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金具屋の歴史その6(昭和30年前後1950-60頃)

戦後から急激な高度成長期へ突入したこの時代、日本人の文化も目まぐるしい変化を遂げていきます。衣・食・住が洋式にかわっていった時代、旅館が求められるものも大きく変わっていきます。

はじまりは昭和24年12月に施行された「政府登録国際旅館制度」。今後の国際的な観光に向けて外国からの旅行者が不便にならないように一定の基準をもったホテル・旅館を登録するという制度でした。内容を見ると『国が日本旅館のホテル化を推奨した』、と言ってもいいかもしれません。この時に金具屋は屋号を金具屋ホテルとし法人化、客室の入口に鍵がつき、部屋番号をふったのです。

旅館のホテル化、これはよい、悪いではありません。そうしなければお客さんが来なかった、このようにして変わっていくものなのです。


それは金具屋にとっても同じでした。次の写真をみてください。

金具屋ホテル玄関 昭和33年

これが昭和33年に完成した、金具屋の玄関の建物です(現・神明の館)。

近代的な箱型のデザインにコンクリートの丸柱、白亜にはしるHOTEL KANAGUYAの文字。極めつけは左側に写っているガラス張りの部分。これは池の前につくられた中二階のラウンジなのです。玄関部分の建物自体は今と同じですから、このラウンジがあるのは木造4階建斉月楼の前、車寄せの中空ということになります。

つまり、このラウンジで「斉月楼を通りから見えないようにしようとした」というわけなのです。


現在木造4階建文化財を売りにしていることからは考えられないのですが、当時は「木造」という時点で大幅にマイナスの印象をもたれていました。とにかく木部が見えないように床や階段をカーペットで覆っていたのです。

昭和34年 金具屋パンフレット表紙
昭和34年 金具屋フロント

なんてことをしていたんだと思うかもしれませんが、当時この棟が完成する前から、『はやく泊めろはやく泊めろ』と壁が塗りあがる前からお客さんが殺到していたということですから、わからないものです。

ちなみに次の写真はお客様から提供していただいたものですが、この白亜の本館の屋上に完成した露天風呂です。ものすごく広い、なにしろ男女ぶち抜きの混浴だったんです。

昭和35年頃 露天風呂

昭和37年には渋温泉の通りから裏山にリフトがかかり、もともとあったスキー場に接続します。ここに床が回る大展望レストランや観覧車、遊具がならぶ「渋温泉観光センター」が完成します。同時37年に上野ー湯田中の急行「志賀」が乗り入れを行うようになりました。志賀高原の第1次黄金期とも重なります。この時代が渋温泉で一番お客さんが多かった時代であったのでしょう。

昭和34年の請求明細書

昭和34年、2名様で3泊の領収書です。香梅(303)、宿泊料は1,850円だったようです(朝食別)。朝食代が250円で、ビール360円ですね。あれ、ビール高い!宿泊代の20%くらいします。今でいえば2,000円くらいですかね・・・

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