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夜勤はまだ明ける

「おまえいちいち暗いんだよ」
 あいつはボロいセダンを洗車機にかけると、サービスルームで煮詰まったコーヒーを紙コップに注いだ。
 音を消したままのテレビが感染者推移を映し出す。もう第何波なのか知れない。どうせ夏になれば熱中症で倒れるヒトの山が遥かに凌ぐ。それでも冬がくると山を数えている。昔からの癖だ。
 ガソリンスタンドで過ごす夜勤も二〇年を超えた。セルフ給油が主流になってから、あいつがふらり現れない限り、真夜中をのらくら一人で過ごす。明るく振る舞う必要性はない。
 あいつのスマホから歌声が漏れる。ギター一本で濁声を響かせる自身の動画。自撮りカメラの前で。ショッピングモールの賑わう駅前で。
「ぼちぼち拡散されてるわ」
 デカい身体から声をあげる趣味は気持ちがよさそうだ。他人様に撮られた動画だってアップされている。たいしたものじゃないか。
「相変わらずマズいコーヒーだな」
 俺にとって趣味らしい趣味と言えば、リングノートに三色ボールペンを滑らせること。描く絵は大抵決まっている。
「文句あるなら自販機で買え」
 山下菊二を知ったのは、給料が入って街に買い物へ出た日のこと。大きなビルディングの小さな画廊に足を止めたのは靴紐が解けたから。何気なく視線を運んだ無人の部屋に作品が並んでいた。山下の後期作品であるコラージュにフォーカスされた展覧会だった。金を取られる様子は無さそうだ。安心して小さな空間に足を踏み入れると、一五点の作品が掲げられていた。知った顔があると思えばモナリザに昭和天皇。「ワイパー故障」に「ふて寝する」。作品タイトルにもにんまり。部屋の真ん中にはアンティーク調のテーブル、その上には画集が置かれ、自由に閲覧できるようになっていた。「あけぼの物語村」に惹かれたのは、それが代表作との説明があったからに過ぎない。陰鬱でヘタウマな漫画家が描いたような作品を隅々まで舐めた。首を吊った老婆。赤い水に浮かぶ男。たくさんの鎌。息苦しそうな魚。力強い赤犬。鶏。リボンの愛らしい犬女。嫌な村だな。誰もいないのをいいことにカメラで納めた。その日はリングノートと三色ボールペンを購入しただけで、随分と満足して帰路に就いた。
 何度も描き写していれば、だいたいの構図は頭に入る。ノートに描かれた何枚もの同じような絵。ヘタウマとは言い難いヘタクソな絵。犬女だけを描いた頁。何本もの鎌。真っ赤な水の底に生息しているであろう甲殻類の想像図。いつまで経っても満足いくものが描けない。
 県道沿いのガソリンスタンド、深夜の客なんて滅多に来ない。サービスルームでペンを走らせているうちに夜が明ける。だったらいいが、そこまで楽にはさせてくれない。クラクションとともにハイビームが炊かれた。
「お客さん来たぞ」
「セルフだっつうの。おまえ教えてやってくれ」
 あいつは俺の頭からキャップを奪うと、ドアを押してフィールドへ駆けていく。本当にやってくれるとは思わなかったよ。女か。まだセルフではなかった頃、よくあいつとペアで夜勤をしていた。あの頃から、正社員のいない深夜になると勝手に洗浄機を動かしてボロいセダンを洗車することが常だった。
 あいつは派手に回転する洗車機を眺めながら、給油口にノズルを差し込む。愛想よく窓拭きもこなした。最後にはCDを一枚売りつけることに成功したようだ。車の走らない県道に立ち、深々と頭を下げながら車を見送った。
 一連の動作を見守った後、サービスルームに戻るあいつから目を逸らせてノートに視線を落とした。
「うちの客に勝手にモノ売るな」
「売れるわけねぇだろう。くれてやっただけだ。CD貰ったなんて拡散してもらえればラッキーだ」
 あいつは俺にキャップを被せて煮詰まったコーヒーを継ぎ足す。口癖のように「マズい」と呟くが、味の分かるようなやつではない。
「まだ仕事してるんか?」
「そりゃしてるさ。世界の使用期限をきっちり教えてくれるなら、あと幾ら必要か逆算できるだろうけどよ。あいつらの態度を見てると、以外となんともなんないんじゃないの。なんても思うだろう」
 なんともなんないなんても世界は臨海点を超えた。灼熱の地球へ暴走をはじめたと言われて久しい。確かに真夏は耐え難い。焼けたアスファルトにヒトが倒れる。増水した川にヒトが呑まれる。それでも真冬になれば深夜のダスターは凍る。
「そいつ歌にすれば?」
「どいつ?」
 俺だって夜勤を辞める予定はない。貧乏暮らしなりにも金は要る。未だにガソリンのニーズだってある。後戻りができないと知れば使い切ってやれという気になったのか。御上が馬鹿みたいに資本を増やし続けることが好きならば、庶民だって阿呆のように商品を喰い続けることが好きだ。後戻りのできない世界で清貧を気どる必要はない。かといって、派手にやらかすには元手が足りない。どんなときだって貧乏人には覇気がない。貧乏人が暴徒に化けたところで被害を受けるのも貧乏人。世間は割と冷めている。まな板の上の鯉か。SNSというガス抜きシステムがうまく働いているようにも思う。
「あけぼの村物語」には顔の見えない男が立っている。腕の色から察するに赤犬ではなさそうだ。四人の人間の中でも最も逞しく描かれたそいつはシャベルを握る。山下はかつての大戦で逃亡兵の鼻と両耳をシャベルで削ぎ落とすことを強いられた。水死体のように浮かぶ男に耳は残っているが、その水は赤黒く染まっている。流れた血のようであり、気化したガソリンで鼻をやられている俺には、使い古された有機溶媒のようにも見える。
 洗車機が止まるとあいつは再び外に出た。半分凍ったダスターで手際よくドアの隙間に残った水を拭っていく。フロアマットをくたびれた洗浄機にかけ、車内に掃除機をかける。いったい何キロ走ったのか。ここで知り合った頃からずっと黒煙を吐き出すセダンに乗り続けている。
 有機溶媒から顔を覗かせる魚たち。息苦しそうではあるが、白目が漫画のようだ。あちらこちらに視線を向けている姿にはどこか愛嬌がある。ガソリンに浸った魚などとても食えない。なんてことを思いながら青インクで魚に陰をつけていれば腹が鳴った。
 深夜という時間帯は、大した仕事をしていなくとも、起きているだけでやたら腹が減る。出勤前には唐揚げ弁当を買っていた。プラゴミに包まれた飯に吐き気をもよおす。なにもかもがゴミに思えていた頃、エコバッグさえ持ち歩いておればエスディージーズだと自分に暗示をかけた。後戻りのできない世界でエコバッグなど必要ない。所詮は厚手のポリ袋。以外と知られていない石油でできたポリ袋。それでも無策の挙げ句に強制される三円は癪に障る。
「腹減ったなぁ」
 洗車を終えたあいつが戻ってきた。手には三円のコンビニ袋を下げている。用事が済んだならさっさと帰ればいいのに、あいつもここで飯を食うつもりか。口を閉じて食えないやつと一緒に食事をとることは好ましくない。
「明日仕事は?」
 それとなく早く帰った方がいいのではないかという提案を試みる。
「リモートだから適当にはじめるよ」
 随分と気の利いた返答をしてくれるではないか。溜息を殺して、鼻から抜く。
 仕方なく一緒に飯を食う。離れて座ることがマナーと定着したのが唯一の救い。肩をつけあって飯を食う必要はない。それでもクチャクチャと口から溢れる咀嚼音が気になって仕方ない。聞きたくないものほど耳が鋭敏になる。ノートに描かれた何本もの鎌を思い返す。そいつで顎を落としてやりたいところだが、こんなところに鎌はない。側溝を掃除するため、シャベルはあったはずだ。深夜の静かなサービスルームに咀嚼音とマズいコーヒーを啜る音が響く。
 テレビの音量をあげたいが、始終点けっぱなしで、リモコンの在処が分からない。あいつはまたスマホを開いた。ギターを握ったあいつの濁声が咀嚼音に重なる。その歌声は嫌いでないのだ。大半はカバー曲で選曲も悪くない。フォークソング、昭和歌謡、子供に向けたアニメソング。大抵、家族連れの多いショッピングセンターの前で歌う。子供が立ち止まるよう仕掛けるのも戦略だそうだ。
 唐揚げ弁当を平らげると、テレビは豪雪で孤立した村に物資が届いたと伝えた。
「自衛隊の皆様は相変わらず頼もしいね」
 冬の異常気象はどこか安心してしまう。
「本当は雪掻きなんかしてないで、機関銃でもバラバラ撃ちたいんだろうよ」
 飯を終えて、再びリングノートを開く。真っ直ぐ線を下ろして折り返す。両の鼻から鼻水をのばしながら首を吊る老婆。「あけぼの村物語」はある事件を描いている。強欲な山林地主の金貸しが村人を自殺に追い込んだ。報復を組織した村人たちであったが、地主の返り討ちにあってさらに死者を出す。
「おまえいちいち暗いんだよ」
 あいつは俺のノートに目を落とす度、それを言う。愛嬌のある魚たち。老婆の鼻水に舌をのばす愛らしい犬女だっている。大きな黄色いリボンまでつけている。三色ボールペンに黄色はない。
「じゃあな。明日も仕事があっから」
 リモートだから適当にはじめるのではなかったか。いやみの一つも言いたいが、長居されても億劫だ。俺は小さく手をふる。ボロいセダンは、無駄に明るいフィールドを黒煙で汚した。
 入れ替わるように一羽の鶏が入ってきた。まさかガソリンで動いているわけではないだろう。何もないコンクリートを啄み、痛かったのか、天に向かって声を上げようとしている。おいおい、まだ夜明け前だぜ。
「レジ締めの時間だぜ」
 随分と生意気なことを言う鶏だ。俺はノートを閉じて、レジからレシートの控えを引っ張り出した。客なんてほとんど来ないからたいして印字はされていない。打ち間違いなんてしていたらすぐ分かる。それなのに一万円足りない。
「あの野郎」
 俺はノズルを握りフィールドの中央に立つ。
「この秘密は絶対明かしてはだめだ。明かしたら、必ず社会から落ちるんだ」
 大声をあげることは苦手だ。他人様の気の利いた言葉をカバーするだけで冷や汗が垂れる。仕方がないから上手くもない絵を描く。あの野郎だけに憤っているわけではない。夜が明けるまであと三〇分。気持ちは落ち着かない。陽が出る前にあと一台でも車が入ろうものならば、トリガーを引いて噴油してやろう。雷が落ちてもドライバーは安全であるように、ガソリンを浴びた車に着火してもきっと中の人間は無事だろう。炎に包まれる悲壮な表情。そいつを眺めることが慰みになるかしら。
「今日はなんと誤魔化して生きよう」
 嫌なことを言う鶏だよ。県道にノズルを向け、拳銃に見立てて両手で構えた。アメリカの餓鬼みたいに口を尖らせながら銃声を真似る。わずかにトリガーを引けば思いのほか勢いよくガソリンが噴き出す。慌てて計量器に戻した。
 水で流すより火をつけた方がはやいかしら。腕を組んでその油だまりに視線を落とせば、白目を持つ魚たちが顔をのぞかせる。一匹。また一匹。死んだ男も浮き上がる。気色の悪い粘液が肩に触れ、天井を見上げれば、首を吊った老婆が鼻水をのばしている。嫌なことを言う鶏はいつの間にかその肩にとまっていた。赤犬たちがピカピカのオープンカーに乗ってやってくる。助手席には大きなリボンを結んだ犬女。真っ黄色のオープンカーだよ。未だにこんなものが売られているのかね。フィールドに立っているからには、セルフでやってくれと言い難い。
「オーライ、オーライ、オーライ。はい、オッケーです」
 俺はその日一番の声をあげる。鶏はようやくそれらしく鳴いた。途端、空はうっすらと色を帯びはじめる。それでもまだ夢の中のように薄暗い。俺は逞しい腕でシャベルを握って朝を迎え撃つ。耳を削ぎ落とせと赤犬は言う。オーライ。鼻を削ぎ落とせと犬女は笑う。オーライ。長い間ノーとは言えないように仕込まれてきた。オーライ。滅び行く世界でガソリンスタンドの男は誰より前向きだ。はい、オッケーです。

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