りと手振りが大きくてびっくりしてしまう。大学生のころからこっちに住んでいるし、絹恵もこっちのひとだから、関西のひとのそういうところにそろそろ慣れてきていてもいいはずなのに。
 部屋の奥に並ぶリハ医のデスクにむかい、自分の席についた。デスクの上は古い型のノートパソコンを囲むようにして専門書が山積みになっている。片づけなければならないとおもいつつ、本棚がないからどこに移動させればいいのかわからなかった。他のリハ医のデスクは整理整頓が行き届いていて、本の山があったとしてもカルテを書くスペースがちゃんとある。入り口にいる夏壁先生がリハビリ患者からカルテを受け取ったり、患部を温めるためのホットパックを渡したりしているのを背中で感じつつ、専門書が崩れないようにそっと積みなおした。そうしているあいだに他のリハ医たちも出勤してきて、時間になるまで談笑したり資料を読んだりしていた。
 診察はじめます、と室外の総合受付から声が聞こえてきて、待合スペースで診察開始時間を待っていたひとびとの動く気配が強まった。顔をあげて壁掛け時計を見ると、ちょうど九時になっている。振り返るとリハビリ患者がリハビリテーション室にぞろぞろと移動してきていた。ざっと数えて二十人くらい来ている。今日は週明けというのもあって人数が多い。天気予報に反して曇っているから、雨が降るのを怖れて早目に来院しているひともいるのかもしれなかった。
 夏壁先生が腕いっぱいにホットパックを抱えているのが見えて、席を立って駆け寄った。
「手伝います」
「ああ、大丈夫ですよ。あ、せや、池さんのパック回収したげてください。一番、池さんやし」
 入り口から入ってすぐのところの壁に沿って並んでいるリハビリ患者用の待合椅子のほうに目配せをしてから、夏壁先生は早歩きでホットパックの保温器にむかう。椅子には膝にホットパックをのせて待機している池さんの姿があった。紫陽花みたいな青紫色のTシャツと黒いジャージのズボンという軽装で、薄いピンク色のパジャマ以外の服装を見るのははじめてだった。
「池さん、おはようございます」
「あ、明日谷先生。おはようございます」
 挨拶をしながらこちらを見上げた池さんは笑顔で、入院中と比べると顔色がいい。
「パックもらいます。退院されてからはじめてですよね?」
「はい、そうです」
「じゃあ、今日からまたリハビリしていきましょう。あっちのベッドまで移動しましょうか」
「はい」
 待合椅子の正面に設置されている牽引器のさらにむこうに並ぶベッドを示してから、ホットパックを保温器に戻しにいく。それからベッドへと歩きはじめている池さんのもとに行って、すこし後ろからついて歩く。池さんは杖をつきながら、かくん、かくん、と左足をすこし引きずり、右足を出すたびに右に重心が傾く歩きかたで、ゆっくりと進んでいく。ほんとうは手を貸したほうが早くて、池さんも安心して歩けるのはわかっているけれど、よっぽど危なくならないかぎりは手伝わずに見守る。ベッドに辿り着くまで、健康な足なら十秒くらいで済むところを三十秒以上かけて池さんは歩いた。
「ちゃんと歩けましたね。膝の具合はどうですか?」
「そうですね、まだうまく曲がらないです」
「座りましょうか」
 右肩と腰を支えると、池さんは慎重にベッドに腰をおろしていく。うまく座れたのを確認してから、肩にずっとかけていた黒いショルダーバッグと杖を預かってベッドの下にある荷物入れのかごに入れた。それからこちらも隣の空いているベッドに座って、池さんを観察する。足はともかく、身体の他の部位に異常はなさそうだ。
「痛みはありますか?」
「歩くぶんにはないんですけど、ぐうって曲げようとすると痛いですね」
 ぐう、ということばを丁寧に発音しながら胸のあたりで膝を抱く仕草をする。そういえば、退院のときに無理をしない程度に膝を曲げる練習をするようにと言っておいたことをおもいだした。池さんはそれをちゃんと守っていたらしい。
「わかりました。じゃあ……」
 リハビリの目標を、と話そうとして、池さんのカルテがないことに気づく。ボックスから持ってくるのを忘れていた。
「すみません、ちょっと待っててくださいね」
 立ちあがって、さっき池さんが歩いてきたところを通る。ふと、年配のリハビリ患者が並んで座っているなかに若い女性がいるのを見つけてもう一度見る。ホットパックを左手に当てながら、すこし俯いてスマートフォンをいじっていた。この病院の周辺の地域は高齢者が多く住んでいるから患者の年齢層もおのずと高く、若いひとが来院しているのは珍しかった。リハビリの受付まで行って自分の名字が書かれたボックスから池さんのカルテをクリアホルダーごと抜きとる。ついでにさっと他のカルテに目を通した。池さんの次は前川さんと塩見さんの順のようだ。待合スペースで見かけたひと以外のカルテは入っていない。なんとなくほっとした。
「ああ、明日谷先生」
「はい?」
 声がしたほうを見ると、夏壁先生が牽引器を患者の頭にセットしていた。それからスタートボタンを押して、こちらに視線をむける。
「池さんの次なんやけどね、前川さんと塩見さん先に診察行ってはるし、新患の徳永さんお願いできますか?」
「徳永さん、ですか?」
 池さんのカルテを小脇に挟み、新患と書かれたボックスに入っているカルテを取りだして担当医による所見を読む。七月二十九日に初診、左手小指を負傷、レントゲン撮影で骨性マレットフィンガー、いわゆる突き指骨折が見受けられる。八月三日に経皮ピンニング術を行う。その後週に一回から二回の消毒を経て、九月六日に抜針する。そして今日、九月八日に経過観察を行ったところ小指が曲がらないためリハビリ開始とあった。
「徳永さんって、指のリハビリですよね? 友沢先生は?」
 リハビリの部位ごとに専門のリハ医がいるというわけではないけれど、この病院のリハビリテーション科では指や手や腕のリハビリは友沢先生が担当するという流れがなんとなくできていた。中川先生と山内先生と自分がその他の部位を、夏壁先生が牽引器や電気を使う物理療法と受付を担当している。
「今日来てはったらお願いするつもりやってんけど、友沢先生お休みしてはるし」
「そうですか」
 言われてみれば今日は友沢先生の姿を見ていなかったなとおもいあたる。
「あ、患者さんいっぱいいっぱいですか? もう見れなさそう?」
「いや、大丈夫です。新患連絡ってまだですよね?」
「せやね。後でお願いできる?」
「わかりました」
 あのカルテの内容からすると経皮ピンニング術を行なったあとに指が曲がらなくなるというのは一か月ものあいだ指を動かしていなかったゆえに起こる関節の皮膚の癒着か、どこかのタイミングで伸筋腱を断裂してしまったかのどちらかだろう。徳永さんのカルテを自分のボックスに入れて池さんが待つベッドに戻る。池さんはベッドに腰かけたまま、足を床につけたり浮かせたりを繰り返していた。これも時間があるときはこういった軽い運動をしましょうと入院中に教えていたことだった。手術後の入院期間からリハビリを担当していたからわかってはいたけれど、池さんはとても真面目なひとだ。こういう性格のひとほどリハビリが長く続きすぎるとくじけたときの反動が大きくなってしまうから、早くふつうに歩けるようにしてあげたい。けれど焦りは禁物だ。ゆっくりと、無理せず、丁寧に。頭のなかで大事なことを反芻する。
 池さんが顔をあげて、ああ先生、と言って足の運動をやめた。ふたたび隣のベッドに座って池さんとむきあう。
「お待たせしました。ええと、これからやっていくリハビリの目標なんですけど、どういった動作がスムーズにできるようになりたいですか?」
「やっぱり、正座ですね。正座できひんかったら仕事にならへんから」
「お茶の先生、ですよね。じゃあ、正座ができるようになって仕事復帰することを目標に進めていきましょう」
 クリアホルダーに挟んであったリハビリの目標管理表に、正座、仕事復帰、茶道と書きこむ。それからカルテに目をとおす。所見欄に、ゆっくりリハビリ、頑張りすぎない、と担当医の走り書きがある。担当医も池さんの性格をよく知っているのだった。
 池さんに仰向けに寝てもらって、自分も左足のほうに移動してベッドに乗って膝立ちをする。
「じゃあ、左膝がどれくらい曲がるか見ますね。痛かったらすぐに言ってください」
「わかりました」
 左足の太ももをほぼ垂直まで持ちあげる。池さんはもともと細身だけれど、足を動かすことができなかった期間に筋肉が落ちてしまったせいで左足の太ももがより細くなってしまっている。ここの筋肉が戻ってきてくれれば足の曲げ伸ばしもすんなりとできるようになるだろうけれど、それまでに何か月かかるだろう。膝を曲げてください、と指示すると池さんがすこしずつ膝を曲げる。見たところ、八十度くらいのところで動きがとまっている。
「これ以上は無理ですか?」
「そうですね。なんやろ、その先までは力が入らへんみたいな感じです」
「痛みは?」
「ないです」
「ちょっと力入れますね」
 太ももを右手で支えつつ、左手で脛を軽く押す。池さんの力では八十度でとまっていた動きが、九十度に近づいていく。もうすぐ直角を超えるというところで、池さんが痛いですと訴えた。すぐに脛を押すのをやめて、あげていた太ももをゆっくりとベッドにおろす。
「自力で動かすのを自動、手とかの力を借りて動かすのを他動っていうんですけど、いまのところ自動は八十度くらい、それから他動だと九十度近く動きます。だから、まずは自動でも九十度まで動かせるようにやっていきましょう」
「はい」
 池さんはうなずいたものの、先ほどまでよりも笑みが淡くなっていた。頑張れ、とこころのなかで言ってみる。頑張れと言うのは簡単だけれど、頑張る本人がどれだけ大変かは自分も足の怪我をしたことがあるからよくわかる。ほんのすこし前までは自由に動かせていた身体がある日をきっかけに不自由になるのは、悔しくて、悲しくて、もどかしい。いちばん怖いのは手術だけれど、手術にかかる時間よりも、その後身体を元どおりに動かせるようにリハビリをしていく時間のほうが果てしなく長い。とくに、池さんの怪我は靭帯損傷が由来していて、せっかく治療した靭帯をふたたび傷つけないように気を遣わないといけないから、さらに時間がかかる。
 これ以上気が滅入らないように、入院中からよく聞いていた家族やお茶の教室の生徒さんのはなしをしてもらいながら左膝の運動を進めた。基本的には池さんの力で膝を動かしてもらって、ときどきこちらから手の力を加えて痛みが出ない角度まで曲げてキープする。靭帯が治るまで動かしていなかっただけあって、膝の関節が硬くなっていた。硬さを比べようとおもって右膝に触れようとして、そういえばと寸前で手をとめる。たしかあれは膝のあたりだったはずだ。
「火傷、大丈夫ですか?」
「え?」
 池さんが枕の上で首をかしげるように動かす。
「いや、その、入院されていたときの……」
「あ、ああ、あのときの。もうすっかり治ってますよ。よう覚えてはりますね」
 わたしすっかり忘れてましたわあ、と池さんが笑った。それなら大丈夫だとあらためて右膝に手を当てた。
 一か月前、病棟の休憩所から悲鳴が聞こえてきて、駆けつけてみると池さんが松葉杖ごと倒れている状態から必死に立ちあがろうとしているところだった。紙コップに注いだばかりの熱いほうじ茶を右足にこぼした拍子に、松葉杖が脇から離れて倒れてしまったらしかった。ただでさえ左足がうまく動かないのに右足まで火傷の痛みで動かせなくなった恐怖で池さんは泣きじゃくり、看護師さんが持ってきた車いすに乗せて病室まで連れていったあとも憔悴しきっていて、その日はリハビリを断念したほどだった。
 右膝の関節は柔軟に動いて、つまりこのしなやかさを左膝に取り戻すのがリハビリのゴールだ。ここまで動かせるようにするには、と考えだしてふと視界に入った壁掛け時計が九時半を示している。池さんのリハビリを終える頃合だ。
「じゃあ、今日はそろそろ終わりにしますね。おつかれさまでした」
「はい。ありがとうございます」
 池さんが起きあがろうとして、失敗したのか一度ベッドに背中をつけた。太ももに力がうまく入らないせいだろうか。腹筋が弱いのだろうか。両方かもしれないとおもいつつ、ふん、と力みながら背中をあげたところにすかさず右腕を入れて、身体を起こすのを手伝った。
 杖をつきながら待合椅子にむかってとてもゆっくり歩く池さんの後ろ姿を眺めつつ、ベッドにカルテを置いて今日のリハビリの内容を書きこんだ。ボールペンを動かすたびにカルテがベッドに沈んでしまって書きにくい。いまの段階で自動八十度だと、膝を完全に曲げて正座できるようになるまで最低でも半年はかかるだろうなと予測した。書き終えたカルテを持って池さんに渡しに行く。池さんはちょうど椅子に辿り着いたところだった。
「池さん、お待たせしました」
 池さんが振り返ろうとする前に、先に正面にまわりこんでカルテを渡した。
「次はいつ来られますか?」
「そうやねえ、明後日、ですかね」
「わかりました」
 ありがとうございます、と軽くお辞儀をして池さんはまた歩きだした。リハビリ室から出ていくのを見送ってから徳永さんのカルテをボックスから取りだし、早速次の仕事に取りかかった。ボックスのすぐそばにある電話の子機でナースステーションにかける。声だけではどのひとかはわからなかったけれど、すぐにむこうのスタッフが出た。
「リハビリテーション科の明日谷です。外来の新患さんの連絡です」
 スタッフの指示に従ってカルテのナンバーを告げ、氏名欄を読みあげる。
「徳永―」
 あ、とおもう。
 この名前を、おれはよく知っている。
 待合椅子に座っている若い女性に目をむけた。ハーフアップに結われた黒い髪。まどかで大きく、けれど涼しげな雰囲気の瞳。程よく高い鼻。薄いくちびる。たしかに、そのひとだとおもって見てみると記憶のなかの女の子とよく似ていて、そのまま大人にしたかのような姿だった。
 明日谷先生? とスタッフの声が受話器から耳に入ってきてはっとする。
「ああ、すみません」
 なぜだか口のなかが乾いて声色が変になった。無理やり唾を出して飲みこむ。
「徳永陽菜子さんです」
 はい、了解しました。名前を読みあげるのに変な間をつくってしまったけれどとくに咎められることもなく新患連絡を終える。女性のほうを見ると夏壁先生がホットパックを受けとっているところだった。
 呼ばなくては、とおもう。
 今度は彼女を呼ぶために、この名前を。
 カルテを持って目の前まで行く。彼女と目をしっかりとあわせて、口角をあげた。
「徳永陽菜子さん、お待たせしました。あちらに移動しましょう」
「はい」
 透きとおって、けれど芯のある耳に心地いい声。返事をした声が記憶どおりのもので身体が硬直するような感覚に襲われた。なにを緊張しているのだとこころのなかで自分を叱責する。どんな患者でも、いつもどおりやれば大丈夫だ。そう言い聞かせて池さんのリハビリを行なったのとおなじベッドまで彼女を誘導する。ベージュのフレアスカートが膝許でふわりと揺れているのがなんだか物珍しかった。きっとリハビリにやってくるひとのほとんどが動きやすさを重視してズボンを履いてくるからそうおもうのだろう。
 おたがいにむかいあってベッドに腰かける。左胸につけている名札に触れる。
「今日からリハビリを担当します、明日谷といいます」
 彼女の目が名札に書いてある文字を読んでいるのが見てとれた。名札はフルネームで表記されているし、しかもあまりない名字だから憶えていれば気がつくだろう。
「えっと。朔くん、ですよね。わたしのこと憶えてますか?」
 こちらの様子を伺うように小首をかしげる。よかった、と安心している自分がいた。いまはまだ他所行きの話しかたをしているけれど、ほんとうはいたずら好きで、この透明感のある声で、綺麗な発音で話すその口で、すぐにひとをからかうようなことを言うのをおれは知っている。
「うん。ひさしぶり」
 むかしからの知りあいとはいえこの場でフランクな口調でやりとりをしていいのだろうかと話しはじめてから気になったものの、これは依怙贔屓や下心があってやっていることではないのだから大丈夫だとおもうことにした。
「よかった、憶えててくれたんだ。リハビリ、よろしくお願いします」
 ほっとしたように彼女は微笑んだ。ふわ、とベッドのすぐそばの窓にとりつけられている白いカーテンから外光が淡く漏れだして彼女を照らす。診察がはじまる前は曇っていた空が晴れ間を見せたらしい。
 このひとが、十七年前に好きだったひと。
 そして、おれのことを好きだとおもってくれていたひと。
 そうおもうと懐かしさと気恥ずかしさがこみあげてくる。
「えっと……指、どうしたの?」
 こちらの感情を悟られないようにまずは左手のことを聞いてみる。外来ではじめて会う患者に怪我について聞くのはいつもやっていることなのに、徳永さんが相手だとなんだかもどかしいようなきもちになった。徳永さんは左手をこちらに差しだし、甲のほうをむけて指をひろげる。親指から薬指までの四本の指がまっすぐに伸びているのに対して小指の第一関節だけがゆるやかに曲がっている状態で、関節のそばには丸くて黒い瘡蓋がついている。経皮ピンニング術の痕だ。ここに太い針金のようなピンを挿しこんで、指を突いた拍子に伸筋腱に引っ張られて小さく割れてしまった第一関節の骨を元あったところに癒合するまで固定していたのだろう。
「それがこの歳になって恥ずかしいんだけど、自転車で転んじゃって」
「じゃあ転んだときに突き指骨折を?」
「うん。手、おもいっきり突いちゃって」
「なるほど。ちょっと待ってて」

<※続きは冊子版またはkindle版をご購入ください>

----------

入手方法

『海峡の恋』冊子版はBOOTH通販にて900円+送料でお求めいただけます。送付方法はあんしんBOOTHパックとクリックポストをご用意しておりますので、おすきなほうをお選びください。
(※1/27現在、増刷中のため予約注文を承っております。2/8以降に発送させていただきます)

kindle版もございます。冊子版よりもお求めやすい385円となっておりますので、こちらもぜひよろしくお願いいたします。

----------

イベントでの頒布情報(22.1.27時点)

2022.11.5(土)13:00~翌日12:00 第4回紙本祭

※5月・11月の文学フリマ東京、9月の文学フリマ大阪、来年1月の文学フリマ京都は出店検討中です。決まり次第お知らせいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?