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3次元テトリス

 わけあって、これまで働いていてくれた人が辞めて別の職業につくというので、今後の話をしていると、その人がこんな言葉を発した。「以前の職場を辞めてこちらに来るときは、自分の代わりはいくらでもいるから気に留めることはなかったんです。だけどこの仕事を離れると決めてから、一番気がかりだったのは代わりを見つけるのが難しいことです」と。実際、退職日はもう間近に迫っているけれど、次にその仕事に従事してくれる人というのは決まっていない。
 代わり、という言葉が引っかかった。

 彼がその言葉を使ったのに、深い意味はないのかもしれない。ただ次の人がきまらない罪悪感みたいなものがひょこっと出ただけだったり、引き合いに出したふたつの職業の持つ性質が違うことからそう言ったのかもしれない。
 それはそれでいいんだけど、代わりっていうのにはやっぱりなんだか違和感を持った。だって、こちらとしては「代わり」を探すつもりも、求めるつもりも、ないからだ。

 その職業がどれだけマニュアル化されていても、または専門性を帯びていても、従事するのが人間である限りどうあっても何かしらの「そのひと性」が付いてまわるとおもうのだ。日に何百という同じ作業をするライン作業員であっても、手びねりで世界にひとつの器をつくる職人であっても、どちらの場合でも、同じにはなり得ないという要素を含んでいる。

 そう考えると「代わり」などというのはちょっと傲慢なのかもしれない。

 このような「何かしら性」というのは人間に限らなくて、例えば曜日とか時間にもその特性を当てはめることができるかもと考えて遊んだりした。
 月曜午前と水曜午後のもつ雰囲気とか、金曜の夕方と日曜午後的な時間というのはまた違った空気をまとっているし、文章だって、日本語という言語があり、おおよその決まりがあって、漢字とひらがなとカタカナとがあって、でも使う人によって組合せ方や配置が違えば印象もずいぶん違ってくる。私が書けば、あるいはいくらかは片山緑紗的な文章になっている。かもしれない。

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 何か、人というのは役割を終えて次に進んでいくだけなんじゃないのだろうか。またいつか、その空いたところに誰か他の、そしてちょっと別の役割を果たしにきた人間がやってきて、ぽこっとおさまっていくだけといえばそれまでである。テトリスみたいにぽこぽこっとブロックを埋めて積み上げて、まんぱいになったらクリアで次のステージに行くのである。

※トップ画像の解説:トラックの積み込みを3Dテトリスに喩えた。

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