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禁教末期の出津地区のこと

 朝から外海に行くことがあった。用件は仕事で、いつものごとくTKさんに連絡を入れてから行った。他の業務がとても忙しいということはないけれど、やればやることはけっこうあるので、この日は受け取りものをしたら事務所に戻るつもりでいた。
 到着してから、いつものようにいくつか御用聞きをしたり、受け取りも終えてちょっとした雑談などをしていたとき、ふいに以前から気になっていた場所の話題が出た。行ってみたい、と言ったら案内してくれるという。

 それは潜伏キリシタンの、禁教期の墓地だった。ここらあたりは結晶片岩が産出される土地で、それを使った石積が各所に見られる。この集落ではその景観が『外海の石積集落景観』として、国の重要文化的景観に選定されている。
 禁教期の墓地の特徴のひとつとして、墓碑は石塔ではなくこの結晶片岩を積み上げた平型の伏墓となっている。
 よく行く土地と言っても、付近には地元住民の方々の暮らしもあるし、なかなかひとりで車をまわしてまで訪問を叶えられないでいた。TKさんと一緒だと土地の人であるし、安心である。勝手知ったるといったかんじで、付近で人と顔を合わせるごとにTKさんはあいさつを交わし、車を脇に停め目的地に行くことができた。ちょっとした時間に3か所を巡ることができて効率がよかった。距離は近い。

 数か月前に、茂重もじゅうというかつての殉教者の墓所を案内してもらって以来、久しぶりのTKさんとの探索時間だった。もう仕事のことなんかすっ飛んで(訪ねるのは墓地とはいえ)気もちが昂ってくるのを抑えられなかった。靴に泥がつこうが、ジーンズにひっつき虫がひっつこうが、いっこうに気にならなかった。

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野中墓地の伏墓

<野中墓地>
 現代墓と、潜伏キリシタン墓が混在している。現代の墓(石塔)が建っていない場所は、草が茂っていてぱっと見ただけでは原っぱのように見える。けれども近づくと石を積んだ伏墓が並んでいた。どの墓にも湯呑などが置かれており、いまでも土地の人が水を差しているふうだった。
この<野中>という土地では、1865年の大浦天主堂における信徒発見ののち、この辺りにも信徒がいることがわかり、プチジャン神父らが訪れるようになっていた。とはいっても禁教は解かれていない時代である。夢にまでみた神父と出合い、教会への復帰に心を熱くする復帰派と、ご先祖からの教えと庄屋との関係にこだわる慎重派との間で住民らの意見が割れ、あらそいが起こった。あらそいの中身は、この土地のキリシタンたちが大切にしていた秘蔵の「聖ミカエル図」と「マリア十五玄義図」のふたつの聖画の所有をめぐってのことだった。

 まだ禁教が解けていないのに、急速に神父(教会)との結びつきが深くなっていく様子に不安を覚えた慎重派が、地域で大切にされていた聖画を盗み出してブレーキをかけようとしたのだ。騒動のあとも何度か和解を試みるも、硬くなった心というのはそう簡単にほぐれなかったらしい。現在この地区には、カトリック、お寺(曹洞宗天福寺)付きのかくれキリシタン、教会に戻らず寺にも属さなかったかくれキリシタンの三通りに分かれ、それぞれがそれぞれの暮らしをしている。
 その聖画2点は、騒動のあとしばらくしてから浦上教会にうつされ、1945年の原爆によって焼失してしまったという。現在はそれらを撮影した写真図版と焼失前に複写した絵が残っているのみである(複写絵は長崎歴史文化博物館蔵)。この騒動は「野中騒動」と呼ばれている。

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菖蒲田しょうぶだ墓地>
 ここはずうっと奥のほうにまで墓所が続いているらしかった。手前のところを少しみさせてもらった。

案内板(私有地だから入らないようにと書いてある)

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畑杭はたくい墓地>
 他の2か所に比べ、ひらけた場所にある。石塔のほうにも洗礼名が彫られてあった。

石塔は明治以降に建てられた模様

 もう一件、小田平こたびら墓地という場所もあって、そこは未訪問。明治なんてずいぶん遠くなったとおもわれるようだけれど、この土地では一度コチコチになったそれぞれの心はそう簡単には解凍されず、他と交ざることはないように見受けられる。まあ、それがわるいということは全くないのだ。禁教期とは違い、信仰したいものを選びとっていられるという自由を、われわれは与えられているのだ。

 たぶん、おそらく。

↑2月の終りだったことに驚愕。

参考資料(2017推薦書:文化庁)

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今日の「とれたて」:TKさんに畑の野菜をどっさりいただきました。この日は、じゃがいも、さつまいも、大根とカブとネギ。おやつのグべに、自家製の干し柿まであった。ところでさつまいもって、むちむちとしてどことなくヤらしいですよね。じゃがいもはヤらしくないけど。

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