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2020年6月

 仕事のふりして書斎にこもっている。小僧は部屋に、妻は世の中を憂い寝室にこもっている。物音がした。連続的な機械音。マスクでも縫う気になったか。俺は小さくECDのナンバーを流す。ダッテマダハジマッタバッカ21セーキ。ミシンがシンクロ。そして、ブレイク。ブブってスマホが震えた。俺の部屋ではない。小僧の屁か。ここまで経済活動を絶たれたら二酸化炭素は削減されるのかしら。やっぱり地球が怒っているのかしら。終わらない開墾と植民の結末。幸い今月は食っていける。生涯食うに困らない輩もいる。明日の飯を悩むヒトへなにができる。なにより次の飯だろう。ノブを捻り部屋から踏み出す。
「私、おにぎりを握る」
 ダイニングには真新しいエプロンを纏った妻。
「俺、一万の貧乏人とつながっているけど」
 背後には斜に構えてスマホを付き出す小僧。
 俺には何がある。一万の貧乏人とおにぎりをつなげる術は無いか。旋毛に指を立て、頭を回しはじめる。

 無責任な掌編をアップしてSNSで報告。ネット民の反応を伺う。高評価のマークが三つもつけば上々。両腕をあげて背筋を伸ばしながら敷居をまたいで和室に倒れ込む。すっかり干からびたい草。不愉快な生活臭しかしない畳。独自に開発したストレッチで身体を捻る。気持ちがよければ何かしら効果はあるだろう。
「前衛的ダンスのようでも、あるわ」
 多少色気のある声を漏らしてから、スマホへ手を伸ばす。なにか反応はないかしら。画面をスワイプで流せばタイムラインは某アスリートの発言でにぎわっていった。俺は顔をしかめる。天性の運動音痴だから身の軽い奴らへの嫉妬心がすごい。キングだのレジェンドだのが発信する言葉に欠陥はないか。成功者特有のフレーズになっていないか。粗探しに余念がない。所詮、日の丸を背負って云々いう輩なんてデンデンでん。
 鼻を鳴らしてスマホを放る。身体をさらに捻る。妙な声を発する。羊はメーで、山羊はボー、誰かが言っていた。より気持ちのいい方へ。畳の上でのたうち回りながら、全盛期だった頃のプリンスのパフォーマンスを思い浮かべている。七二時間限定無料公開のコンサート映像を観たばかりなのだ。自粛の最中、この手の動画配信が増えた。限定&無料の情報を掴んだからには観なけりゃ損々。特別ファンというわけではない。代表曲は幾らか知っている。一般的なプリンスとの距離感。
「パープーレイン、パープレイン」
 のたうち回りながら知っているフレーズを口にする。明後日に向かって手を伸ばせば、スマホがふるえた。我に返って、そいつを拾い上げる。画面の隅にはハートマークが一つ。喜びも束の間、口角を下ろす。真っ先に反応したのは七〇を過ぎた母だった。溜息が漏れる反面、今日も生きていたかと一安心。離れて暮らす母が、ある程度情報技術を手にしているのは助かる。特に応答する必要もなかったが、こんな時期だ。
〉なんか困っていることはないか?
 いつもの定型文をダイレクトメッセージで送信。
〉大丈夫。そっちはどう?
 すぐに返信が帰ってくる。感染はしていないようだ。少なくとも自覚症状はないのだろう。
〉大丈び。お互いがんばろう。
 送信をタップしようとして躊躇。
「がんばろう」か。
 一字一字確かめるようにつぶやく。俺が餓鬼だった頃、がんばろうは無責任な言葉というカテゴリーではなかった。何よりも嫌いな学校行事だった運動会。いやいやながらもボイコットしようという気概はなく、小学生の頃であれば皆と一緒に声を張り上げていた。がんばろう。がんばれ。がんばるぞ。本当に赤組が優勝したらいいと思っていたから。オンリーワンよりナンバーワン。嗚呼、テツロウは誰よりも輝いていた。何よりも尖っていた。
〉大丈び。今度ハグしてやろうか
〉遠慮しておくよ
 すぐに窘められた。ネタ元はばれているだろう。母も好きな作家がSNSで呟いた言葉を模したものだったから。
〉速くお嫁さんでも探しな
 余計な一言を追啓。速く?早く?そのはやくはこのはやくでいいのか?スピード感を持ってがんばれということか。がんばれは中学生あたりから嫌になったんだよ。
〉ステイホームじゃ無理な話だ。
〉WEB合コンなんてのもあるらしいじゃないの。国も一〇万円くれるって。
 給付金でWEBカメラと見栄えの良くなる修正ソフトでも買おうか。母親は情報技術に疎いくらいがちょうどいい。

 玄関開ければ二分で到着。俺は今日も皿を持って拉麺酒楽の焼き餃子を買いに行く。
「毎度どうも。ステイホームせんでいいんか?」
 ここの餃子はコロナ以前から世話になっていた。俺は苦笑いを浮かべる。反論せずとも店主は言葉をつないだ。
「ステイホームと叫ばれても、ここは俺の家だからな。商売したって文句はねぇだろう」
 昨日も聞いた台詞だ。今では食堂の入り口を閉ざし、窓だけ開けて、テイクアウトの餃子専門店と化している。店の前には何人かの客が列を作らずに散らばっていた。皿を持っているのは俺だけだ。最近ではメディアに飽きられたようだが、一時期環境大臣がプラゴミ云々と騒いでいたろう。トゥーンベリ嬢の訴えもあって、地球へのダメージには多少なりとも気を使っている。どうせ家に帰ったら直ぐに食うのだ。たった二分の運搬のため、毎回使い捨てのパックに入れてもらうのもどうか。俺なりに考えた挙げ句、皿を持参するようになった。すると、本来六個の餃子が八個になった。俺の行動に感心してくれたのだろう。もしくは、六個の餃子にしては大きすぎる皿に気を使わせたのかもしれない。
 厨房の奥ではいつだっておかみが黙々と一定のリズムで餃子を包んでいた。見入っていれば、窓から何も持たない店主の手がのびる。
「はい、お待ち」
 どうやら俺の番だ。その手に皿を乗せると、へらを返して餃子を乗せた。
 二分で家に帰れば、電子ケトルで湯を沸かし、即席の春雨スープにそいつを注ぐ。冷や飯をチンすれば餃子定食の出来上がり。春雨スープは六つの味から選択可能。何かが足りない。糖尿病予防にはまず野菜を食えと聞いた。テレビは食物繊維が重要と伝えた。会社の同僚からは生野菜の酵素がいいのだと聞いた。俺は毎度「となりのトトロ」のワンシーンを思い出しながら、台所で水洗いしたキュウリの両端を齧って吐き捨てる。そして、餃子定食へ取りかかる前にキュウリを一本平らげた。

 休日のステイホームは実に長い。昼飯をすませたら、日暮れのウィスキーを待ちわびながらスマホで情報を漁る。ウィスキーといっても上等なものではない。七二〇ミリリットルで八〇〇円もしない国産ブレンデッドだ。かつてはスモーキーだのピーティーだのと口にしたくて、スコッチに金をかけたこともあったが、結局、国産に落ち着いた。どうせ炭酸ののど越しも欲っするから、余計な酸味が混じった状態で嗜むことになるのだ。
 アルコールは日が暮れてから。そのルールは破らない。誰に決められたものでもないが、どこかだらしないという思いがある。まだ餓鬼の頃、休日の親父は昼間っから酒を飲んでいた。幼い俺を自転車に乗せながらも缶ビール片手にフラフラペダルを漕いでいたものだ。それがトラウマというわけではない。俺なりの線引きだ。アルコールを取り込むと睡魔に襲われることも問題で、休日の時間を昼寝で潰したくはない。やることが無くとも暇は愉快だ。再び繰り返される平日までの時間をできるだけ引き延ばしていたい。
 ソーシャル・ネットワークという名の世間では検事の定年延長が話題になっている。「検事長法改正案に抗議します」とハッシュタグをつけて言葉を発信する者。それを叩く者。ソーシャル・ディスタンスを守って国会を囲む者が現れたかと思えば、ヴァーチャル空間に国会議事堂を建ち上げて、プロテスト・レイブを配信する者まで現れた。ステイホームはしてやるけれど自粛は御免だよ。そんな意気込みがたくましい。俺は電子ビートに脳味噌を揺らしながら、餃子を包み続けるおかみを思い返していた。
 ステイハウスではなくステイホーム。ハウスとホームの概念を言及する者がいた。ハウスは建築物である家屋そのもの。本来政府が発信したかった言葉はステイハウスだったのだろう。ホームの概念は人それぞれ。家屋の中でもこの部屋こそが俺のホームと鍵をかける者もいるだろう。他人とのつながりを重視する者はどこまでもホームの枠を広げていける。
 一人暮らしでヒト付き合いの悪い俺にとって、ハウスとホームはほぼ同義語。名前も知らない坊主頭が垂れ流す音楽に鼓膜をふるわせながら、ヴァーチャル議事堂を前に踊り狂う人形たちを眺めている。辺りには抗議の立て看板が並び、映像はその間をすり抜けていく。三権分立、強行採決反対、火事場泥棒、アベヤメロ。そして、俺は拉麺酒楽のおかみと接続する。音楽にシンクロしながら餃子を包み続ける。
 基本的に政治には無関心で、各種税金を引き抜かれるのが当たり前と考えていた(いや、考えもしない)俺だった。ソーシャルなネットワーキングサービスを利用するようになると、どんな言葉が自分にとって愉快であるのかを知る。気に入った言葉ばかりを拾い集めていけば、ノンポリでやってきた俺はアベガー寄りであることに気づく。俺のタイムラインはアベガー達の言葉に満ちあふれ、たまに目にするアベガーガーの言葉を嫌悪する。それが世間であると勘違いする。全国紙の世論調査では相変わらず均衡する支持と不支持。そいつに首を傾げるが、俺が目にする政治的発言はソーシャル・ネットワークでつながる匿名人物の声ばかり。俺だって匿名でリツイート。仕事をする上では政治的な発言、宗教的な発言を避けるようにと教育されてきた。主に対顧客においてだったようにも思うが、結局、同僚ともアベを主語に会話したことがない。
 レイブの動画配信は途中から音が消えた。著作権がどうこうとメッセージがでている。無音の中でなにやらダイヤルを捻る坊主頭。この手の音楽が好きなわけでもない。若い頃はギターを握った。今でもテケテケした音楽よりはデンデケしたものを好む。坊主頭が忙しなく操作しているそれにどんな意味があるのか分からない。無音になったコンピューターグラフィック映像、国会議事堂のまわりで踊り廻る人形達、ヴァーチャル立て看板には例の四文字単語など下品なものも目に障る。俺は映像を止めた。
 多くのアーティストが無料の動画配信を行うようになると、今更グリーン・デイが好きになったりする。デンデケは以前から好みであったが、九〇年代、国内外問わずメロコア乱発された頃、どいつもこいつも同じだと嫌気がさし、「バスケット・ケース」が諸悪の代表格だと思い込むようになった。
 コロナ禍になって、レディー・ガガが発起人となったオンラインイベントがあったろう。日本でも深夜に字幕付きでテレビ番組が流れた。エディー・ベダーを期待して録画したが、思いがけずビリー・ジョー・アームストロングが弾き語る「ウェイク・ミー・アップ・ホウェン・セプテンバー・エンズ」に心奪われた。親父を亡くした少年時代の心象らしいが、タイトルが今の状況とシンクロした。詳しい歌詞は知らん。
 国内においても有名アーティストのサービス精神がこだました。中でも杏が弾き語る「教訓1」の澄んだ声には引き込まれた。パンクも、フォークも、若い頃からテケテケ以上に親和性があった。時折、部屋の隅に立ててあるギターを手に取る。出しておかないと触らないだろうと出しっぱなしにしている。お陰で触る度に埃を吹いて飛ばしている。買ったのは二〇年以上も前になるが、毎回、多少の調弦さえすれば俺の耳ごときに狂いは感じない。憧れだけで手にしたアコースティックギター。なんの情報も持たないまま、手ごろな価格と色合いの好みで購入した国産ギター。スリーコードを循環させて悦に浸ってから、CDつきの「ブルース・ギター入門」なんて教本を開く。タイトルも存在しないスローなブルースソロを弾きはじめる。何度も躓き、目を閉じて舌を出す。直ぐに飽きて部屋の隅に戻した。

 ようやく日が暮れ、シャワーで尻を洗って寝間着でウィスキーを嗜みはじめる。平日ならば仕事から帰ると必ずはじめにシャワーで全てをリセットする。全身にまとわりついた仕事モードを洗い流さなければ、飯も酒も楽しめたもんじゃない。週に二日の休日だって同様、酒の前にはシャワーを済ませておかないと何処か落ち着かない。大した量を飲むわけでない。それでも飲んだ後のシャワーはやはり煩わしいだろう。
 毎朝一日分の米を炊いている。正確には前の晩に予約セット。即席の春雨スープにはしょっちゅう世話になっているが、カップ麺の類はストックしていても極力食わないようにしている。おかずは買ってきた惣菜になる日も多いが、カップ麺は悪であると俺の脳にインプットされている。日中のアルコールと同様に。
 俺はハイボールを嗜みながらフライパンを握る。冷凍野菜のほうれん草に、冷蔵庫の中で切らしたことのない卵とソーセージ。適当に炒めれば上等だ。春雨スープは六種類から選べる。酒には年々弱くなる。ぼんやりと報道番組を眺め、眠りにつく。

 WEB会議システムを立ち上げることが出社の合図。もともと出勤カードなどの仕組みはなかった。それでも九時になったら仕事開始のサインを送らなければならない。さぼっているやつを監視したいのか。効果のほどは不明だ。俺には考えも及ばない監視システムが働いていているのかもしれないと、時間になればPCの前で背筋を伸ばす。情報技術には母親よりも疎い。ITがAIでWEB合コンというが世間の標準らしいが、二一世紀が来る前に恐怖の大王が降ってくると思っていた世代だよ。
 それでも、コロナ以前からたまには使っていたWEB会議システムだ。セットアップされたPCがあれば、隔週の部内会議ぐらい参加はできる。
「おはようございます」
 ばらばらと寝起きのような声がこぼれる。
「みんな家かな?」
 はじめに随分髭面となった課長がみんなの様子を確認する。
「俺、ちょっと会社です」
 何かのアピール。
「用事が済んだら早めに帰れよ。ラッシュ時は避けるんだぞ」
 定型の気遣い。
 うちの業界は恵まれているのだろう。明日の飯が不安になるほどの影響は出ていない。それでも、こんなご時世だ。大した成果は見込めない。顧客とWEB面談がセットアップできただけで価値あるものとされる。結果が伴わなくとも新しい取り組みは好ましい。先週、俺も一番のお得意様とWEB面談の練習をさせてもらったところだ。ほぼ見込みのない商談について多少前向きに報告した。いつものあの人ね。誰もが思ったことだろう。みんなの顔がまっすぐ俺に向いている。なかなかどうして僅かな表情の変化も鮮明だ。俺は奥歯を噛む。妙な緊張感に襲われた。考えてみれば、リアルなミーティングであれば、課長以外はみんな一方向を向いているのだ。こんなに視線を感じる社内ミーティングもない。
「あれ、今日議事録誰でしたっけ?」
 会議も後半になって言い出すやつ。最後まで黙っておけよ。誰もが黙り込む。
「録画してますよ」
 情報技術にやたら強いやつが台頭する。髭の課長が褒めそやす。新しい取り組みは好ましい。すごいのなんのと矢鱈ざわつく。新しい生活様式なんて何処かで聞いた言葉を口にする。俺は、次のWEB面談のことを考えながら若干うんざりしていた。

 以前であれば仕事帰りに駅前のスーパーで買い出し。その生活様式も変わりつつある。そもそも仕事から帰らない。そして、仕事が終わってから買い物に出かけなければならないのだ。買い出しは三日に一度程度にしてください。そんなことを頼まれても、俺は毎晩その日の気分で惣菜を買っていたのだ。平日から自分のためだけに料理などしていられるか。
 それ以前に、晩飯調達のためだけに駅前まで足を運ぶのも億劫だった。結果、歩いて二分の拉麺酒楽に通い詰める。餃子ならば栄養価も高いだろう。なにより美味い。
「はい、毎度」
 窓から店主の手だけが伸びる。はやくも俺の順番かしらと訝れば、近所で見かけたような顔が皿を差し出した。そこにはやはり八個の餃子が乗せられる。いつしか俺だけのサービスではなくなっていたようだ。
 再び素手が伸び、俺はソーシャル・ディスタンスを保つ顧客を見渡してから自分の皿を差し出した。店主は少し声を潜める。
「よう青年。お陰で真似するのが増えてね。でも、大事大事。パックの量も減ったしね」
 それは餃子を二つ増やすことに見合うものなのか。俺は気になって厨房の奥へ視線を運ぶ。おかみは俯き加減で、相変わらず餃子を包み続ける。心なしかそのペースが上がっているようにも思う。時折、首を一回転させた。
 家に帰ったらシャワーだ。湯に打たれながら首を回す。少し濃い目にハイボールを拵え、その夜は、春雨スープを飲む気になれなかった。なんだか餃子も味がしない。コロナにかかったかしらなんて、こんな生活で誰から伝染るというのだ。どうにも気が晴れず、歯を磨いてからYouTubeをつなぐ。杏の「教訓1」でも聞けば慰みになるだろうと検索すれば、直ぐ下にはそれを批判する動画がアップされていた。なんかダメなの?自分は世間に乗せられているだけなのかしら。ふと不安に襲われる。
「俺が好きなんだからいいだろう」
 思いがけず声に出る。そして、杏をタップ。澄んだ声も、眼鏡のカーリーヘアも、ボーダーシャツにアコースティックギターも、全てが完璧じゃない。三回連続で聞いて、布団に倒れた。そして裏声で口ずさむ。
「青くぅ、なってぇ、尻込ぉみなさいぃ♪逃げなさぁい、隠れなさぁい♪」
 薄暗い和室で木目の天井を見上げれば、黙々と餃子を包むおかみが浮かび上がる。その顔を思い浮かべようとするが、どうしても皺くしゃの店主の笑顔が浮かぶ。最近では、厨房の奥で俯く横顔しか見ていないが、かつては店内で注文を取ってもらったことがあったはずだ。
「青くぅ、なってぇ、尻込ぉみなさいぃ♪」
 俺は繰り返す。おかみの顔は現れない。
「逃げなさぁい、隠れなさぁい♪」
 夢に杏が出てきた。ラッキー。

 翌朝も在宅だ。不要不急の用件はない。俺の顔が見られないことで、その日の飯に困るやつなどいないだろう。「どうにもならないことなんてどうにでもなっていいこと」甲本ヒロトの言葉。正直なんのことやら分からなかった。「シンプルにわかりやすく説明ができないことは実はそれほど重要なことではない」ホセ・ムヒカの言葉。そいつを読んだ時、おおよそ同義語だろうと解釈することにした。俺の仕事は自社製品のアプリケーションをコンサルタントすることによるソリューションのプロバイダー。腹を空かせた市民のために餃子を包み続けるおかみの足元にも及ばない。
 九時になればPCを機動、WEB会議システムを立ち上げて「連絡可能」の緑サインを出す。すぐに課題が降ってきた。内容的に俺だよな。もやもやするからご指名で来いよ。とは言え、直ぐにソリューションをプロバイドできるとは思わんでくれ。メールに、会議システムに、SNSに、画面には次々メッセージが立ち上がる。急ぎの案件ならば電話が入るだろうというのは、どうやら一昔の考えのようだ。俺はPCの前で「連絡可能」のサインを掲げているのだ。そして、「一時退席」の黄色サインと、「応答付加」の赤サインの線引きが分からない。
 電話は大抵不意に鳴る。アナクロニズムに攻めて来たのはあいつだった。
「おう美津濃、生きてるか?」
 俺は確かにそんな名前だった。会社で呼び捨てされることも少なくなった。同期のあいつだ。あいつ、同期だよ。
「おう」
「どうした?」
「堂島っ」
「なんだよ」
 すっかり名前が飛んでいた。とは言えない。しばらく会っていないからと言うより老化だろう。脳味噌の劣化。
「なんだよって、おまえが電話したんだろう」
「まぁ、そうだな。とりあえず生きててよかったよ」
 堂島は神戸支社の同期だ。
「なんだこの番号?事務所にいるのか?」
「いや、家だ。IP電話だよ」
「なにそれ?」
「パソコンからかけるやつ。有能なアシスタントが設定してくれた。細かいことは聞くな」
 もともと一緒に本社勤務をしていたが、生まれが西日本だった。本人の希望なのかどうかは知らんが、こんな時期だ、生まれた土地で過ごせるのは精神衛生上きっと悪くはない。
「そっちもまだ外回り出来ないの?」
「基本、本社と同じだよ」
 若い嫁さんと幼い子供の声が漏れ聞こえる。
「かわいい声がするな」
「嫁?」
「あ?」
 ふつう子供のほうだろう。
「ああ、下は四月から小学校のはずだったんだけどな。エネルギー持て余してる」
「大変だな。ずっと家にいるの?」
「無理無理。上のやつに頼んで、公園に連れ出してもらってる」
 前妻とのお嬢さんがいたはずだ。
「だよな」
 それでいいのかどうかは知らんが。
「マスクしてな」
 俺は電話を持ったまま二、三うなずく。PCの画面にメッセージが現れた。何かのミーティングが始まるようだ。普段であれば、ちょっとした立ち話で済んでいたようなことにもいちいちインビテーションがかかる。
「なんかはじまるみたいだから切るよ」
「ちょっと待てよ。別におまえの様子を確認するためだけに電話したんじゃないんだよ」
 そりゃそうか。
「今週後半くらいに一発アポ入れたいんだけど美津濃も一緒に入れないか?例の新しいソフトのこと話して欲しいんだけど」
 俺は予定表を立ち上げて週後半の日程を確認する。自粛がはじまったばかりの時は商売の話をすることにも抵抗があったが、すぐに慣れた。お互い距離感を探っている。ならばこっちから詰めていけばいい。
「木の午後か金の午前ならいけるぞ」
 木の午前と金の午後には、どうでも良さそうなミーティングときっと流れるであろうアポが一時間ずつ入っていた。
「じゃ、ちょっと空けといて、アポ決まったらインビテーション入れとく。忙しいところ悪いな」
 最後のそれは皮肉ではないのだろうが、表情の見えない言葉たちがいちいち癇に障った。

 在宅は昼飯が厄介だ。ストックの赤いきつねときゅうり一本で済ませてしまったから、業務終了後PCを閉じたときには随分と腹を空かせていた。一日中座っているだけとは言え、生きてりゃ消耗する。一〇〇年近くも動的均衡を保ちつつけなければならないのだ。食わなければ凹む。出さなければ荒れる。肉体の折り返し地点はとうに過ぎ、日に日に身体は不快になっていく。生き物のベースには不愉快がある。そんな言葉を聞いたことがある。人生の目的はハッピーの追求などではない。きっと、この不愉快を取り除く作業だ。まずは空腹感を取り除かねばなるまい。そして、今日も餃子を求めて拉麺酒楽へ。用を足してからにするか。
 活動範囲が狭くなれば一人暮らしの日々はルーティンになってくる。洞窟から抜け出して乾いた大地に生えたわずかな草や小さな甲虫を摘まんで口へ運ぶ。雨が降れば水たまりを必死に守る。いつかモノリスは降りてくるだろうか。
「はい、毎度」
 窓から店主の手が伸びる。宇宙の旅から目を覚まし、自分の両手に目を落とす。
「あれ?今日は皿ないの?」
 やべ。忘れた。俺は小さく頭を下げた。厨房の奥でおかみが手を止めて首を回す。目があった。ほんの一瞬のことだったけれど、その顔を正面から見るのは随分と久しぶりだ。シワやシミは光を吸い込み、薄暗い厨房から瞳だけが強く光を弾いている。年齢でいえば俺より母に近いように見える。確認をしたことはないけれど、店主の配偶者なのだろう。
「はい、毎度」
 そいつを口にしないと店主は手を伸ばせないのか。プラスチックパックには六つの餃子。当たり前のことに肩を落として、小銭を支払った。
 ポストを覗けば、スマートレターなる郵便物が届いていた。手に取ると依頼主は何やら横文字の会社。俺は黒縁眼鏡の青年を思い浮かべる。
「モーメント・ジューンか」
 細身の青年がライブ配信を行った時、アルバムのフィジカル盤を無料で送ると言い出した。そんなことして大丈夫なんかい。経済的に。大胆な発言に唖然としつつも無料には滅法弱い。俺はライブ配信終了後すぐにメールを打っていた。
「マジで来たよ」
 割と時間も経っていたから正直忘れかけていた。部屋に戻れば早速PCに取り込みつつ再生。いい加減に肩を揺らしながら餃子を齧り、春雨スープを啜る。腹が満ちたら、ウィスキーを舐めながら過去のSNSを漁った。フィジカル盤を配るから余裕があったら何処かに寄付をしてくれとメッセージを残していたはずだ。どこまで気のいい青年なのだ。「いいね」していたような気がするけれど、他人の発言には割とすぐ共感してしまうものだから「いいね」に埋もれる。モーメントの「いいね」だけを検索することはできんのかしら。真っ赤なキムチでビンタ。真っ赤なキムチでビンタ。
「なんじゃそりゃ」
 思わず吹き出す。往復ビンタを喰らいながら、鼻から春雨を出しながら、どうにか過去の発言にたどり着く。モーメントの名前で寄付したよなんて返信も投稿されている。それいいじゃない。リンクをクリックすれば、毎月の定期寄付と単発寄付の選択肢。単発でよろしく。そして、四段階の寄付金額。三〇秒ほど悩んだ挙げ句、中の下、下の上。
 実際何に使われるのかは知らないが、多少晴れやかな気分になる。社会貢献というよりは、気のいい若者の言うことには口を挟まず従っておきたいおっさん心。ラストはYouTubeでも公開されていた聞き覚えのあるトラック。単発で聞いたときにはさほど響かなかったが、アルバムを通して批判と感謝を散らかせた挙げ句なのだろうと感慨深くなる。知っている曲が出てきてオッとなっただけかも知れんが。

 洗面所に立って大きく欠伸。薄くなってきた頭に手櫛を通し、軽く頬を打つ。
「真っ赤なキムチでビンタ」
 すっかりお気に入り。重たい肩を持ち上げてストンと落とす。そして、少し顎を持ち上げて鏡に接近する。これは多分間違いないと思うのだが、鼻毛の中には一日にセンチメートル単位で伸びるやつが混じっている。俺はそいつを摘まんで一気に引き抜いた。
「て」
 顧客との面談が控えている日には髭くらい剃る。WEB面談でネクタイを締めるのはやり過ぎのように思えるが、フォーマルのシャツにジャケットくらいは羽織る。スタートアップのベンチャー企業ではないのだ。顧客面談にネルシャツで挑めるほどのカジュアルさは持ち合わせていない。結局、いろいろ考えるのも面倒になり、上下スーツで身を固める。胸から上しか映らないのだからベルトまでする必要はないか。
 午前中にアポを設定してしまったことに少々心配している。マンションの管理人が共用廊下に掃除機を掛け出すのが大抵午前中なのだ。以前は気にかけたことなどなかった。そもそも自宅にいなかったから。はじめてその事実に気づいたのが社内会議でよかった。わずかに部屋の窓を開けたままWEB会議をしていれば、ゴーゴーとサイクロンが音を立て、ガリガリとヘッドが床を削りはじめた。
「あれ?美津濃さん、同居人がいるの?」
 課長の髭面が晴れ上がる。俺は慌てて立ち上がり、皆に尻を向けながら窓を閉めた。トランクス一枚でなくてよかった。
「あ、いや、すんません。管理人さんが廊下に掃除機を」
「とかなんとか言っちゃって」
 同世代の輩は管理人さんという響きにあらぬ期待を寄せる。うちの管理人は爺さんだよ。サイクロンが過ぎ去るまでマイクをミュートにして無言を貫いた。
 そんなこともあって、俺は管理人の動きを気にしながら、堂島に依頼された新製品のプレゼンテーションをこなしていった。新製品といっても、既存ソフトのマイナーチェンジだ。話し慣れた資料を画面いっぱいに映していると、不意に挟み込まれる顧客の質問に対する受け答えが曖昧になる。
「いやいや、従来品からの変更点は分かったんですけれど、結局こちらの要望は満たせないということですよね?」
 返答に窮していれば、堂島がフォローに入る。
「すみません。まだローンチ前で、完全に情報をつかみ切れていないところもありますので、その点は、ちょっと宿題にさせてください」
 俺はディスプレイのカメラに向かって小さく頭を下げる。聞き漏らした質問を堂島が繰り返す。
「ということで、よろしかったですよね」
 とういうことでしたか。俺は慌ててメモに取る。答えは「できない」というので明らかだった。
「すみません。まだローンチ前で、あれなので、その点は、ちょっと宿題にさせてください」
 俺は繰り返す。すると、サイクロンの音が近づいてきた。俺は、マイクをミュートにする。あとは堂島、おまえが何とかしてくれ。
「はい」
 時折ミュートをはずし、合いの手を入れる。
「おっしゃる通りです」
 こんな時に限って掃除が念入りなように思える。誰かが酔っぱらってゲロでも吐いたのか。このフロアは後回しにしてくれ。背後の窓を開けて何度叫ぼうと思ったか。しかし、それ以降、技術的な質問はあがってこず、堂島がうまいこと乗り切った。
「ありがとうございましたっ」
 俺はディスプレイに向かって深々頭を垂れる。顔を上げ得たときには、顧客も、堂島も退出をしていた。

 毎日往復二時間以上の通勤時間が削られる。PCを閉じる時間だって普段より早い。平日であっても夜の時間は長くなった。母親が言っていたWEB合コンなんてワードを思い返すが、そもそもリアル合コンすら縁がない。数少ない同期は皆結婚している。そんなものに参加する術を知らないし、相談できる相手もいない。ネットで検索すればすぐに出てくるのかもしれないが、結局、その気がないのだ。
 職場の中でもまだ若手だった頃なら、付き合っていた女くらいいた。学生時代には縁の薄かった女と偶然意気投合したり、同業の社員と展示会で知り合ったり。職場の飲み会では、古株の独身先輩を捕まえて、酔った勢いでどうして結婚しないのかと不躾な質問をぶつけたこともあった。
「一から知り合って関係を築くのがだんだん億劫になるんだよ」
「性欲が無くなると、男女関係ってのが面倒に感じるもんだ」
 当時はおっさんたちの言い訳にしか聞こえなかった。しかし、自分がおっさんになると彼らの言い分が分からないでない。俺はウィスキーを継ぎ足し、テレビリモコンに手を伸ばした。
 つるんとした顔のニュースキャスターが眉間にしわを寄せて、マスクも一〇万円もなかなか行き渡らない現状を伝えている。
「あったね一〇万円。何すりゃいいんだ?」
 金を受け取ることすら面倒になっている。こいつも性欲の減退と関係しているのか。生物としての生存理由が繁殖だというならば、全般的な無気力は性欲減退によるものと考えられなくもない。要らないとは言わない。適当に振り込んでおいてもらえないものか。急がんでもいいから年末調整とひっくるめて会社で処理できんのか。贅沢な無気力かもしれないが、一人暮らしの会社員ならそんな奴も少なくないだろう。面倒な手続きというものが不愉快なのだ。マイナンバーカードがあれば手続きが簡便だとか聞いたような。マイナンバーの通知を受け取った記憶はあるが、カードを発行した覚えはない。通知すらもはや探し出せる自信がない。
 テレビは別の映像を流しはじめ、俺も一〇万円のことは先送りにする。アメリカが荒れているようだ。息が出来ないとプラカードを掲げる市民。鎮圧のためには軍の投入も辞さないと宣う大統領。停滞する経済、広がる格差、どうせ経済的には中国に負けるんだから、グレート・アゲインを掲げるならほかの路線に行きなさいよ。あんたらの国なら世界に誇るいいものが幾らだってあるでしょう。
〉人生とは不愉快を取り除く作業なのだよ。
 フリック入力の後、発信をためらう。俺の言葉が発端で大統領が息の出来ない市民を蹴散らす決定を下したらどうしましょう。届くはずもない言葉に気を使う。誹謗中傷した発信者は特定できるって言うじゃない。削除しようにも、その前に画面キャプチャーするやつとかいるじゃない。二桁のリツイートも経験したことのない分際で、一言の発信による世界の混乱を妄想する。天井を見上げれば、薄暗い厨房でただただ餃子を包み続けるおかみの残像。テレビとSNSで映像を漁れば、声を張り上げる者、暴徒化する市民を諫める者、リズムに合わせてステップを踏む者、膝を突いて両手をあげる者。餃子を包み続けるおかみ以上に尊い者があるだろうか。
 テレビは気象情報を伝える。全国に太陽が散らばる。明日の気温は例年を遙かに上回るという。
 俺は入力した文字を取り除く。グラスの底に僅かに残ったウィスキーを飲み干し、ガリガリ氷を噛み砕く。歯も磨かずに敷きっぱなしの布団へ倒れ込んだ。

 眠りが浅いのだろう。最近よく夢を見る。俺は弾けないギターを抱えて餃子ができあがるのを待っている。俺のほかに餃子を待っている人間が数名。皆、等間隔に広がって皿を握っている。餃子を包んでいるのはいつものおかみではない。カーリーヘアから僅かに覗く黒縁眼鏡、ボーダーシャツが粉にまみれている。それが杏だということに俺は差ほど違和感を覚えない。
「はい、毎度」
 やはり店主はそいつを口にしないと手を伸ばせない。皿を持った一人の男が歩み出る。俺はそいつが何者であるか知っている。杏の「教訓1」を批判する動画を投稿した男だ。実際にその批判動画を観たわけではない。男の顔を覚えてはいないが、俺はその男であることを確信している。
 男は皿を差し出し、薄ら笑いを浮かべる。今が好機と誹謗中傷をはじめようとしている。薄暗い厨房で、ただただ餃子を包み続ける杏以上に尊い者があるだろうか。俺はギターを抱えている。やるべきことは分かっていた。だけどギターには弦がない。きみに聴かせる腕もない。ネックを握って振り上げる。俺はいったい何がしたい。弾けないギターのネックを握り、ポール・シムノンの曲線美を思い描いた。
 次第にこれが夢の中であることに気づきはじめる。いわゆる明晰夢というやつだ。血気盛んな男子であれば、ここで若い女でも探しに行くのかも知れない。しかし、これは精力も減退しはじめたおっさんの夢だ。ただ餃子を包み続けるおかみをもっと近くで観ていたい。それが杏だとしても。
 こんな小窓から中を覗き込まずに、店舗の中へ入ってしまえばいいじゃない。かつて好んでネギ拉麺を啜っていた時のようにドアを開けて中へ入ればいいじゃない。鍵がかかっているかしら。俺は誹謗中傷男を軽く突き飛ばし、扉に手をかける。あ、やばい。目が覚める。
 布団を蹴り飛ばすと随分汗をかいていた。季節は夏へ向かっている。

「おはようございます」
 隔週の部内会議がはじまると、みんな随分と服装が変わっていた。がたいのいい課長は首にタオルをかけ、何度も額を拭っている。
「いやいや、あっついよね」
 七部袖のサマーニットを羽織る者、まだ長袖Yシャツの者、Tシャツ一枚の者もいる。俺は三年くらい前に買ったユニクロのポロシャツ。
「エアコン着けりゃいいじゃないっすか」Tシャツは言う。
「まだ早いだろ。八月になったらとろけちゃうよ」課長は首を振る。
「きっと、この世代は人類絶滅に立ち会えるんでしょうね」
 誰の言葉だ?小窓に並ぶ顔を見渡せば、皆一様に困惑の表情。課長は何も無かったかのように業務連絡を進める。
「まず今週以降の働き方についてですが、基本は今まで通り変更なし。原則リモートワークで、それでもお客さんとのタッチポイントを減らさないように各自工夫をしてください。このミーティングでも、面白い取り組みは積極的にシェアしてくださいね」
 派遣スタッフの退職や部署移動の話を聞けば、やはり影響はあるのかと気分が沈む。そして、新製品のローンチスケジュールがシェアされた後、各自の報告へ続く。俺は堂島とソフトの紹介をしたことに触れ、その際に要求された改善点を報告する。
「それって、できますよね?」
 サマーニットはどこか気を使うような口調で指摘する。Tシャツが重ねた。
「前のバージョンで既にできるようになってますよ」
 え、まじ?俺は歯を見せる。課長はタオルを額に結んだ。
「じゃ、あとでその手順を美津濃さんに教えてやって」
「分かりました。美津濃さん、会議のあと画面共有できます?」
「ああ了解。ありがとう。助かるよ」
 Tシャツの顔が晴れる。アプリケーションをコンサルタントすることによるソリューションのプロバイダーという人種は、基本的に自分が知っていることをヒトに教えるのが好きだ。皆の報告はミュートにしたまま聞き流す。さて、堂島へはどうやって報告すべきか。できるのはよかったが、前のバージョンからできるようになっていたとは、なかなか言い出しにくい。
「そういえば、議事録は?」
「録画してますよ」
 会議が終わると、すぐにTシャツからのメッセージが届いた。リンクをクリックすれば画面いっぱいにドヤ顔が映る。
「お疲れ様でぇす」
 TシャツにはSAVE OUR LOCAL CINEMASとのロゴが書かれていた。それは弄って欲しいというサインにしか思えない。ひとまずそいつを読み上げる。
「セイブアワローカルシネマ?」
「セイヴ」
 Tシャツは下唇を噛む。そして、それが関西のローカル映画館を支援するために販売されたTシャツであることを知る。
「関西出身だっけ?」
「いや。関西出張の夜に映画観たりするんですよ。たまにっすけど。俺、酒呑まないっすからね」
「そういや、昔、一緒に関西同行したな」
 Tシャツがまだ入社して間もない頃だ。夜には堂島も誘って飲み屋に行ったが、あいつはとりあえずジンジャーエールで、そのあとウーロン茶だった。堂島がしばらくジンジャーと呼んでいたから、細かいことをよく覚えている。誘われて迷惑だったろう。あの頃は偉そうに背中を見せていたが、技術的なことなど若いやつほど飲み込みがはやい。
 Tシャツによるトレーニングは一五分もせずに完了した。
「そんな簡単にできたのか」
「そうですよ。前のバージョンでもできますよ」
「新しいバージョンで、このあたりってなんか便利になってたりしないの?」
「いやぁ、変わんないんじゃないっすかね」
「そうか」それは俺のニーズを満たしちゃいないな。
 前のバージョンでもできますよ。
 新しいバージョンでもできますよ。
 新しいバージョンでできることを確認いたしました。
 嘘にならずに自分の身を守るにはどうしたらいいかしら。「反省しているんです。ただ、これは私の問題だと思うが、反省をしていると言いながら、反省をしている色が見えない、というご指摘は、私自身の問題だと反省をしている」あれ至言よね。

 卵やウインナーのストックが切れそうになれば、駅前のスーパーへ向かうほかない。ついでに春雨スープも補充しておくか。
 仕事終わりと言え、空はまだ仄かに明るい。俺は緩やかな坂道を上っていく。正面から小さな人影がおりてくる。それが誰であるのかすぐに理解した。ギターを抱えた杏ではない。拉麺酒楽のおかみだ。餃子の材料を切らしたのかしら。いや、店舗は自宅だと言っていた。店主とおかみにも日々の生活がある。手押し車を押しているようだ。下り坂で引っ張られているようにも見える。手伝いが必要なほど老齢では無いだろうが、何か一声かけたい。
 ふと初恋の女を思い出す。俺はながいこと奥手で、はじめて付き合ったのは十代も最後の歳だった。山羊はボーと鳴くと言っていた女。はじめてのキスは女からされた。それはつまり俺の人生におけるはじめてのキスであり、俺の人生ははじめてのキスが女からされたものとなった。
「あんまりも何もしようとしないから」
 その言葉は妙に引っかかっている。そして、特に対女に関して自分から積極的にことを起こさなければいけないと思うようになった。
 おかみの顔が認識できる程度の距離まで近づいた。なんだか妙に小さなマスクをしているが、おかみであることは間違いない。俺とおかみの関係を考えれば、こっちが客であるのだから向こうから声をかけていただいても不自然ではない。それでも、やはり俺から声をかけなければいけないような気がしている。ソーシャル・ディスタンスを保つためには二メートル以上離れたところで声をかけなければなるまい。かといって、あまり遠くから大声で声をかけるほど親しい関係ではない。三メートルあたりで声をかけようか。走り幅跳びなら今でも飛べる程度の距離だろう。
 それは三メートル半でのことだった。おかみは目尻に品のいい皺を浮かべる。
「いつもありがとうございます」
 不意をつかれ、咄嗟に返した言葉は、とっても形式的なつまらない言葉だった。
「いえ、こちらこそ。お世話になっています」
 そして、二メートル圏内ではお互い無言になって小さく会釈した。手押し車は大きく膨らんでいた。三日分の買い物をまとめろという要請を律儀に守っているのだろう。息を止めておかみとすれ違う。三メートル離れたら振り返ろうか。俺は立ち止まる。振り返ったところで何を言う。俺は口元に手をあてた後、腕時間を確認する。一九時まであと一〇分。もうこんなに日が長いのか。店主は厨房を磨き、おかみは夕食の支度をはじめる。重ねた月日が目尻に刻まれていく。
 一九時まであと一〇分。この時間であればまたこの坂道で出会えるのだろう。結局、俺は振り返ることなく卵とウインナーを求めて再び歩きはじめた。
「きっと、この世代は人類絶滅に立ち会えるんでしょうね」
 それでも愛すべき人の幸せを祈る。
 今日も不愉快を取り除きながら生きている。

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