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『nice meeting you』試し読み

こちらは短篇集『nice meeting you』の試し読みページです。
「碧がはじく」「耳を鬻ぐ」「水のすみかで」の冒頭を公開しています。

碧がはじく(恋愛/原稿用紙30枚)

 午後四時の海を見ている。あまり波がたたない、もう凪いでしまいそうな、秋のはじめの静かな海だった。時をとめるような、ただの水面として空をうつして光っているだけの海。ささやかな風がさらってきた潮の香りをこの身に受けながら、そういえば、天使が通るということばがあったなとおもう。綺麗で、恐ろしくて、無音のことばだ。
 なにも言えないでいた。
 三角ずわりをしている膝を抱きなおす。これといって触ったおぼえはないのに手のひらには砂がついている。飲む? と聞かれて、いい、と返事をしてからずっと砂浜に差しこまれている二本の缶コーヒーは、まだ熱をもっているだろうか。缶コーヒーを隔てて隣にすわっている遼平は砂浜に手をついて背をそらしながら、おなじ景色を目の当たりにしているようで、たぶん違うものを見ている。
 メビウスの煙草のにおいが。
 節くれだった指の堅さが。
 ひかる、と呼ぶ声が。
 日常の感触のするおもいでが強く押し寄せてから、ふっと遠くなった気がした。波がひいて音が海底に消えていくように、いつかわたしは、すきなひとをすきであったという記憶さえも忘れてしまうのかもしれなかった。
 止まることのない時間をたゆたっているうちに、甘くも苦くもない、無機質なおもいでに変わって。
 無声映画よりももっと静かなことばになって、海馬から零れていく。
 せめてそのさいごの瞬間まで、わたしは、いま隣にすわっている遼平のことを憶えていたかった。

  ○  ○  ○

 あまりに長いキスをして、息が苦しくなってきたころ、くちびるを離すと同時に眼裏が白く眩んだ。遼平も達したみたいで、しばらくからだの震えをとめるように目をぎゅっととじてから、遼平はわたしのうえにゆっくりと体重をのせて覆いかぶさった。
「……すき」
 大きく息をついてから、遼平がかすれた声で言う。
「うん」
 背中に腕をまわして、こんどはくちびるを重ねるだけの軽いキスをする。遼平も寝そべっているわたしのからだとベッドのあいだに手を差しいれると腕に力を入れた。つきあいはじめてから何度もおなじようなことをしているけれど、おたがいが達したあとにキスをしたり抱きしめあったりするのがすきだった。からだを繋ぎあわせたまま、満足感とちょっとした疲労感でまどろみながら。
 それは、すごく愛しあっているような気がした。
 それが、愛というものだとおもっていた。
 しばらくそうしたあと、遼平はいったん起きあがり、わたしのなかからペニスを引き抜いてコンドームを剥ぎ取った。
「量、多いね」
「抜いてなかったから」
「忙しかったの?」
「違うよ。会うまで我慢してたんだって」
「なにそれ。それって喜んでいいの?」
「喜んでよ」
 遼平が笑う。わたしも笑った。ありがとう、とすこしふざけ気味に言ってみたら、どういたしまして、と遼平もおどけた口調で返事をした。コンドームの口を結んで後始末をおえると、遼平はふたたびベッドに潜ってわたしのからだに腕をまわした。遼平の腕は必要最低限の表皮が骨を覆っているだけのようで、けれども見ためよりも皮膚が柔らかくて、力強い。抱きあうようになってから知ったことだ。
 ときどき眠りに深く意識が吸いこまれてはふと目が覚めるのを繰り返しているうちに、遼平がわたしから離れて部屋の電気を消した。それから、隣でスマートフォンの画面が光るのを感じて、わたしは遼平に背をむけるように寝返りをうつ。きっと、見てはいけないことだから。
 なにをしているのかは知っている。
 メールをうっているのだ。
 遼平が枕もとにスマートフォンを置いたような気配を感じた。メールの送信が済んだらしかった。そして、間をおかずにバイブレーションが短く鳴った。そのせいで、気づきたくなくても気づいてしまう。
 たぶん、遼平は存在していないアドレスにメールを送っている。
 布団がすれる音がして、わたしの腰に遼平の手が触れ、ゆっくりと抱き寄せられた。首もとにかかる遼平の呼吸がくすぐったかった。そうしてまた眠気に襲われて、まぶたが重たくなっていった。

<※続きは冊子版またはkindle版をご購入ください>

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耳を鬻ぐ(ヒューマンドラマ/原稿用紙100枚)

 九時にコンビニの前で、と約束をして八時四十五分に待ちあわせ場所に向かったら野田坂さんはすでに来ていて、コンビニで買ったらしい缶コーヒーを飲んでいた。四月に着ていたジャケットを五月のきょうは着ておらず、ワイシャツの袖を捲っている。
「どうも」野田坂さんはわたしの姿をみとめて言った。
「どうも、です」わたしは野田坂さんのことばをほとんど鸚鵡返しにする。
「行きましょうか」
「はい、行きましょう」
 朝に弱そうなひとだ、と眠たげに細められた目を見ておもう。野田坂さんは車を停めているらしい方向へと歩きだし、途中で缶とビン用の青いごみ箱に空き缶を放りこんだ。
 車のエンジンがかかると同時にカーナビらしき液晶画面に「浜崎あゆみ/SEASONS」という楽曲情報とジャケット写真が表示されてカーオーディオが流れはじめた。英語の、季節、という単語は海と息子が一緒くたになっている。春も夏も秋も冬も、みんな海で産まれてやってくるのだ。だからここのところ家から出ずに過ごし、海からやってくる風を目一杯に浴びなかったわたしは季節に置いてけぼりにされた。気温二十六度のなかで灰色のトレーナーを着込んでしまっている。溢れるように咲く躑躅も盛りを過ぎてちらほらと枯れはじめているというのに。
 他県の緊急事態宣言が解除されたのにあわせて今週から一部の業務が再開することになったものの、仕事に行くのが面倒くさくなって通勤障害などという通勤電車に乗れなくなる病気をでっちあげたら、野田坂さんに車で迎えにきてもらうことになった。職場では店長にしか教えていなかったはずのLINEのIDはいつの間にか野田坂さんに渡っていて、野田坂さんのフルネームは野田坂慧介だといまさら知り、合流場所としてさして気にしたことのなかったコンビニの店名が書かれたメッセージが送られてきた。地図アプリで店名を入力するとわたしが住んでいるアパートのすぐ近くのコンビニで、わたしは指定の時間になればそこに出向き、野田坂さんに拾われて出勤せざるを得なくなった。休業要請が出ていたあいだはたるんだ紐のようになっていた時間が、ちぎれんばかりに引っ張られて、一気にまっすぐになって、わたしを嘘のような現実からほんとうの現実に引き戻した。
 あゆ、野田坂さんの青春。
 と、勝手に推測した情報をこころにしまう。野田坂さんは隣の部署のひとで、顔は知っているけれどあまり話したことはない。
 車はコンビニの駐車場から大通りに出て、職場とは反対の方面に一旦逸れてから左折を繰り返してふたたび大通りに戻ってくる。このあたりは駅が近くにあって便利だけれど、車だと右折禁止や一方通行が多くて目当ての道になかなか辿り着けない。ツーリングがすきな幸也がそうぶうたれていた土地にわたしは住みつづけている。
「お元気でしたか?」野田坂さんの声は低く、耳へ穏やかに滑りこんでくる。
「まあ、はい」わたしの声は感情をこそぎとって残った空虚さでできている。
「でも、ずっと休んでていきなり電車の人混みなんて、病気にもなっちゃいますよね」
「……そうですねえ」
 そうか、元気だとまずいのか。わたしは通勤障害を患っていることになっているのだった。職場のひとたちはみんな信じてしまっているようだけれど、インターネットかなにかで調べようとはおもわなかったのだろうか。横目で野田坂さんを視野に入れる。運転をしていて正面を向いているうえにマスクをしているから表情はわからない。「SEASONS」の次もあゆの曲だったらファンなのかもしれないとおもったけれど、織田裕二の「Love Somebody」が流れだす。ふつうだったら、織田裕二すきなんですかとか、踊る大走査線すきなんですかとか、ちょっと尋ねるくらいのことをするのかもしれない。けれどわたしは訊かずに、これも野田坂さんの青春のひとつだと勝手に解釈する。
「このあたりに住んでるんですか?」
「はい。あ、ちょうどそこのアパートです」
 え、と野田坂さんは呻くように言って、すこし前のめりになって助手席越しに左側の歩道の奥を覗く。そこにはほんの十分前に出てきたばかりのメゾン卯月が、風でも吹けばぱたんと倒れてしまいそうなおんぼろな見た目で建っている。
「ぼくもずっとこのあたりに住んでますけど、あそこに住んでるってひとはじめて見ました」
「ああ、よく言われます。ごみ出しのときに近所のひとにびっくりされますね」
「そりゃあね、ひとが住んでる気配ないですから。でも、店長に仲津さんを迎えにいってほしいって言われてなんでぼくなんだろうっておもってたんですけど、ご近所さんってことだったんですね」
「みたいですね」
 そう話しているあいだにも景色は車とおなじ時速で過ぎ去って、メゾン卯月のことはもうはるか後方の出来事になっている。時は速さを変えたとしても前にしか進まない、そのことにどれくらい擦り切れて、どれくらい救われているのだろう。いまごろあのアパートでは隣室の夢野ちゃんが大学のオンライン授業を受けている。
 MISIAの「Everything」が流れはじめる。
「収入減って大変でしょう。うち、保障がいまいち行き届いてないですし、退職しますっていうかたも多いんですよ。こっそりダブルワークしてるひともいますし」
「へえ」
「仲津さんもそういうの考えたりします?」
「ううん、そうですねえ……」
 車道の信号が赤に変わって車が停止する。すぐ目の前の横断歩道を一人の歩行者がとぼとぼと渡っていく。ここは緊急事態宣言がとかれていないから人出はまだ戻っていない。ふっと発生した未知の感染症は、人間からここ数百年の営みを切り離してしまった。
「……あんまり、気にしてないですね」
 答えるか否か一瞬悩んだことは言わないことにして、すると、そうなんですね、と野田坂さんが相槌を打って会話は流れ去っていった。わたしは話題を提供しようともせず、なにも訊かないでいて、ならばせめて相手の問いかけには答えなければならないのに裏切っている。野田坂さんがそんなことを気にしているとはおもわないけれど、それでも後ろめたさがこころに重く溜まった。
 電車では乗り換えも含めて三十分近くかかる道のりが車ではあっという間で、野田坂さんは職場の前に車をつけると、いまは通用門しか開いてないんですよ、と教えてくれた。お礼を述べてそそくさと降車する。通用門へと歩いていき、警備員に体温計をかざされてから振り返ると、野田坂さんの車はわたしを降ろした場所から離れて車の列に加わっていくところだった。
 光明館の購買の奥にある書籍部の店舗は新刊の段ボールや雑誌の包みがレジ前に山積みにされていて、来客が絶対にないとはいえ接客をする気がない。大滝大学図書館、と伝票に書かれている雑誌の束を探しだし、配送日を確認すると四月二十日から放置されているらしかった。きょうは五月二十日だから、これから一か月ぶんの仕事を片づけなければならないらしい。
 時の滞留。
 わたしは更衣室にかばんを置いて、四月二十日に到着した雑誌の束をレジの奥にあるじぶんのデスクまで運ぶ。けれど、デスクには学会誌や機関誌の入った封筒が堆く積まれていて置き場がなく、こっちをさばくのが先かと元あったところに雑誌を戻した。そこに公務員講座のブースに向かおうとしている野田坂さんが通りかかる。
「すごいでしょう、この散らかりよう」
 ふと視界の隅で本のポップが落ちているのを見つける。なにもポップまで落ちなくてもいいじゃないかと変な癇癪を起しそうになる。
「あの、大丈夫ですか?」と、野田坂さんは心配してくれる。
「まあ、なんとかしますよ」と、わたしは架空の病をでっちあげるほど仕事に行くのが嫌だったのになぜだかやる気をだしている。
 野田坂さんのほうは大丈夫ですか、と訊けばよかったかもしれないとおもった。

<※続きは冊子版またはkindle版をご購入ください>

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水のすみかで(ヒューマンドラマ/原稿用紙10枚)

 おもいだすことのしなやかさは傷ついた躰で海に潜る残酷さに似て、だからひとは忘れて、気がつかないうちに救われていく。
 七時のアラームで早瀬が起きだしてくるまえに、数は朝食用の卵焼きをつくりはじめる。ボウルに割り入れるふたつの卵はあたりまえのように無精卵で、どうして雌鶏は子どもにならない卵を産むことができるのだろうかと不思議がってみても、数はそれを当然や宿命とも決めないで、おもいは時の経過に任せて思考の下流へと去っていく。白だしと上白糖をすこし加え、黄身に菜箸を差しこむと丸みはいともかんたんに崩れて、ぬるぬるとひかる白身のなかに流れだす。こういうことに罪悪感を抱くことのできる人間だったなら、と数はおもう。些細なことにも大胆に傷ついて、すぐに生きてゆけなくなってしまうような命になれたなら、なにもかもを憶えていられるんじゃないか。火にかけた卵焼き器の、金属とサラダ油が熱されていくぼわぼわとしたにおいのなかで数は途方もないことを考えるのだった。卵焼き器を濡れ布巾にのせて一旦冷ましてから卵液をすこしずつ流しこむ。橙の色味のつよかったのが純粋な黄色へと徐々に変化していく。表面が固まるのを待っているあいだに昨晩の残りの味噌汁を冷蔵庫から取りだして火にかけ、いちにちの最初にコーヒーを飲まないと日中起きていられなくなるという早瀬のために、白や黒や金や銀や、さまざまな色にくすんだ雪平鍋でお湯を沸かす。ふたりが生活をともにするようになってまだ間もないころ、お味噌汁もコーヒーも飲んでお腹たぷんたぷんにならへんの? と数が尋ねると、せやなあ、人間の躰なんてほとんど水でできてるしはじめっからたぷんたぷんやで、と早瀬は答えた。そういうものなのだろうかと数は首をかしげたけれど、学生時代に生物学を専攻していた早瀬が言うことだからもっともらしく聞こえたし、突き詰めてまで正確な解答を求めるようなことでもなかったからこの話題はそれきりで終止符が打たれた。

<※続きは冊子版またはkindle版をご購入ください>

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入手方法

『nice meeting you』冊子版はBOOTH通販にて900円+送料でお求めいただけます。送付方法はあんしんBOOTHパックとクリックポストをご用意しておりますので、おすきなほうをお選びください。

kindle版もございます。冊子版よりもお求めやすい385円となっておりますので、こちらもぜひよろしくお願いいたします。

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イベントでの頒布情報(22.1.27時点)

2022.11.5(土)13:00~翌日12:00 第4回紙本祭

※5月・11月の文学フリマ東京、9月の文学フリマ大阪、来年1月の文学フリマ京都は出店検討中です。決まり次第お知らせいたします。

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