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光と影と、おうとつと

 昨日の夕方、帰宅途中に顔をあげると目の前にふくらんだ月があった。あ、元興寺から一巡りしたんだな、とおもったけれどおんなじところに戻ってきたというのとは意味合いが違うから巡りとは言わないかと、おもい直した。
 今朝は、振り仰いだら日の出の太陽が見えて、それは半熟卵の黄身みたいにとろりとした赤橙色をしていた。おいしそうだった。

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 ちょっと前に、ナショナルジオグラフィックの番組『徹底スキャン:世界の歴史建造物』というシリーズを観た。話を聞いて興味を持ったからだった(こればっかし)。
 タイトルの通り、歴史的建造物をターゲットに、新しい技術でもってつくられた特別な3Dスキャナーを用いて、これまで解明されていなかった部分まで細かく調査して番組に仕立ててある。
 持ち運び可能なその機械を、各専門スタッフで組まれたチームが駆使してスキャンする。世界的に有名ないくつかの建造物に、その機械からレーザーがびびびっとあてられ、集められたデータを読み込ませて可視化するんだけど、なにしろすごかった。
 レーザーを対象物に照射し、その反射をとらえてデータを集めているんだけど(たぶん)、その様子をぼんやり観ていて、反射、つまりはね返ってきたたくさんの断片からそれを測定するということに興味を覚えた。

 私たちの目も、原理は同じなのかな? 目に見えている景色は、反射されたいくつもの情報を集積して、我々自身でどうにか映像として認識しているのかな? 反射しないで透過してしまっている(つまり見逃されている)ものごともあるんだろうか? そういう機能によって対象の奥行なんかも把握しているんだとしたら、その一方に障害のある私(片目がほとんど機能していない)の場合、見えている世界は他の人とちがうのかな? でもそもそも、見えているもの認識しているものはみんなそれぞれ違うんだろうか?
 こんな色々を考えた。

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 最近、ある絵画作品を見て(知って)、それが光と影をうまいこと組合わせることで魅惑的な印象を受けるような工夫がされていたものだったから、すごいな、とおもった。光が感じられるところ、影が濃くておもわず目を凝らしてしまうところ、そういう対比が際立っていてうつくしかった。
 写真を撮って現像するときに、自分なりのいい塩梅でやっているつもりだけれど、どうも毎回あいまいなようで、そこらへんについてどうも自信を持てない。つまり勉強不足なんだけれど、このままではよくないので端っこまできっちり詰めていきたいという気もちが(いちおう)ある。
 きれい、とおもった絵画なり写真なり何かなりには、その理由や始末がちゃんとつけられているんだろうな、とおもう。

 そんなことをおもってふと思いついてみると、映像作品なんかでも印象に残るのはその光の使いかたであるようにおもった。それが実際の役者による作品でも、イラストレーションを用いたアニメーションなんかの場合でも、海外のもののほうがより心を惹きつけられる。日本のドラマなどはここ最近ほとんど観ていないけれど、昔観たものを思い返してみても、光の使い方といった点で心惹かれる制作物というのは、あまり思いつけなかった。
 感覚が違うのかもしれない。
 例えば色の感じ方にしてみても、日本ではずっと昔(どのくらいかは知らない)青と緑を区別していなかったと聞いたことがある。それは「青信号」とか「青草」みたいな言葉に名残が見られる。その原因は、日本の景色だったかもしれない。
 中国大陸からやってくる砂塵などによって、霞んだり霧っぽかったり靄がかかりやすい日本の景色は、黄色みがかって見えるのだそうだ。青に黄色が混じると緑になるから、そこに太陽の光が差せばやはりより緑っぽい景色に映るのかもしれない。
 霞んだ景色は、遠近が掴みづらく、なんだか平坦に見える。そういう風景を日常的に目にしていれば、描くときもそのまま写しとったり、写真の現像にしてもそっちに寄せがちなのかもしれない。
 日本は服装にしたって平たい。着物というのは、布の合わせてある縫い目にそって折りたたんでいくと、ぺったりと四角くおさまってしまう。帯は結んであれば立体的だけれど、ほどけばやはり平たい布だ。現代ではたまに、どうやったら引き出しにしまえるだろうとおもう服などがあるけれど、つまり文化として畳むことを想定していないのが西洋なのかもしれない(そして狭い日本の(私の)クローゼットはぎゅう詰めになる)。
 立体感というのも光と影にかかわるから、日本ではやはりあまり好まれないというか、そういうふうなのかなとおもった。人間関係や生活習慣、自分の意見だったりも、周りに阿りやすかったり、何事につけても「丁度いいところ」を探しがちなのは、日本人の特性のひとつなのかもしれない。

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 生き方においても、特に私などは波風を立てないようにしてきたタイプだけれど、ここ数年はそういうものもあまり気にしないことにしている。波風なんて立てるだけ立てたらいいのだ。いや、無理に立てることはないんだけれど、そういったことをちまちまと気にしていたらいい生き方(死に方)はできないのかもしれないとおもって。

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今日の「正月行事」:明日はもう7日なんですね。太宰府天満宮でおこなわれる鷽替の神事に一度行ってみたいとおもっているんだけど。

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