『窓ぎわのトットちゃん(2023) 』空想とリアリズムのアニメーションの凄み


窓ぎわのトットちゃんは黒柳徹子の小学校時代の物語である。子どものころ読んだ人も多いだろう。私も内容は覚えていないものの読んだ。そして電車の教室というイメージが強く残った。
だから窓ぎわのトットちゃんに対して抱くイメージは子ども向けの温かい話のようなものだった。

今年公開されたアニメーション映画の今作はそのようなイメージを描きつつもしかし、同時に大きく裏切るものである。
裏切る、というのは悪い意味ではない。
むしろこの映画においてこの裏切りはトットちゃんの成長を描くうえで不可欠なものである。そしてそれはこの映画が描く時代の背景とも大きくリンクしたものなのだ。

私が今作を鑑賞中に思い浮かべた映画を挙げていこう。『この世界の片隅に』『未来のミライ』『火垂るの墓』『FLEE』『FUNAN』

これら連想した映画と今作は共通する要素を持つ。それはこれらの映画は実際の歴史を背景とした映画であるということと、アニメーションとして固有のスタイルを持つということだ。

ただし上記で列挙してみた映画の中で『未来のミライ』だけが浮いている。
私がこの作品を思い浮かべたのは、この作品が子どもが見る世界を描いているからである。そしてそれは地のアニメーション(単純に出来事を描いたり物事が進行したりする部分)とは異なるスタイルのアニメーションで描かれている。
今作にも同じように地のアニメーションとは異なるスタイルで描かれたアニメーションが何箇所か出てくる。それは、楽しげなものだったり少し怖い夢だったりする。そしてそれらは地のアニメーションに比べて空想的、想像的である。

もっともアニメーションの中に異なるスタイルのアニメーションがある、という意味では他の作品にも似た要素がある。『この世界の片隅に』では爆発の瞬間アニメーションのスタイルが変わるし、『FLEE』では登場人物の記憶に異なるスタイルのアニメーションを持つ。
ただしこの2つの作品におけるアニメーションスタイルの変化はそれを登場人物の主観上のインパクトと鑑賞者のインパクトを重ね合わせる演出上の意図があると思われる。
さらに言えばこの2つの作品において異なるアニメーションが用いられるのは記憶にまつわる部分であり、記憶の曖昧さや欠如をイメージとして再現しようとしたアニメーション、という風に見える。

対して『未来のミライ』、『窓ぎわのトットちゃん』では子どもの主観上そういうふうに見える、ということが重要であり、インパクトが必ずしも重要なわけではないだろう。そこには空想のアニメーションならではの楽しさがあるように思う。そしてそれらは今まさに登場人物が見ているものである。

この差異は優劣のあるものではないが、しかしこの作品を評するときには重要になってくる。
なぜならこの作品におけるいくつかのショッキングなシーンはいずれもアニメーションのスタイルの変化によってもたらされるものではないからである。

この映画においてショッキングなシーンは大きく分けて2つある。
1つは2つの死に直面するシーンであり、もう1つは2つ目死の葬式のシーンから展開される一連のシーンである。
3つあるじゃないか、と思われるかもしれないが死への直面は同じ括りにできると思われるため2つとした。

まず1つ目の死への直面である。
この作品において死が描かれることは予告編から予想できた人も多いだろうが、実際に見てみるとその描写には驚かされるものがあった。
この映画における最大の特徴は、死を何か感動的なものだったり、通過儀礼として描くよりも先に、主人公トットちゃんに死そのものと対峙させる点である。
それはどういうことかといえば、過度な死の装飾なしに、しかしそれと分かるように描写された死者を画面に写して見せるということなのだ。
この映画に出てくる死者は他のどの映像作品の死者よりも静かで動かない。そしてどの作品よりも尊厳を持って、というのは作品内の社会においてということではなく、死そのものとしてという意味であるが、描かれている。
そしてそのことがこの作品におけるありふれた1つの死の身震いするような怖さでありリアルさなのである。
つまり死とはこんなものか、であるのだが他方死んでいるのである。この作品はその断絶を登場人物に真っ向から対峙させるという稀有な作品であり、私自身は映画鑑賞をしていてこのような体験に出会ったのは初めてである。

2つ目は葬式から展開される一連のシーンである。
葬式とはネガティブなイメージのイベントだが、しかしその直後極めて明るいイメージのイベントに出くわす。そしてそこから逃げ出そうとすると別の明るいイメージと暗いイメージの出来事に出くわす。
このシーンがショッキングであるのは個人的に(主観的に)暗いイメージだったところに社会的な明るいイメージのイベントと出くわすことで、個人と社会との断絶を描いて見せていること、そしてしかしその社会的なイベントから逃げ出そうとすると別の社会的な明るい/暗い出来事と出くわすことで社会内での陰影も描いているからである。
そしてそれは見事な一連のシーンとなっている。

重要なのはこの2つのシーンが主観的、心理的ショックによって描かれるのではなく地のアニメーションのスタイルによって描かれる点である。通常と同じスタイルのアニメーションで描かれることでそれはリアルなショックと感じられる。
このことは個人に対してショックを与えるものはリアルなものであり、外部のものである、というふうに思わせる点において見事である。

私にとってこの映画における裏切りとはリアルである、ということだ。そしてそれは登場人物トットちゃんにとってもショッキングでありうる。
この映画は周りの大人の温かさや愛を描いている。子ども時代の憧憬や空想の楽しさも描かれる。
しかし、この映画はそれだけではない。ことあるごとにトットちゃんはリアルなことに直面する。それは物事の光と影とか二面性と呼ぶことのできるものである。それはトットちゃん自身の成長にもつながるが他方当時の社会状況ともリンクするような描き方がされている。その究極が先に挙げた2つ目のショッキングなシーンである。
それを真正面から描いてみせたこの映画はまさに今観るべき映画である。

最後にこの文章で触れることはできなかったが演技や動きとしてのアニメーションや背景美術、そして声優の演技などこの作品は全ての要素が素晴らしい、というか凄まじく凄みを感じる。
鑑賞する際はその点も楽しめることだろう。

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