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『君たちはどう生きるか』とは宮崎駿の怒りである─【ネタバレ解説・考察】─

観ましたか?『君たちはどう生きるか』
観てないならこのnoteまったく意味ないので、とっとと閉じてOKです。

いやー事前に予想されていた宮崎駿の説教なんてとんでもない、本作は宮崎駿の怒り、憎悪、怨念である。綺麗事を拒み最後の最後にこれやる宮崎爺さん恐るべし。
以下完全ネタバレで、宮崎駿が何に怒っているのか公開初日の勢いで書き出して解説・考察していきます。

疎開先の邸宅で庭に立つ塔の原体となった宇宙からの飛来物は、少年時代から宮崎駿に備わっていた天賦の絵描きの才能のメタファー。
それを人工物で囲って塔にした大叔父=宮崎駿、塔=飛来物を補強する人工物=宮崎駿の才能を補強するため大叔父(宮崎駿)が作り上げた特異集団スタジオジブリのメタファー。

異世界に迷い込み、墓場の門に掲げられる標語「我を学ぶものは死す」は芸術、アニメ、ジブリへ入る者への「命を懸けろ」という心構え(宮崎駿はこの気概でやってるというメッセージ ※原文はたしか漢文の一節「学我者死」だったと思う)
(※追記:調べたら「似我者生 象我者死」が原文だった。「我に似せる者は生き、我を象る者は死す」と読み、師の教えを守りながらも創造を加えるものは成長し、ただ真似するものは消えて行くの意─Weblioより)

だから、墓場からスタートしたのは異世界(アニメの世界=ジブリ)の核心、塔の頂上まで辿り着けず早々にリタイアしたアニメーターの象徴。

ラスト、「この世界(アニメの頂点、ジブリ)を継げ」と迫る塔の主(大叔父)=宮崎駿、の持つ積み石を叩き割るインコ大王は宮崎の右腕の鈴木敏夫であり、この世界(ジブリ)を統率する組織体制の象徴。
ポイントは、あくまで宮崎は後継者を求めるが、後継と期待した血縁の主人公(宮崎の実の息子のメタファー)は期待に応えられず、鈴木(=組織、ジブリ)は現実的にそれを許さないし、不可能であると判断してること(ジブリ内部に後継者がいない)

かくして宮崎が人生を賭し、この世界に「誰も見たことないアニメを作る」という”誓いの象徴”として、歳を重ねるごとに肥大化し大叔父の頭上にあった巨石(巨石が頭上に浮いていたのは、"いつもアニメ芸術に人生を支配されてた"というメタファー)はあっけなく崩れて失われ、二度と元には戻らない。後継者がおらず自分が作り上げた至高の芸術が失われることへの憤懣、憤怒、自らのエゴを一切隠さない、最後に自身の全てを晒す宮崎。
それに伴い大叔父(宮崎駿)が一代にして築き上げた塔(ジブリ)は脆くも崩れ去り、巨大な絶対的存在と思われていたものは虚像だったことを宮崎自身が暴き出す。

そして崩れ去る塔(ジブリ)と共に大叔父・宮崎駿は消え、インコ大王(鈴木敏夫)以下、「大叔父が外の世界から連れてきた」と明言されているインコ、ペリカンなどジブリスタッフは外の世界に解放され、ジブリの魔力を失ったスタッフはただの鳥(=元の凡人)に戻るという宮崎駿からの超絶嫌味と当てつけ。
ちなみに異世界に迷い込んだ時、最初に海で出会う「食料を自分たちで取れない船乗りたち」は、インコ・ペリカン以下のジブリの、「仕事を自分たちで出来ない」主力でないスタッフのメタファー。残酷なまでに、フィクションの世界で「誰かの顔色を窺う嘘」を拒み美化しない、鬼の宮崎。

もう一つ宮崎のエゴが爆発してるのは「塔の上で孤立する天才の大叔父(宮崎駿)」と、「右腕ながら組織のため(大人の事情のため)なら対立を恐れず上申も辞さないインコ大王(鈴木敏夫)」と、大叔父を恐れインコ大王になびく、支配者(宮崎駿)に意見する勇気もない凡百のインコ(スタッフ)たちという構図。
主人公やその他外部から迷い込んだキャラクター以外のジブリスタッフは「個性も意思もないモブ」として描かれる残酷。
こんなん見せられてジブリの人たちどんな気持ちでこれから生きていくんだよ笑

そんな宮崎駿の憤怒にまみれた本作から浮かび上がるメッセージは「君たちはどう生きるか」の後ろに続いていたはずの「私はこう生きた」というメッセージ。こう生きた、とは世界の入り口に掲げられた「この世界を志すに生半可な覚悟なら死ね」という宮崎からの宣告である。
タイトルも「君たちはどう生きるか?私はこう生きたぞ」という、相手の回答など実は最初から聞いていない(期待していない)、宮崎のブチギレである。
一応、劇中で主人公が机の上で矢を拵えるシーン、崩れた本を手に取り母からの(ご丁寧に「君たちはどう生きるか」の単行本に書き込まれている)直筆メッセージ「あなたが大きくなったら読んでください(※うろ覚え)」で、志のある若者には響くはず、と期待を見せるフォローはあるけど。

齢八十過ぎてなお枯れず、人生最後となる作品で怒りをぶちまける宮崎駿、恐るべし。
ただし。この怒りが全てジブリや自身の周辺に向けられたものかというと、ちょっと違うと思う。それももちろんあるけど、そんなのこの数十年でとっくにわかっているはず。
恐らく、この怒りの深層は「ままならない事ばかりのこの世の全て」に対してじゃないのか。つまり、自分に「才能を与えやがったのにその後ほったらかしにしやがった挙句、こんないいところで人生を取り上げようとする神様」とかこの世の理すべてに。宮崎は自身の絵を描く才能を努力の成果だと思っていない。じゃないと序盤で庭に飛来物なんて突き刺さないよ。だからこそ、自分にそれが与えられた理由があると思っているからこそ、凡人なら早々に諦め迎合する、この世の全ての「仕方ない」に八十にしてまだ抗い続けている宮崎駿。そのエネルギー源としての怒り。

だから、これを見たジブリとその周辺の人の気持ちなんてわかった上で綺麗事を拒み、「お前らだって気付いてんだろ」と平然としている。宮崎本人は人智の及ばないもっと高いところにムカついてるから、そんなの気にしない。
ジブリの皆さん、大丈夫ですか?今夜飲んだ酒の味、してましたか?こんなんだから宮崎さん、塔のてっぺんで孤立しちゃうのではないのか・・

ただ、庵野秀明監督と富野由悠季監督はこの映画見て、ニヤニヤと宮崎駿を飲みに誘いそうだな、と思う。

追記:この読み解きは全く逆にすることも可能で、夏子の出産、新しい命、塔の主など古き因習からの解放、インコたちの"巣立ち"、持ち帰った石による記憶もいつしか薄れていく=先達から受け継いだものを消化し自分たちの未来を作り上げる象徴、という破壊と再生の祝福の物語という読み解き。
どちらが正解ということでなくあらゆる立場と解釈に耐えうる強度の物語だと思います。
私は上述した読み解きだけれど、表裏一体の物語ともいえる。

※塔の主が渡そうとする積み石パズル、多分宮崎駿がこれまで手がけた作品の数と一緒とかだと思うけどアニメに詳しく無いのでわかりません。
↓解説してくれた人がいました、やっぱり一致するそうです。感謝。

※アオサギは誰なのか、も該当しそうな人がいるかもしれないけどこれもアニメに詳しくないのでわからない。アオサギはシンプルに狂言回しでモデルいないんじゃ無いかなーと思ってるけど。

※ジブリは金曜ロードショーで観るくらいの知識なので鈴木敏夫さんポジションは他の人かもしれません。他に知ってる人いなかった。

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