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日常の動きを瞑想化する2

「中道に則った生活」という言葉が、ある覚者(=悟りを得た者)の書いた本にあった。
瞑想とは中道を行くことだ。
それは、なるべく極端を避ける、ということ。

「キッチンを綺麗にしよう」と思い立ってすみずみまで掃除したとする。
頑張った甲斐あって、金属が鏡のようにピカピカに輝き、気持ちいい。
満足してリビングに戻ったが、その数分後、再びキッチンを見ると、汚れている(笑)
家族がポンとゴミを置いたり、何かのせいで汚れている時に「おい!」という気持ちになる。「せっかく掃除したんだから綺麗に使ってよ!」と思う。

これが「極端」だ。
バランスが取れていない。シーソーの片方が地面に付いている状態と言っていい。
悪いのは、汚した人ではない。
昨日までは苛立たなかったものに苛立つようになったあなただ。

掃除をするなと言っているわけではない。
掃除は大切だし、清潔で整理整頓された空間は気持ちがいい。
だからこそ、自分よりも掃除に関して無頓着な第三者が汚してしまった時の苛立ちは誰もが経験することだろう。(特にnoteの読者は多い気がする)

その場合、じゃあどうするかというと、抽象的には自分が変わるか、相手を変えるしかないだろう。
具体的には、
1 家族のものに「もう少し●●して」と注意するか
2 毎日、こまめに掃除をする決心をするか
になる。

1に関しては、前述した通り、自分が勝手に掃除をして自分で勝手に苛立っているのでよくない。
2もストレスを感じたり、内心ストレスを感じながらするのであればしない方がいい。「自分が正しい」という理屈で、今まで通りに過ごしているだけの家族に恨みを持つことになる(それに家族の無頓着さは、すでに知っていたはずだ)

ちなみに僕がやっているのは、行為でいうと2にあたる。
最初は僕もすごく苛立った。特に僕は八人ぐらいが一軒家で生活している上、トイレとキッチンと風呂場を全て自分でやっているから明らかに不平等だ。だから最初は注意もしたし、新しいルールの提案もした。

だが、やはり変わらないのだ。それを理解する度に苛立つが、この時点ですでに中道ではない、バランスが崩れているということになる。
気にしないようになるしかない。
以前の記事で書いた通り、僕は今は掃除を掃除と認識していない(ように努力し続けている、と言う方が事実に近い)。掃除は日々の生活の動きであり、運動であり、瞑想でもある。その結果、キッチンが綺麗になったり、トイレの汚れがなくなったりするが、それも本来はただの現象でしかなく、明日になれば失われる。それをまた掃除をする。永遠に続く修行のようなものだ。

偏らず、こだわらずに、ただ行為として「掃除」にあたるものを淡々とやっていくしかない。

誰かが楽をしているのが憎いと感じるかもしれないが、自分と他人と比べること自体、苦しみの卵なので、それは自分の問題と捉えるしかない。(とまで書いて「他人と比べるをやめる」を先に書けばよかったと思ったが、これはまた後日に書こうと思う)

最後に、誰かの替わりに掃除をしている僕のような人がいたら「いつもお疲れ様」とねぎらいの言葉を送りたい。





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