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好きなもの

 平山夢明作品が好きだ。
 
 最初の出会いはどの作品だっただろうか、と本棚を眺めてみる。
 恐らくは中学生の頃にコンビニで何気なく手に取った「怖い本」シリーズだったか。開始2秒で鼻っぱしらをブッ飛ばされるようなあの衝撃は、後にも先にもない。その後兄の書棚に並ぶ独白する~、或るろくでなし、デブやSinker、ダイナーなどの有名作品に流れていったかと思う。

 著者の圧倒的な筆力で描かれる世界は奇天烈かつグロテスクであり、登場人物は毎度想像し得る限りの「最悪な状況」に追い込まれ、暴力の濁流の中で徹底的に痛めつけられる。

 子供の頃は、よくもまぁこれだけ酷いことが思いつくものだと、顔をしかめながら読み込んでいたように思う。
 馬鹿な中学生だった僕でも最後まで読み切れたのはやはり著者の卓越した筆力、テンポ、言語感覚のおかげだろう。

 平山作品を語る上で欠かせない大きな魅力として挙げられるのは拷問、殺人などの凄惨な残酷描写だ。もちろんあくまでフィクションではあるのだが、これがまるで「つい先日実際に見て取材してきた」かのように生々しく丹念に描かれる。ともすれば臭いや音、感触などを文章からビシビシと感じられるほどに。
「知人にお前何人か殺してるだろ、と良く聞かれる」とは本人の談だが、確かにそう疑いたくなるほどの「圧倒的リアル」が大きな魅力だ。
 魅力はもちろんそれだけに収まらない。「Ωの聖餐」「無垢の祈り」などは凄惨な物語の果てに静謐ささえ感じられる。

 しかし 平山夢明さんの作品は読む度に毎回後悔する。
 後悔の理由は読後に襲い来る途方もない疲労感と、自分の中の感覚の変化だ。
「読了前」と「読了後」では僕の中にある、内包する何かが決定的に違ってしまう感覚に陥る。
「自分の根底にある何か」がぐにゃりと変容し、全く別のものに変わってしまう。
 何かを得たのか、もしくは失ったのかは分からない。けれど「何か」をもう知ってしまっているのだ。
 知らなきゃよかった。
 本を開く前の自分には決して戻れない。平山夢明作品にはそんなパワーがある。


 閑話休題。
 noteが長くなると焦る。
 読まれないからだ。
 昭和の残りカスみたいな人間のだらだらと垂れ流した文章を誰が好き好んで読むというのか。
 いつだって、サクッと殺って(ヤッて)サクッと終わるのが理想なのだ。
 けれどもせっかく重い腰を上げて書き始めた手前もう少し続ける。どうかお付き合い頂きたい。


 僕は稲川淳二御大も好きだし、好きな作家もたくさんいる。
 怪談を採集し、大人になり、語り始めてからも多大な影響を与えてくれた作家も多い。
 ただ中学生という多感な時期に横っつらを怪談でどつき回され、生き人形が真っ青な顔で逃げ出すほどの残酷描写で、僕の人格に(良くも悪くも)影響を与えてくれたのは間違いなく平山夢明作品だ。
 これはもう自分ではどうしようもないほど、頭蓋のウラの、脳の髄まで刻み込まれているのだ。

 先日、毎月の恒例となっている竹書房主催の怪談マンスリーコンテストで「瞬殺怪談」企画が開催された。
 もちろん瞬殺怪談は買い集めていたし、大好きなシリーズであったが、審査員を見て驚いた。黒木あるじさんと並んで平山夢明さんの名前があった。黒木さんと平山夢明さんに読んで貰えるのであれば僕には応募しないという選択肢はなかった。
「怪談師」という旗を掲げ、怪談採集に常々勤しんできた僕は、わずかながらも自信がないわけではなかったが、結果お二方から賞を頂き、まさかのダブル受賞させて貰えるという快挙(これはもう快挙といっていいだろう)に震え上がった。
しかし嬉しさよりもなぜか変な焦りがあり、乾いた笑いしか出なかったのを覚えている。なにせあの平山夢明さんがコメントをくれているのだ。
 それからの数日間は竹書房のサイトに掲載された、僕に対するわずか数行の書評コメントを繰り返し繰り返し読んだ。
 

 これは僕にだけ宛てられた文章だ。
 最恐賞や賞品も嬉しかったが、何よりこの「たった数行の文字列」が嬉しかった。
 
 誰も介入しない、僕にだけ宛てられたメッセージ。

 竹書房さん、有難うございます。
 一生の宝物です。



 



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