見出し画像

恐怖の発露するところ

 およそ1年ぶりくらいで天草に行ってきた。長崎から熊本の天草まで行くのにいくつか手段のあるなか、前回と同じ南島原市口之津の港からフェリーを利用した。
 天草に行くのは3度目で、初めての訪問で兄のとこのチビふたりを連れて行ったときのことをふと思いだした。

 いま上の女の子は15歳、下の男の子はもうじき13歳になるけれど、天草に連れて行ったときはたしか10歳と8歳だった。そのときは長崎市の茂木という港から出る船を使って、乗船時間は45分くらいだったとおもう。ふたりとも船に乗るのは初めてだった。
 乗ってしばらくははしゃいでいたふたりだったけれど、船内を興味深く見回していた下のチビ太が救命胴衣のイラスト付き説明書きを見つけてから様子が変わった。窓から海を眺めるのをやめて、しゃべらなくなって、私のそばにくっついてきた。要するに怖くなったのだ。

 Kさんと話していて何かのきっかけでそのことを思いだしたから、船でのエピソードや、けっこう大きくなるまで外出先ではひとりでトイレに行かなかったこと、兄がバイクの後ろに乗せたときにも怖がったことなどを雑談的に話していたんだけれど、なんとなくあとを引いていまこれを書いている。
 いつだったかは、上のイチカ(仮名)とチビ太がテレビを観ていて、東日本大震災時の映像が流れたときにチビ太が泣いたというのを聞いたことがあった。イチカは「チビ太は怖がりだ」と言って笑っていたけれど、上記のいくつかを合わせて考えてみると、何か外側にあるものと自分とを関連づけて受けとめる感覚(この場合恐怖)の度合いが、イチカとチビ太で違っているんだろうことをおもった。ちなみにイチカは船も平気だったし、バイクだっておもしろかったと言っていた。
 あんまり臆病であれもこれもできないというでは世話がやけるけれど、なんとなく、チビ太の内側でどんなことが起こっているのか興味がわいた。外の世界には危険や恐怖がみちみちていて、それを克服するときにコイツのなかでどんなことがおこなわれているんだろうか。

 ふだん生活しているエリアがそう近くないことから、あんましふたりには会わないし、子どもとの会話にすぐ飽きる私はあれこれ聞いたりもしないから、そういう変化の細かいところはよく知らない。とくにチビ太は口数も少ない。調査するほどのこともないから、このふと浮かんだ疑問が解決されることはないけれど、たとえばいつどんなきっかけでひとりで外のトイレに行けるようになったのかとか考えると、ちょっと愉快をもよおす。

*

 いつ何が自分の身に起こるかわからない、明日あっさり死んじゃうかもしれない不確実な毎日を過ごす私たちは、ときおり目の前にある環境、自分を取り巻く人々との時間や関係性、そういうものを当たり前のものとしてとらえていることがある。そういうところを意識しないで生きていると、ときどき痛い目にあったり思いもかけない事態に直面して後悔したりすることになる。それも人生の一つの側面だし学ぶこともあるし、リスクを避けてばかりの態度が正解だとはおもわないけれど、「当たり前じゃない」というところから得られる大切な部分は、できるだけ見落とさないでいたいとおもっている。

*

今日の「ほくほく」:1年前の天草訪問で買い損ねた砥石を購入することができました。ぱちぱち(拍手)。

この記事が参加している募集

#最近の一枚

12,659件

サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。