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支流

 一級河川。暮らしや産業の発展にとって欠かせない川。国土交通省や都道府県が管理する川。美しく立派な川である必要はない。鯉や亀などの外来生物ばかりを馬鹿デカく育む川であろうとここ早渕川は一級品だ。
 俺は紀之と二人、そんな一級河川に沿って自転車を走らせている。
「あとどのくらいだろうな」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 川幅は狭く、晴れた日の水量は少ない。川底に溜まったヘドロのお陰で輝きはない。それでも水の流れは緩やかで、臭いの割に透き通っている。川辺に蔓延る雑草以外にも生命の気配がする。泥の色した太い鯉、誰かが放ったミシシッピアカミミガメ。そして、欄干にもたれる冴えない男。理由も無く川を見下ろしたくなる気持ちはよく分かる。つまらない景色が延々と流れた。
「腹減ったな。何か食いたいもんあるか?」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 源流は雨水、生活排水、工業排水、そいつらの受け皿となる側溝や暗渠だと聞いた。
「赤潮って勉強したか?」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 一級河川は、窒素やリンを大量に含んだ汚水を東京湾へと流し込む。海水温の上昇と相俟って真っ赤な海をアヴァンギャルドに演出する。嗚呼、一級品。俺は顔をしかめて首を振る。それでも悪い気分はしていなかった。
「おまえ、さっきから何言ってんだ?」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 クソ餓鬼が。
 一時間ほど前には、早渕川親水広場に架かるセンター橋の欄干から鯉を見下ろしていた。丸々太ったそいつらにアライ君などと名前を付けてはヘラヘラ笑う。そして、ハンドタオルを巻いた三五〇ミリリットルのアルミ缶を呷った時、青い看板が目についた。
『一級河川・はやぶち川』
 その下には「河口から一・四キロメートル」と記されていた。川の距離は出口から測るものなのか。「河口まで一・四キロメートル」と記したほうが自然じゃないかしら。そんなことを思いつつ、意外と近いじゃないかと川下へ目を細めた。
「そんなぽっちで海に出るのか?」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 おまえは面倒なサイクリングになることを、はじめから予見していたのだろう。川沿いを進む単調な道。一・四キロメートルとはこんなに長いものか。紀之は自転車の速度を緩めた。
「疲れたか?」
「なんかいるぞ」
 おまえは川沿いのガードレールに自転車を寄せて首を伸ばす。なんてことはない。カメが一匹、岩の上で甲羅干ししていただけだ。
「でっけぇミドリガメ」
「アカミミガメな」
「赤耳?」
「そうだ。耳んところが赤いだろう。アメリカがペット用に運んできたんだよ」
 最近フォーカスが合いにくくなってきたポンコツの目には、実際に赤耳を確認することはできなかった。それでもこんな川にいる大型のカメなんて無責任に放たれた外来種に決まっている。
「ホントだ。ちょい赤い」
 素直なリアクションが心地よい。
「祭りの出店で亀すくいなんてのがあるだろう。あのチビを放っておくとこんなんになるんだよ」
「亀すくい?」
「知らんか?金魚すくいの亀ヴァージョンだよ」
「スーパーボールすくいならやったことあるよ」
「そんなもんすくって何が楽しいんだ」
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 都合が悪くなると直ぐそれだ。頭をひっぱたきたくなる気持ちをグッとこらえた。
「あいつは何だって食うから気をつけろ。下手に食いもんあげてると無尽蔵に増えるからな」
「なんでもって?」
「草なんかも食うけど、カルガモの雛とかハトまで食うらしいぞ」
「ハトぉ?」
「川辺で水を飲んでいるハトを襲って食うんだよ。理科で教わんないのか?」
「あんなのろいカメに、ハトが捕まるわけないだろう」
 俺たちはしばらくカメを眺めていた。時折、スズメが降り立つこともあったが、すっかり甲羅の干されたカメは、肉も干からびてしまったのではないかと思うほど微動だにしない。野鳥に喰いつくカメを紀之に見せてやりたいが、そう都合よくはいかない。
 紀之はカメを眺めながら、またいい加減なおっさんが適当なことを言ってやがると思っているだろう。俺のためにも頑張ってくれ。カメよ。
「ハトって、うまいのかな」
「羽まで丸ごと食うってんだから、ちょっと気が知れんな」
「うまくないもの食って、石みたいな甲羅背負って、岩の上でジッとしているのか」
「ハトを食うカメと、ハトに食われるカメ、どっちがいい?」
「俺がハトならカメなんかに食われない。鳥いいじゃん。飛べるし。虫とか食いたくないけど」
「ハトはマメ食うんじゃねぇか」
「ならいい。鳥になるなら虫食わないやつがいい」
「腹減らないか?」
「Lチキ食いたい」
「なんだそりゃ?」
「ファミチキでもいい。コンビニの唐揚げだよ」
「おまえ、こんな話ししてる時に鶏肉食うのか」
「カメも悪くない」
 コンビニを求めてチャリンコを進める。海が近づいてきているのだろうか。走りはじめた頃と比べれば水嵩は増し、川幅いっぱいに広がる水の悪臭はいくらか和らいでいる。
 橋の向こうにスリーエフの看板を見つけた。ホットスナックに唐揚げは無いらしい。山賊焼きなるチキンの串を二本、俺は発泡酒、紀之はコーク・ゼロ。大して肉などついていないくせにカロリーを気にするのか。
「黒の方が格好いいだろう」
 そんなもんか。
「今日は俺のおごりだ」と、主張しておく。
 コンビニ袋を前カゴへ放り込み、川辺に戻る。わざわざ臭い風を吸いながら鶏肉を食う必要もないが、せっかくのサイクリングだ。川の流れや外来生物でも眺めながら飲み食いしたいではないか。川の両脇には雑草が蔓延り、整備された土手があるわけではない。俺たちは仕方なくガードレールに腰掛けた。
 その日二缶目のプルタブを鳴らすと、川面が大きくうねりはじめた。目を疑う巨大生物の影。街外れの退屈な川沿いだ。ニンゲンを除けば、野良犬以上に大きな生物と出くわすことを想定していない。鼻から脅かしてやろうという魂胆だったのだろう。あの女もまったく性格が悪い。そして、一匹と言うべきか一人と言うべきか、半人半魚が跳ね上がった。
 突然のことに紀之は目を剥いて大声を上げる。全身を硬直させて、山賊焼きとコーク・ゼロを高く放りあげた。俺だってさすがに驚いた。全身の穴という穴をおっぴろげて野太い声で吼え散らかした。それでも煌めく魚体に目を細めれば、自然と口元に半笑いを浮かべていた。
 女は身体を捻ると、高飛び込み選手さながら渕へとノースプラッシュ入水。紀之は人魚との遭遇が初めてだったようだ。カメがハトを食うどころの騒ぎではない。女は川面から首だけ出して、俺に小さく微笑んだ。
「やっぱり。力人じゃない」
 二〇代の頃がフラッシュバックする。
「随分久しぶりだな。晴美」
 紀之はガードレールに掴まって恐る恐る川を見下ろした。
「何その子?あんた、ついに誘拐したの?」
「人聞きの悪いこと言うな」
 俺が鼻を鳴らすと、紀之は唇を震わせながら目一杯に強がった。
「この俺が誘拐なんかされるわけ無いだろう」
「あら、随分可愛くない子ね」
 何年ぶりだろうか。まだ三流大学に在籍していた頃、少しの時間を共にした。晴美は半魚、襤褸アパートに同棲とはいかない。若者らは暇を持て余し、寄り集まってあり余る時間を潰す。親の仕送り、講義をサボってアルバイト、安い学食、学生には金がある。アルコールは解禁され、肝臓もまだ柔軟だ。夏場になれば、河原に足を運んで花火やバーベキューに興じた。ヒト付き合いが得意でないくせに孤独を愛することができない。馴染めないながらも集団に紛れていることで得られる安心感がある。そして、居心地が悪くなれば、缶ビール片手に集団から離れて川岸に立った。
 はじめてその姿を目にした時、そりゃ随分驚いた。それでもワニのように四つ足で襲ってくる心配はない。何よりその姿は美しく、その場から逃げ出す理由はなかった。冴えない日常に目を奪われるような女が現れれば、たとえ半魚であれ、黙って見過ごすわけにもいかない。
 しばらく密月が続いた。河原の大岩に腰かけて、歯の浮くような甘い言葉を交わしたこともあった。それでも、あいつは水棲生物だ。学生生活を終え、あの土地を離れることが決まれば、別れを選んだ。
 いつまでも半魚人と付き合っていられない理由は他にもあった。なにせ下半身が魚体である。やっぱり体外受精なのかしら。人魚を人生の伴侶とするなら、生涯を童貞で過ごす覚悟がいる。二〇歳を過ぎても女性経験のなかった俺にとって、それはとても酷な選択であった。
「人魚なんだよね?」
 紀之の震える声で青春時代から目を覚ます。俺はあいつの放り投げたペットボトルを拾い上げ、自分の山賊焼きと一緒に手渡した。
「そうだな」
 晴美は甘い笑みを浮かべる。
「人魚はじめて?」
 紀之は小さく頷いた。
「理科の授業で習わないのか?」
 俺の問いに人魚のトーンは下がる。
「せめて社会科にしてくれる?」
「近年、世界中で急激に増殖しております」
 俺の悪のりに、紀之はミシシッピアカミミガメを思い出したのだろう。
「特定外来生物?」
「入れない、捨てない、拡げない」
 晴美は頬を膨らませた。
「ちょっと、ヒトをミドリガメみたいに言わないで頂戴」
「アカミミガメは野外で無茶苦茶に繁殖しないから、まだ特定外来生物ではないのだ」
「どうでもいい」
 晴美は水面から身体を伸び上がらせると、怒った様子で拳を腰にあてた。所々泥にまみれた身体ではあるが、臍のないくびれた腰回りは今でも魅力的だ。紀之は山賊焼きに齧りつくと、次第に目の前の人魚に慣れてきた様子で、仄かに顔を赤らめる。
「おっぱい、ホタテなんだね」
「当たり前でしょ。人魚なんだから」
「アワビより可愛いじゃねえか」
 晴美は藪の中に落ちた山賊焼きを見つめている。俺はそいつを拾い、川へ放った。晴美はイルカの曲芸さながら尾鰭を使って軽く伸び上がる。
「ニンゲンの食べ物って、久々」
 両手で肉をキャッチするとそれを勢いよく貪る。俺はその姿に眉を顰めて発泡酒を呷った。
 小腹が満たされ、再び自転車を漕ぎ進めた。
「ところで、あんたたち何処向かってんの?」
「ただのサイクリング」 
「河口に行くんだよ」と、紀之は付け足す。
「河口って、早渕川の?」
 併泳する晴美は少しだけ前に出て、そんなところに行ってどうするのだという目で俺の顔を窺う。男のマロンだと言いかけたところで口を噤む。対岸で少女が手を振っていたから。
「人魚ちゃぁん」
 柔らかい髪を揺らす少女は驚く様子もなく満面の笑みだ。晴美もそれに微笑みで答える。最近はこの辺りに定住しているのか。
「人気者だな」
「そうよ。人魚は人気者。力人が教えてくれたんじゃない」
「そうだったか?」
 そうだった気もする。俺たちが出会った頃、晴美は汚い川でビクビクしながら情けない表情を浮かべていた。人魚なんて女の子の憧れなんだから、もっと自信を持って優雅に泳ぎなよ。そして、全裸だった晴美に、乳首の無い貧乳はホタテで隠したほうがいいと貝殻を与えたのも俺だった。学生当時、和風居酒屋でアルバイトをしていた。ホタテの貝殻ならゴミ捨て場からいくらでも拾えた。
 一・四キロメートルが読み間違いであったことには、さすがに気づいている。一四キロメートルと書かれた標識に、何処かの馬鹿が噛み終えたガムでも貼り付けたのだろう。
 晴美は顔を顰めながら川面に浮かぶポリ袋を拾い上げ、河辺に投げ捨てる。そして、息を切らす俺に尋ねた。
「あんた、まだ足場売ってんの?」
「は?何でそんなこと知ってんだ?」
 目を丸くする俺の隣で、軽快にペダルを漕ぐ紀之は首を傾げた。
「アシバってなんだ?」
「私にはあんまり縁がないものね」
「ってか、力人、働いてんの?」
「当ったり前だろう。パチプロだとでも思ってたか?」
「パチプロってなんだ?」
 なんでもねえよ。
「で、晴美は何でそんなことを知ってんだよ?」
「あんた、別れ際に足場を売ることになったって言ったじゃない」
「で、アシバってなんだ?」
「私にはあんまり縁がないもの。よっぽど私に愛想つかしたんだなって」
 晴美は眉を垂らして口元で笑う。
「ってか、力人、働いてんの?」
「当ったり前だろう。パチプロだとでも思ったのか?」
「パチプロってなんだ?」
 なんでもねえよ。
「で、アシバってなんだよ」
 こんな退屈なサイクリングでも紀之は愚痴一つこぼさずペダルを漕ぎ続けた。晴美は優雅に泳ぎながら、時折、川底に手を伸ばして何かを口へと運ぶ。タニシだろうか。そいつで頬を膨らませては口の中でコロコロと転がした。
 再び対岸に手を振る人影、また人魚ファンの女の子かと思えば背中を丸めた爺さんだ。
「元気?」
 爺さんはボブルヘッドのように首を揺らす。
「知り合いか?」
「あの子非道いの。小さい頃よく私に石を投げてきた」
 俺は困惑する。思えばあいつの容姿は俺が記憶していた頃とまるで変わりがない。
「おまえ、いったい何歳なんだ?」
「鯉って、二〇〇歳以上生きることもあるってね」
 晴美は飛び跳ねて笑う。
「おまえ、鯉だったのか」
「ところでこの子はなんなの?」
 そいつを話せば長くなるが、時間はいくらもあった。都合の悪いところはなるべく端折りたい。俺たちの出会いは曖昧に。妙に紀之のことばかり話し過ぎてしまったかもしれない。あいつは口を挟むこともなく舌先で頬の内側を押した。
「ふぅん。あんたも大変なのね」
 晴美は両手を後頭部に添えたまま背面泳ぎ。
「別に、なんでもないよ」
「今度は友達ができるといいね」
 何気ない一言が餓鬼のプライドを傷つける。
「弱い者いじめが悪いなんてことくらい俺だって分かってる。でもさ、馬鹿ばっかなんだもん。ぶっ飛ばすくらいしかさ、あいつらとは遊びようがないんだよ」
 空気を読まない餓鬼は恐ろしい。晴美は目を見開き、水面を揺らしながら咽頭歯をギリギリと鳴らした。
「私、あんたなんかにやられないよ」
 俺は何故か二人の仲裁に入る。
「なに言ってんだ。二人で喧嘩でもおっぱじめる気か?」
 続く紀之の発言には、随分拍子抜けさせられた。
「人魚とやり合う気なんかないよ。俺、泳げないし」
「は?」俺は阿呆面を晒す。「おまえ、泳げないのか?」
 晴美は水面を叩く。
「なんだよ。笑うなよ」
 紀之が餓鬼らしくむくれて見せても、笑いが止むことはない。この気丈な餓鬼に苦手なものはないと思い込んでいた。学校に行っても同級生をぶっ飛ばすくらいしか楽しみのない餓鬼。
「おまえは俺なんかといて、楽しいのか?」
「なんだよ。今更」
「今更気になったんだよ」
「最初は力人から声かけてきたんだろう。金借してくれって」
 それを言ってくれるな。
「悪いと思って色々奢っただろう」
「だから使えるおっさんだって思ったんだよ」
 俺の価値はそんなものか。
「ホント可愛げの無ぇ餓鬼だな。泳げもしねえくせに」
「関係ねえだろう」
「あんた、泳げないと人魚にモテないよ」
「別にモテたかねえよ」
 西日が強まり、自転車は長い陰を引きずる。晴美は時折タニシを拾い上げてガリガリ噛み砕く。顔を真っ赤に照らされた俺は、無尽蔵に広がる世界に目を細めた。乳酸の溜まった大腿四頭筋に限界を感じはじめ、永遠とか、無常とか、馬鹿にしみったれたワードが脳裏をちらつく。
「俺もおまえもいつかは死ぬんだよ」
「なんだよ急に」
「自分が死ぬなんて信じられるか?でも、フツーに生きたらキョンキョンよりは長生きするんだ。つまり、キョンキョンが死ぬところを見届けてから俺は死ぬんだな」
「誰だよ?」
「花の八二年組だよ」
「死んだらどうなるんだ?」
 紀之は人魚に問う。
「知らないよ。わたし死なない気がするし」
「そいつも厄介だな」
 ちょうどこいつくらいの頃だったかもしれない。人生に終わりがあるってことが酷く気になって、腹の中にどうにもならない真っ黒な虫たちが渦巻いた。
「分解されてなんにも無くなっちゃうんじゃない。身も心も」
 晴美は顔を顰めて死んだギンブナをつまみ上げた。それは餓鬼にとって一番マズい答えだろう。紀之はペダルの上に立ち上がり、二、三強く漕いだ。
「でもよ、世界ってのはなんにも無いところから生まれたんだよ。そう思うと、なんでもありだよな」
 知った風なことを口にすれば、真っ赤な夕焼け空に紀之の雄叫びが響いた。
 加速する紀之に続いて、晴美もぎやきやと声あげながら水飛沫をあげた。俺は懸命にペダルを漕いで追いつこうとする。
「力人も叫んじゃいないよ」
「なんでだよ」
「足場売っても、大していい生活をしているわけじゃないんでしょう。強がってんじゃないよ」
 俺はペダルを踏み外し、危うく紀之と接触しそうになる。
「おまえに何が分かる?」
「こんな子供にお金借りたんでしょう?人間は不便ね」
 たばこを買うのに小銭が足りなかっただけだ。たった五〇円でこんな惨めな思いをするはずではなかった。
「人魚はどうなんだ?最近じゃ、タニシも減ってるだろう」
「ジャンボタニシが増えてるから平気。私、ザリガニでもなんでもいける口だから」
「力人も叫んじゃえよ」
 おまえも言うか。
「気持ちいいぞ」
 紀之は風を切りながら、ひどく子供じみた声でもう一度雄叫びを上げた。そいつに晴美も共鳴する。
 パチンコで大負けした日だって、叫び声を上げたことはなかった。時折、店内で奇声を発している輩もいるが、俺はせいぜい舌打ちしてパチンコ台を蹴るくらいだ。
 紀之がゆっくりと自転車を寄せてきた。あいつが雄叫びをあげた理由。それは死への恐怖なんてものより、もっと現実的な苦しみだった。
「明日さ、俺のお別れ会があるんだってよ」
 乾いた笑いが赤い風に流される。俺が餓鬼の頃にも、転校する児童を見送るイベントというものが存在した。最近の餓鬼どもがどれだけ気の利いたパーティーを企画するか知らない。どうせフルーツバスケットだろう。どうせ寄せ書きの贈呈だろう。どうせ無理矢理思い出を語らされて、最後に担任から有り難いお言葉を賜ったら、校門の前で一人一人と握手をしながら送り出される。紀之の立場を思えば背筋が寒くなる。
「サイテーだな」
「シジョーサイテーで学校なんか行きたくねぇよ」
 おまえは沈んでいく太陽にバカヤローと叫ぶ。それなら話は別だ。俺は太陽に向き合って大きく息を吸う。そして、あらん限りの声を張り上げた。
「沈むんじゃねぇぞぉっ」
 ペダルを漕ぐ足に力が入り、俺たちは更に加速する。晴美を残してグングン進んだ。長く伸びた陰すら切り離し、真っ赤な空へと飛び込んでゆく。サイテーな明日がいつまでもやって来ないように、太陽が沈むつもりならば俺たちが追いついてやる。
 なんだよ。
「川か」
 川かよ。
「川だな」
 俺はライターを擦って、大きく息を吸い込んだ。鼻から紫煙が漏れる。
 河口が海につながっているとは限らない。早渕川は鶴見川水系の支流。早渕川の河口は、その本流である鶴見川へつながる。俺は西日の照り返す川面に目を細め、口を窄めて大きく吸い込んだ。
「腹減ったな」
「そうだな」
 少し遅れて晴美が河口へ辿り着いた。
「わぉ、大きい川って久しぶり」
 人魚は本流へ向かって川底へ潜り込むと、続いて、大きくジャンプした。強い西日は水飛沫を煌めかせ、晴美のシルエットを浮かび上がらせた。
「人魚、楽しそうだな」
 紀之は自転車をおりて芝が敷かれた土手の斜面を下る。その途中に腰を下ろした。俺はその横に立ち、ホープを燻らす。しばらくイルカのように跳ね回る晴美を眺めた。川岸には奇声をあげる幾つもの人影。人魚をはじめて見たのだろう。
「海じゃなかったな」
 俺は言う。
「どっちにしたってただのデカい水たまりだ」
 冷めた口調のおまえに、俺は乾いた笑いを漏らす。
「つき合わせて悪かったな」
「別に」
 しばしの沈黙の後、おまえは問いかける。
「なんでこんなとこまで来たんだっけ?」
「なんでかな。なんか面白いことが起こるんじゃねぇかなって」
 紀之の返事はない。
 岸辺の馬鹿どもが晴美に向かって石を投げている。俺は少しでも面白いものを見せてやろうと、大声をあげながらそいつらをどつきまわした。戦利品のスナック菓子を持ち帰り、俺たちは土手の斜面で横になる。
「おまえ、何してるときが楽しい?」
 隣で寝転がる紀之に問いかける。
「なんだよ。今度は」
「いっつもつまんなそうだからよ。何が好きなのかなぁってさ。友達ぶん殴る以外な」
 紀之はアルミ蒸着ポリ袋に手を突っ込んでポテチを摘まみ上げる。
「こんなん食いながらスマホでユーチューブでも観てんのが一番だよ。でも、そういうのって親がうるさいだろ」
 つまらない餓鬼だ。
「早く大人になるといい。好きなだけ好きできるぞ。ある程度てめえで金を稼げばな」
「サイクリングも悪くない」
「おまえ、割と気ぃ使うよな」
 陽が沈みかけ、辺りは薄暗くなる。これからのことは考えたくなかった。同じ道を帰るのかと思うとうんざりする。疲労が眠気を誘う。頭上にはいつの間にかやけにでかい月。見つめていれば吸い込まれそうだ。俺は両のこぶしを突き上げる。
「このまま月まで飛んで行きたいもんだな」
 おまえは走ってきた早渕川の上流を指差した。
「あの丘の向こうにUFOが下りてきた」
「UFO?」
 いずれにしても戻らないと駄目か。鶴見川に満足した晴美が戻ってくると、紀之が指さす方へ視線を向ける。
「川のはじまりを見に行こうとか言うんじゃないよね?」
 俺は寝そべりながら首を振る。
「丘の向こうでUFO見たんだってよ」
 晴美は眉を潜める。未確認飛行物体を訝る半魚人。
「人魚がいるんだからUFOくらい飛んでるだろ」
 紀之だって同じことを思う。
「変なもんと一緒くたにしないでくれる?」
「ごめーん」
 紀之は土手を駆け上がり、自転車のハンドルを握った。前輪を持ち上げ、自転車を丘のほうへ旋回させる。明日を迎えるまでに俺たちは地球を飛び出さなければならない。
「今夜もUFO下りてくるか?」
 おまえはペダルを踏みこむ。
「知らんぺったんゴリラの餅つきや」
 俺も土手を駆け上がり、僅かな期待とともにサドルに跨がった。

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