日記 2023.9.12

時間があって、かなり前のnote投稿やTwitterアカウントを振り返ってみた。
自分の文章ってなんか面白くて好き。
書き方とか思考の尖り具合とかがやっぱり少し違うなと思った。でも、文章が特段拙いだとかそんなことは無くて、逆に最新の文章よりも簡潔にまとめられたりしていたのは、書き言葉で文章を綴ることに慣れていたからなのだろうなと感じた。
今はすぐ(笑)とかつけちゃう。(笑)
文章だけみると、ああ、私だ。という感じ。人は人、私の存在は私でしかなくて、何年経っても何処にいても誰と居ても、それは変わらないのだなと思った。
ただ、はっきり変わったことがあって、それは高校生の頃の私は全てのことに死、というか自死の事が絡みついていたことだと思う。自分への否定感が今より強かったのかもしれない。常に自分の人生、自殺で終わらせて周りの人に惜しまれながら終わる、自分の人生を完成させるという選択肢が頭の中にあったのだと思う。
若い時に死んだ方が惜しまれるってずっと思ってた。
でも最近、知ってるインフルエンサーが亡くなってしまってすごく考えたことがある。
それは、自殺って全然完成の手段では無い、ということ。とても当たり前のことかもしれないけれど、昔の私の価値観では、文豪は自殺する事で作品やその人物の人生が完成すると思っていた。でも実際に人が死んで、悲しむ人がいるというのは痛々しくて、こんな感情を持たれても、悲しいだけ、虚しいだけだろうな…という感情も交じり。
やっぱり自殺は中途断絶でしかなくて、その人の肉体、精神、感情も全てそこで終わり。その人の時間はそこで終わる。その人がこの先感じたかもしれない事はもう無い。感情は動かない。
それが信じられなくて虚しかった。
自殺なんてするものじゃないなと心から感じた。友達が自殺なんてしたらどうしようと本気で思った。
けど、自殺まで追い込まれる人って居る。今も考えてる人がきっといる。私もコロナになって体調が悪くて、なかなか体調が戻らずにバイトに復帰出来ないだけで、自分の人生遅れを取っているような感覚になってこのまま気持ち悪いのが治らないならもう死んでいいなと思ってしまったし、やっぱり何か悪い状況の渦中にいる状態では絶望してしまいがち。その人の思考のクセにもよるけど、生き続けるってそれだけで本当に多くのエネルギーを使う、大変で尊いことなのだなとまた思った。

今は生きたい。人がいきいきと生き続けることを何らかの形で手伝えたらいいなと思う。価値観、色んな選択を理解し、受け止め、更にその人の選択肢を増やせるようになりたい。それは抽象的で、難しいことだけど、私の人生哲学においてひとつの大きな目標です。

おわり。残りの夏休み楽しみます。

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