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兵どもが夢のあと、原城跡

 長崎県の南東には胃袋のような形をした島原半島がある。その胃袋の下のほう、南島原市には歴史に名を残す「島原・天草一揆」の主戦場となった原城跡があり、海を挟んだ向かい側には熊本県の天草が見える。

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 原城「跡」というくらいなので城址、つまり天守もなにもなく石垣などの一部や遺構のみとなっている。

 原城は1496年に有馬氏によって日野江城の支城として築かれた。後に有馬氏が日向国延岡城に転封となると1616年に松倉重政が日野江城に入城する。松倉氏は不便な日野江城を放棄し島原城を築城したとある。支城である原城も廃城となった。

 松倉氏が7年の歳月をかけ築いた島原城は4万石の大名の居城としては巨大であったらしく、その築城と更には江戸城普請のための彼の行動により財政が圧迫された。領民にとって過剰な過労と重税は後に起こる「島原・天草一揆」への布石となる。

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 この場所での一揆によりおよそ2万7千人(現在の通説)あまりの死者が出たのだという。観光で訪れた中にはこの場所に来て「行ってみたけど何もなかった」、そんなことを言う人もいる。確かに何か復元がしてあるものもないし、またそこで何があったかを示す案内のようなものも少ない。再び一揆が起こることや死者の復活を恐れた幕府は徹底的に棄却したという。だからいくつかの石垣や、縄張りの跡などの他「見どころ」と言えるものはない。
 私にはちょっと想像ができないのだ、2万7千人(傍点を打ちたいほどだ)の死者。ここに立ってみて改めて、言い表しようのない気もちになる。今もこの敷地内にはたくさんの亡骸が埋まったままだと聞いた。
 ないものを想像することによってより強い存在感を感じる。何もないとは思えなかった。

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日野江城跡

 もうひとつ。この一揆に至った契機についてはいくつか言われており、苛政や飢饉などと合わせて信仰への迫害・弾圧などが挙げられる。キリシタン弾圧のいくつかの出来事をなぞるとき、信仰の強さなどについては繰り返し語られるが、この時代にもたらされた宣教をどのように日本人が理解したのかと、何にそこまで惹かれ貫いたのかがいつも理解がむずかしい。色んな想像をしてみることになる(それくらいしかできない)。

 島原のこの辺りは、上に書いた一揆により全滅に近く、つまり人がいなくなった。その後の政策で小豆島などから移住者が入って今に至っている(小豆島から素麺が伝わったとか)。

↑ 私のお気に入りのそうめん。


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