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目の前で起きていないことについて

 台風が近づいてきていて、こんどのは14号です。11号が接近してきたときに、ずいぶんと騒いだけれど結果的に私の住んでいる周辺(地域、人)にほとんど影響はなかった。風がつよいな、とかそのくらいはあったし、夜にはモノが飛ぶ音や風切り音などがけっこう聞こえてきたけれど、停電もしなかった。メディアが煽っているな、と、そうおもった。

 14号も、熱帯低気圧のころから台風に発達するだろうと予想され、そういった報道が何度も更新され、きょうのお昼すぎのYahoo!のニュースには「不要不急の外出は控えて」というタイトルが見えた。これは、いったい何だ、何だ。

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 ある人に対して、妙に気にかけてしまうことがある。たいていは、というか早い話が好きな人のことで、その人のちょっとした表情やしぐさ、ひと言によって不安が引き起こされることがある。ちょっとしたことだ。
 どこかが痛むなあとか、持病によくはなさそうな食生活だったり、疲れた様子やシリアスな状況だとかいった、なんか、そんなふうなのを感じ取ったときに、気もちがざわついてくる。それでつい、離れているときには特に、大丈夫だろうか、などといった方向に意識が流れてしまって、心がとらわれている状態を認識する。息災にしていることが分かると、あるいは顔を見ると、とたんに安心する。
 何度かこういうことをしていて、嫌だった。
 どう見たってひとりずもうで、妄想で怯えるというか、何に対してだかわからない不安を抱えたり、気を取られたりしている状態から抜け出したかった。相手だって嫌だろうし。
 それではっと気づいたんだけれど、むこうにはそんな振る舞いというか私に対して無用な心配や不安はなさそうだ。それは相手にとってどうでもいいことというわけではなくって(たぶん)、ただ「ふだん通り」にしているだけだろう、ということだった。

 起きていないことに対して不安になったり、気をもんだり、そんなことをするのは時間やエネルギーを無駄に消耗する行為なのだ。対処をするのは何かが起こったときで、それ以外には何をしようにもその「何」が不明だ。
 目の前にあるものごと、いまこの瞬間に自分が認識している世界がつまり現実なのであって、それ以外の目に見えないところで起きていることも起きていないことも、ぜんぶ、問題ではない。誰かを安心させるために生きている人なんていないのだし、つまり「私は私のことをやる」のだ。真剣に。
 いま手元にある仕事、読んでいる本、友だちと遊ぶ時間、車を運転するとか、映画に没頭していたり、勉強や何かの練習、そういった一つひとつに注力している状態があるべき様なのだ。私からすると何に対しても手を抜いていないように見える、その姿勢はとても尊敬する好きなところのひとつなのだった。それに気づいてからは、拍子抜けするほど落ち着いた。

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 台風などの、予想がされる災害に備えることは無駄ではないかもしれない。私が疑問におもうのは、やたらと不安を誘うような報道の仕方だったり、それによってある種の人々がとる過剰な備蓄行動とかそういったものである。そんなもの勝手だろと言われればその通りだし、私みたいなのは逃げ遅れるか蓄えがなくてぱたりと力尽きてしまうのかもしれない。

 食料や水といった生活のための必要最低限は備えられるけれど、心のほうはそうはいかない。無用な心配はしなくていいけれど、不測の事態に備えてなどといって準備できるようなものではないし、心を鍛えてはおかれないし、何に傷つき心が折れたりするかなんて、何かが起こってからでないとわからない。
 できることといったら覚悟くらいか。それもなかなか難儀である。

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