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私の10分に君は永遠に敵わない

私は絵が得意だ。
特に得意なのはデッサンだ。

得意というのは私の主観ではない。
小さい頃から周囲に褒められていたし、
仕事の続かない私が唯一続いたのがWebデザインの仕事で、コーディングはからっきしだったがデザインの方はそれなりに評価もされていた。
大手の制作会社二社から内定を取った経験もある。

私は基礎がなっているほうだと思う。
今時Webデザインの仕事はちょっとデザイン理論を学べば誰でも出来るが、ちょっと理論を学んだ人より「基礎が生まれつき出来ている人」の方が強い。

基礎が生まれつき出来ている人はつまり生まれつきセンスがある人だ。
こういう人は応用にも強い。

そして私は絵のセンスを生まれ持った人間である。

以下は私が10分でクロッキーにボールペンで描いたラフスケッチだ。
知っている人も多いのではないだろうか。
ケアベアを描いた。
良くない事は分かっているが、適当にスマホで見つけた画像を使わせてもらった。
比較のため元になった画像も載せておく。

画像1

画像2

10分にしては上出来と言えると思う。
自分は絵が上手いと繰り返しているが、とてつもなく上手い、と思うほど私は思い上がった人間ではない。
ただどうしても私と健常者の違いを説明する上で便宜上、上手いと言ったほうが通じやすいから上手いという言葉を使っていてるだけで、私より上手い人は幾らだっている。

しかし普通の人に私と同じ条件を与えてもこうはいかないはずだ。
ジムノックのボールペンと原画とクロッキー帳と10分の時間。
多くの人は10分たっぷり使っても十全に描くとこは不可能だろう。

そもそも絵が描けるか否かは生まれ持った素質に大きく左右される。
描けない人はどれだけ努力をしても上達はしない。
毎日練習すればほんの少しは上達するだろうが、私たち描ける人間からしたらそれは上達のうちには入らない。

私は絵が描けない人を決して下に見ていない。
寧ろ殆んどの人は絵は描けないと思っている。
だから絵が描ける人の方が少なくて奇特な存在だとも思っているし、描ける事が凄いだとか偉いだとか考えた事はない。

確かに描ける人は重宝されるかもしれない。
しかしその人は好き好んで絵の才能を手に入れたわけではない。
果たしてそれを凄いと言えるのか?

私は子供の頃、美術というか図画工作の時間に絵の描き方を教師が教える事が不思議だった。

一部に集中しないで、全体のバランスを見て描こうね。
絵の具は濃い色を先に塗っちゃうと薄い色に戻せないから、薄い色から塗るのよ。
あー、だめだめ。絵の具は水で薄めなきゃ。

そんな当たり前の事を何故学校で習うのか。

そんなん知ってるし。
そう思って絵の描き方には耳を傾けなかった。

同時に分かった。
「普通は絵は習わないと描けないんだ」
気づいた頃には描けていた私には、絵は当たり絵は描ける。
でも他の人にはそうじゃなんいんだ。
他の人には「当たり前」じゃないんだ。
私がとうに知っている知識を必死で詰め込む同級生を見ながらそう思った。

私が10分で描いたラフスケッチに君は永遠に敵わない。

私は君が一分で解ける数式に永遠に解を出せない。

私は絵のセンスというあまり人が持ち合わせていない素質を持っている。
そしてそれは人生に於いてさして役に立たない。

君は知性という多くの人が持ち合わせた素質を持っている。
そしてそれは人生に多いに役立ってくれる。

しかし君のその知性は自分の努力でなく神が与えた素質とも言い換えられる。
当然努力もしているのは知っている。
しかし素質をそもそも持てている事に君の選択の余地はあったのか?
答えはノーだ。

どんな事に素質が分配されるかは神のみぞ知る事で、そのきまぐれな差配で与えられなかったものがある人間を果たして責められるであろうか。

村上龍が村上春樹の小説を評して、彼の書くものは「最大公約数が大きい」だとか「最大公倍数が大きい」だとか言っていた事がある。
私はどちらの単語も聞いた事はあるが理解は出来ないのだが(調べてなお分らなかった)、要するに村上春樹の小説は万人が好む、と村上龍は言いたかったのだろう。

絵が描ける事より知性がある方が最大公約数だかなんだかは大きい。
人生の役に立つ、という事だ。

しかし私は素質がないから諦めている訳ではない。

君たちがあがき続けて形にならない絵を描く様に、私は無理やり下手くそな人生の軌跡を描き続けている。

その事は覚えておいて欲しい。

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