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曖昧な輪郭

人間と動物との違い、は永遠に区別出来ないだろうが(人間も動物だけど)
違いの一つに「動物は強力し合わない」というものがある。
言われてみれば動物は基本的に単独で行動する事が多く助け合う事は少ないかも知れない。

動物ほどきっぱり独立する必要はないが、人間も他人は他人だ、と割り切る事は非常に大切だと思っている。

私にとって自分以外の人間は全員他人である。
血が繋がった人間だろうが、親友だろうが自分でなければその人は他人だ。

冷たい言い方に聞こえるかも知れないが、他人と自分の区別が付かない人の方が寧ろ他人に冷たくなるのだと私は思う。

他人は自分とは全く別のアイデンティティーを持った人間、としっかり理解している人の方が他人を尊重出来るものである。

自分と他人の境界線が曖昧な人間は他人を自分の一部、だとか自分の所有物の様な感覚で扱ってしまっているんだと思う。
家族、恋人といった近しい関係になるほどこの傾向は強くなる。

家族だから恋人だから多少ぞんざいに扱ってもいい、という気の緩みが出るせいである。
逆に多少ぞんざいに扱われるとかっとなるのも他人を他人と認識出来ていないせいだ。
親しい人間は当然自分と近しい意見を持っているし、自分に危害など加えないと思っているから、ほんのちょっとした心のすれ違いが起きただけでもそれを決定的なもの、と捉えてしまうのだ。
この気の緩みは悪く言えば軽い依存心である。
依存は期待を生む。
そして期待が裏切りを生む。
気付かないうちに他人に期待をしているから裏切られた、等と大仰に感じるのである。

他人は他人で独立した思考や価値観があると割り切っていると、ちょっとやそっとのすれ違いでかっとなったりしない。
まして裏切られた等とは思わない。
この人は私ではないから私の理解の及ばない事を行うのも当然、と思える。

また相手は自分ではないのだから相手の事を完全に理解する事は不可能だ、という認識がある人の方がより深く相手を思い遣れる。
理解出来ないと分かっているからこそより一層理解の為の努力が必要だと知っているからだ。
理解しようと努力する姿勢は相手に伝わる。
この姿勢は何もしなくても必ず伝わるもので、その姿勢こそが一番大切なのだ。
誰かが自分を理解しようとしてくれている。
その気持ちを人は嬉しいと思うのだ。

人と人というのは基本的に解り合う事が出来ない。

カウンセリングは「治療は出来ない」を前提に行うものである。
だから患者の心に寄り添ってその人が生きやすい様にサポートする、というのがカウンセリングの基本姿勢だ、と知り合いが教えてくれた。
心理学のプロでも他人の心は理解出来ない、という事の証なのだと思う。
だから人と人は解り合えない、という認識は恐らく正しいのだ。

他人をぞんざいに扱う人間は自分も雑に扱われるものだ。

そうならない為にも自分と他人は別の生き物、という認識を持って他人を尊重しながら、でも他人に依存しない様に生きる事が大切になってくる。

自分と他人の間にはっきりと境界線を引く事は孤独を知る事でもある。
しかし孤独を知らなければ触れ合う喜びも知る事は出来ない。

だから孤独は触れた手の暖かさを知るための理由なのだろう。

冬の寒さを知る者だけが、春の暖かさを尊べるのだ。

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