逆張りオタクの弁解

私は天邪鬼である。もしくは逆張りしたがる人間である。

世の中には流行ものというのが常にある。映画、書籍、音楽、芸能、エンタメ――それぞれに流行り廃りがあるのは良く知られた事実だ。

私はこうした流行に疎い。大抵のものは流行のピークに差し掛かったころに知る。ニュースやツイッターのトレンドで話題を席巻するころになってようやく、そんなものがあったのかと驚かされることがよくある。

例えば、現在売れに売れている漫画『呪術廻戦』もそのひとつだ。アニメ化がされ、確か、とあるキャラクターが目隠しを取った話が放映されたころに、私の目に入ることとなった。

この時の私は、タイトルの通りに逆張りをした。

流行っているのであれば、見るのを止めようと。
どうせ、今まで知らなかったのだから、今さら見ても面白くないのだろうと勝手に思い込んだ。

こんな話を聞いて、読者の多くはある狐のことを思い出すだろう。その部分だけが一人歩きして有名になっている「酸っぱい葡萄」の話だ。ウィキペディアを軽く覗くと、出典が曖昧らしいのだが、そこはどうでもいい。とにかく私は「あの狐」になったように見えているのではないだろうか。

今日はそんな私の歪んだ自意識についての、滑稽な話だ。

物書きとしての下らない呪縛

同じ、アニメ・漫画関連でもう一つ思い出すことがある。『鬼滅の刃』だ。おそらくはここで「ああ、やっぱりか」と思った人もいるだろう。だが、ここで逆張りオタクらしい醜い弁解をさせていただきたい。というのも、私は一話放映当時にリアルタイムで見ているからだ。

リアルタイムとは言ったが、私が見たのはニコニコ動画だったので、正確ではないことを先に断っておく。

その時の私はランキングを適当にブラついており、そこで目に入ったのが『鬼滅の刃』の一話だ。何とはなしにクリックをして見てみることにした。コメントはそこそこに賑わっており、どこか今の流行を予感させるものがあったような憶えがある。

粗い記憶の中を掘り起こしながら思い出すのは、主人公・炭治郎の独白だ。細かいニュアンスは定かではないが、切羽詰まった状況だったような気がしている。当時の私はこれが受け付けなかった。アニメだから当然ではあるのだが、妙に芝居がかった調子だけが強調され、少年という見た目には似つかわしくないと感じていたのだろう。結局、その後二話を見ることはなかった。

それから数週間だか、数か月が過ぎたころに徐々に話題になり始め、あっという間に世間を賑わすほどの人気ぶりになった。今では街のそこかしこでコラボ商品を拝むことができる。

私は世間で『鬼滅の刃』が取りざたされ、お昼のニュースで放映されるくらいになったころに、いつの間にか有名になっていたのだなと、勝手に一話視聴当時を思い出した。そして、やはり同じような過程を辿り、私は今に至るまで視聴することはなかった。というよりも意識的に避けていた。スマホの画面にあの少年が映り、あの声が聞こえるたびに、私はそれを消そうと躍起になった。ここまで来たら絶対に見るものかと心のどこかに誓っていたのだと思う。

アニメを一話で切ることを正当化するようになったのも同じような時期だったと思う。私は友人に対して、一話で切ることが如何に優れた選択であるかを熱弁していた。「一話で視聴者を引き付けることのできない作品に価値はない」と言い切ったこともある。

私はいつしか作品を作るうえでもこうした、「流行」や「一話切り」のことを意識するようになった。

恥ずかしながら、私は拙い文章で小説を書いている。「カクヨム」や「小説家になろう」などのサイトに掲載をさせていただいているので、気になった方は読んでくださるとありがたい。noteを書き始めたのもその一環だった。

読者の方は上記のサイトを聞いてどんな印象を持たれるだろうか。有名なキーワードで言うところの「なろう系」が思い浮かんだ方も多いのではないか。

少なくとも私は利用を始めるまでそんな印象だった。テンプレと呼ばれる展開はなんとなく知っていたし、そうした作品が流行る場なのだろうと思い込んでいた。

このバイアスは完全な間違いとは言い難いのではないだろうか今でも思う。多くはないがいくつか読ませていただいた作品にはそうした要素が含まれているものもあった。ランキングを見れば、そう思えるようなタイトルが並んでいることもしばしばある。

ここで私が言いたいことは二つある。

一つはそうした作品ばかりではないこと。純粋に書きたいものがあり、それを表現できるのがこれらのサイトのいいところだ。なろう系やテンプレに頼らない作品にも、何度も出会っている。

もう一つはなろう系もまた良いものであるということだ。私の肌には合わなかったが、人気であることは確かだ。多くの人が見ている以上は需要があるということである。それに私のなろう系やテンプレという言い方にも語弊がある。みんなが似通った作品ではないし、結局のところ、それぞれに何らかの理由があって投稿されている。それらを私の感性だけでなじろうとは思わない。

では、ここでまた私の個人的な話、書いている小説のことに戻ろうと思う。

先にも書いた通り、私は意識をしている。あるいはは呪縛に囚われていると言い換えてもいい。

まずは一話の呪縛だ。「一話で視聴者を引き付けることのできない作品に価値はない」と言ってしまったものだから、私は毎度の如く、一話や書き出しに悩むこととなる。これでいいのかと考え、もっと奇抜で目を引くものをと意識し、結果としてわけのわからない文章を生み出すことがある。

次が流行への呪縛である。ここまで読んだ方ならわかる通り、私は「なろう系」を毛嫌いしている。それも食わず嫌いである。私のうっすい文章からにじみ出ている通り、私は一つもまともになろう系やテンプレを読み切ったことはない。大抵は一話だけを見て、食って掛かったように「ほらその通りだ」と自己弁護しては読むことを止めてしまう。客観的に見れば下らない三下野郎である。ゾンビ映画ならまず舐めてかかって序盤に死ぬタイプだ。

そんな性分も相まって、私の小説はそうしたところから外れようと必死になっていることがわかる。しかも目の敵にしているものを良く知らないのにだ。自分でこの文章を書いていて哀しくなってくる。

旅行下での出来事

さて、話を切り替えて、話題は少し前にした旅行のことになる。

私はとある観光地に行ってきた。一丁前にぼかしてはみるが、見た人が見た人なら多分どこだか検討がつくはずだ。

旅行を決めたのは、今からおおよそ一か月前。旅行当日の二週間ほど前のことだ。理由もなく、突然外に出たいとなり、行くことを決めた次第である。なんの脈絡もなく、目的地もすぐに決まった。

そしてなんとなくで行きたい場所を決め、おおざっぱな計画を立てて出かけることとなった。何度も行ったことがある地ではあったので、あとは行きずりでも問題ないだろうと判断した。

それから当日。最初の観光地には難なく辿り着いた。混みようは想像の範疇。中もいい雰囲気で、夏の日差しの中ながら、涼やかな気持ちで周ることができた。小一時間ほどの滞在に満足し、次へと向かう。

問題はここにあった。

ここは或るものが有名な場所だった。何年か前に、ちょっとしたことで話題になり、それ以来観光客がよく訪れている。それよりも前からおそらくは有名だったのだろうが、私はその時に知った。そしてそのことを思い出して向かうことにしたのだ。今回の旅のメインイベントはここだった。

しかし、まず入る前からげんなりする。人が予想以上に多いのだ。中へ入るための長蛇の列ができていた。そこへ続くのは狭い道だったから、人が列を作れば、車はすれ違うことも難しくなるほど。警備員が、大きな声で整列を何度も促している。この予想外がまず私を突いた。

それでもここまで来たのだからと並ぶ。案外と列はすんなり進み、中へ入るのには十分もかからなかった。

しかし、この中が外以上の混みようだった。その敷地ははっきり言って広くはない。通路は人一人が通れる分しかなく、そこに順路が定められ、あちこちにのたうちまわった蛇ような列がずらりと地面を埋めていた。私はその光景に観光どころではなくなっていた。入ったばかりだというのにもう出たくなっていた。

堪えられなかったことは他にもある。例えばトイレだ。おそらくはここ数年の間に改装されたであろうそれは、明らかに古風な周囲の風景から浮いている。色合いは落ち着いているが、真新しさばかりに目が行き、なじんでいるとは言えなかった。

さらには周囲の人の声。私は人酔いしやすい方ではあるが、そんなこととは別に気持ちが悪い。他人からすればうるさいとは思えないほどの音量だ。それでも一人で訪れて、喋る相手もいなかった私には煩わしかった。

終いには、風流のために置かれたであろう、ガラス細工の金魚にまで私は苛立ちを覚えていた。結局、景色が有名であったはずなのに、私は一枚の写真も撮らずにさっさとそこを出た。

以降の旅路は満足なものだった。この時のいら立ちが嘘のように、次の場所を満喫した。写真も撮ったし、ゆっくり見て周ることもできた。それでも旅行の翌日にこの出来事を思い出して、ちょっとツイッターでぼやくくらいには印象的だった。

この感情の出所を探ろうとした時、流行に対する反感を思い出した。

私が嫌っているものは何か

上記二つの出来事は結び付けるには遠いような気がしている。この記事を書いている今この時も、思い付きで並べてみたはいいが、案外関連性もないなと思っている。

それでも勢いで書いてしまったことにもっともらしい結論を用意するのなら、それは私は感性のひとつとして流行に対する反感があるということだ。

『鬼滅の刃』は言うまでもなく、流行っている。そして私はそれを放送当時に見たという言い訳をしながら、自分を正当化するように理由付けをしている。

『呪術廻戦』もそうだ。先には書かなかったが、実は言い訳がましいエピソードがある。ツイッターでフォローをしている方が、一巻発売当初に絶賛をしていたのだ。そして私はそれを見て読まないでおこうと思った。

別にその方は嫌いではない。むしろ、ギャグ系の投稿を良くなさる方で日々面白がらせてもらっていた。だというのに、私はそれだけに対してはなぜか勝手な反発を抱いていた。

今振り返っても全く下らない心の在り方だと思うのだが、それでも自分のことだからか理解はできてしまう。結局のところ私はみんなが面白いというものをどこかで嫌おうとしている。そしてそんな自分がカッケーと思っている。

逆張りオタクという言葉は全く私のためにある。この文章を書き始めたときに、具体例が思い浮かばないなと思っていたが、よくよく考えれば一番わかりやすい的がある。そして私は自分のことだから、当然のように自分を棚に上げてこんな言い訳を考えている。

ここまで読んでくださった方は、私の考えや歪んだ性格を理解してくださるのだろうか。それとも「自分もそうだわー」なんて思っているのだろうか。まあ、どちらでもよい。少なくとも自分を歪んでいるなどと何度も形容する人間は、結局のところ一番のナルシストであろうから。

そして最後に一つそんな歪んだ人間のささやかな楽しみを披露したい。それが本屋をぶらつくことである。特に一巻や、二巻程度しか出ていないマンガを見つけることだ。

結論として、私は誰も見たことがない作品が見てみたい。そんな思いと下らない自意識のせいでそんな行為に今宵も耽っている。ちょっと考えれば、そもそも発行されて世に出ている時点で、誰かが見つけ、拾い上げてきたものだということくらい、すぐに理解できる。少なくとも一番最初の読者ではないはずなのだが、そんなことをどこかで考えようとする。私だけが見つけた作品として、勘違いをするのである。

ただ、私は古参アピールも嫌っている。そのため足跡を残すことはない。ただ秘密裏に、そう思い込んでその作品を抱えている。なんとかっこいいではないか。私は名も名乗らずに人助けをするヒーローの役を演じていると信じているのだから。

私の創作への意欲もそんなところから湧き出たものだ。テンプレも流行も嫌い、自分だけのオリジナルを創り上げてやると、そんなことができると信じている。

逆張り上等。天邪鬼大賛成。

面と向かってそう言われるきっと否定するけど、たぶん裏ではほくそ笑んでいる。

そしていつかこんな文章を思い出して身もだえする瞬間が来る。だから、そんな日が一生来ないことを願うばかりである。

十 夏


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