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キ域_02

『市内住宅で2遺体発見、無理心中か』
 20日午後18時ごろ、ガスメーターの点検に来た職員より「何かが腐ったような臭いがする」との通報があった。
 署員が駆け付け住宅を捜査したところ、リビングで首をつって死亡している男性の遺体を発見。さらに浴室で切断された女性の遺体を発見した。
 発見された遺体は現在身元確認中とのこと。風呂場で発見された切断遺体は損壊が激しく、腐敗もかなり進んでいたことからDNA鑑定を待つことになるという。
 尚、現場となった住宅には40代男性と30代女性の夫婦が暮らしており、発見遺体は夫婦のものと思われる。尚、夫婦には8歳になる息子がいたが、行方不明になっている。
 県警は無理心中と殺人事件両面の可能性をふまえ捜査本部を実施。
 また行方不明になっている8歳の少年に関しても捜索を開始、近隣住民にも目撃情報の提供を呼びかけている。

 

『妻を殺してバラバラに、後に自殺か 住宅地で発見の2遺体』
 住宅地で発見された無理心中と思われる2遺体は無職の坂本誠吾さん(44)と、妻の智子さん(36)と判明。
 司法解剖の結果、誠吾さんの死因は首を吊ったことによる頸部(けいぶ)圧迫による窒息死だった。妻の智子さんは腹部などに複数の刺し傷がみられ、これによる出血が死因とみられている。
 誠吾さんが智子さんを殺害し、風呂場で遺体を切断。その後、自殺したものと思われる。
 現場には争った跡はないため、無理心中の可能性が高い。しかしいくつか不自然な点があるため、2人が殺害された疑いもあるとして引き続き捜査を進めている。
 行方不明になっている8歳の少年は未だに発見されておらず、警察は地元の消防団などにも呼びかけ100人体勢での捜索を実施している。週末には付近住民も参加しさらに大規模な捜索が実施される予定だ。

『住宅地で発見の2遺体、無理心中と断定 8歳少年の生存は絶望的か』
 住宅地で発見された無理心中と思われる2遺体、坂本誠吾さん(44)と、妻の智子さん(36)は無理心中だと断定。
 誠吾さんは凶行に至る一週間前に突如退職しており、その少し前から奇妙な言動を繰り返すようになっていたとのこと。誠吾さんが務めていた会社の同僚は「最近になって様子がおかしかった。常にピリピリしているというか、とにかく近寄りがたかった。独り言も多かった」などと語っている。
 また妻の智子さんも塞ぎがちな事が多く、殺害される少し前から体調不良を理由にパート先に長期休暇を申請していた。
 行方不明の8歳少年はいまだ発見されず、事件発覚から一週間以上が経過した。事件発生時から考えれば一ヶ月以上経っており、生存は絶望的と見られている。

 
 * * * * * * * *

 ザッザッザッっとキャンバスにパレットナイフを滑らせる。
 目の粗い生地の上を擦っていく感触が好きだった。まずは青を。それから少し緑を混ぜた青を塗っていき、ところどころ赤も混ぜてキャンバスに濃淡を作っていく。
 油絵をはじめたのは高校生の時だった。
 とくに趣味のなかった佑衣子は「楽そうだから」という理由で美術部に入り、そこですっかり油絵に魅了されたのだ。
 それまで美術の成績が良かった訳ではなかったから、絵画展に出せるような絵はかけなかった。
 だが別にかまわない。
 それはきっと当時、美術部の担任だった先生の指導のお陰だろう。

 好きなように描きなさい。子供が画用紙に落書きするみたいで構わないのよ。
 絵を描くのはとても自由な行為なの。
 そのキャンバスはあなただけのものだから、全部あなたの好きにしていい。
 勿論、美大を目指したい人はそれだけじゃ足りないわ。
 でも何かを始めたら上を目指さなきゃいけないなんて窮屈すぎる。
 だからね、好きなように描いていいのよ。
 描いていて何か物足りなくなったり迷ったりした時に学べばいいわ。

 あの言葉があったから、絵をかくことを好きになれた。
 他にも水彩画や版画、彫刻などにも手を出してみたが、しっくり来たのは油絵だった。何度重ね塗りをしても構わないし、佑衣子のような素人でも、色を重ねあわせていくうちにそこそこ見栄えのするものになっていく。
 ただ問題は、描ける場所を確保しなければいけないことだ。
 イーゼルは場所をとるし、油絵具は一式そろえればそこそこの量になってしまう。
 何よりも問題なのはその臭いだ。
 油絵具をとくために使うテレピン油は松脂などを原料としているが、臭いとしてガソリンに近い。借家では臭いが染み付いてしまって大変だし、集合住宅では近所から苦情がくるだろう。
 でも今は、気兼ねなくキャンバスに向き合える。
 その筈だった。
 佑衣子はため息をついて窓の外に視線を向ける。
 油絵をかくには換気が必要不可欠だ。つまり、窓を開けておくことになる。
 今、佑衣子の部屋の窓から見えるのは鬱蒼とした裏山と、事件がおこった隣家だった。
 隣家を見るたびに憂鬱な気持ちが込み上げる。それに臭いが。
 あの日に嗅いだ腐ったような、だがどこか甘いあの臭いがずっと周囲に残っている気がしてしまうのだ。
 油絵のにおいに混じってふとあの臭いを感じ取る。それは、何をしている時でもそうだった。キッチンで料理を作っている時。リビングでお茶を飲んでいる時。そんな他愛のない時間にもふいにあの臭いがどこからともなく漂ってくる。
 きっとそれは、ほとんど気のせいなのだろう。
 佑衣子の頭にこびり付いてしまったあの臭いが、まるで幻肢痛のようにふとした瞬間に蘇る。あるいはまだ僅かに臭いが残っているのかもしれなかった。隣家のドアを開けてみれば、はっきりと残っていることだろう。
 でもここにはもうない筈。
 そんな風に何度自分に言い聞かせても、あの臭いをどこからともなく感じ取る。

 ああ、ほらまた。

 鼻の粘膜にこびりつくような甘く腐った異臭。いやだわ、と眉をしかめた所で、佑衣子はありえないものに気が付いた。

 足だ。

 それは向かい合っているキャンバスの向こうに見えていた。
 子供の足。細く白い子供の足が、キャンバスの隙間から覗いている。
 足以外はちょうどキャンバスに隠れてしまっていて、それが女の子か男の子かは分からない。
 
 佑衣子はパレットナイスフを握りしめたまま固まった。
 ありえない。そこに子供がいる筈はない。それにあの臭いが、今は気のせいだとは思えないほど強くあたりに漂っている。
 ゆっくりと息を吐き出した。
 落ち着いて。落ち着くのよ。そうやって自分自身に言い聞かせる。
 幻覚よ。そうじゃなければ、どこかの家の子が家に入ってきてしまったのだ。
 佑衣子はそっとキャンバスの横から顔を出す。
 その瞬間、子供はぱっと走り出した。トトトトっと軽い足音が廊下を走り、そのまま階下へと降りていく。

 「ちょっと」

 佑衣子は声をあげると慌てて後を追いかけた。
 恐怖はある。だが確かめずにはいられない。急いで階段を降りていくとジローが狂ったように鳴いていた。ちょっと前まではリビングで昼寝をしていた筈だが、今は玄関に向かって激しく何度も吠えている。

 「ジロー、大丈夫よ。落ち着いて」

 声をかけ抱き上げてもジローはまだ騒がしく吠えている。歯をむき出し、ブルブルと小刻みに震えながら吠える様は、明らかに何かに怯えている。
 恐る恐る周囲を見回してみたものの、子供の姿は見当たらない。
 ふと気が付くとあの甘ったるい腐敗臭も消えていた。
 だがそれでも、ジローはしばらくの鳴きやまなかった。




 「ねえここって、事故物件だったりしないわよね」

 夕食時に、佑衣子は恐る恐る切り出した。
 この家は、和彦の友人が紹介してくれたものだった。だから疑ってかかるのは和彦にも失礼になってしまう。それでも聞かずにはいられなかった。

 「いや、それはないよ」

 和彦は即答した。

 「実は、俺も気になって確認したんだ。ここは他に比べて安いだろ? だから何か訳ありなんじゃないかって。理由はいくつかあるけど、一つは老人ホームが近くにあるって事らしい。そういうのを嫌がる人も多いってことだ」
 「それは、そうなのかもしれないわね」

 佑衣子はなるほどと頷いた。

 「それにこの辺りはバブル期に開発されてどんどん分譲された土地らしい。ただ思ったより不便で人が居着かなかった。
 それがここ10年くらいの間に老人ホームや病院のお陰で、インフラが改善されたり、バス停が出来て随分ましになったらしい。
 そこで不動産会社が放置されてた家を買い取ってリフォームした。だから今になって売り出したってことらしい」
 「それじゃあもしかして、お隣さんも最近越してきた人だったの?」
 「多分そういうことじゃないかな」
 「でもこの近辺って家自体が少ないと思うのだけれど。空いている土地ばかりじゃない?」
 「この手の土地にはありがちだって話だよ。地価の高騰を狙って投資目的で購入して家をたてなかったんだ。けど実際は下落する一方だった。そこに目をつけて買い取ったって訳だな」
 「でもようやく売り出したところであんな事件が起きるなんて、これからが大変そう」
 「お陰でこっちも迷惑してるしな。ちょっと家賃を下げてくれって言いたくなるよ」

 和彦は恨めし気な顔でリビングの窓に視線を向ける。
 事件があってから、いやその少し前に倉敷が訪ねてくるようになってから、リビングのカーテンは閉じ切ったままになっている。最近では、事件現場を一目見ようとやってくる人がいるせいで昼間でも家中のカーテンを閉めていることが多かった。
 佑衣子が油絵を描いている時などはカーテンを開けたままにしているが、そうすると無遠慮に声をかけてくる人がいる。
 動画配信をしている若者やどこかの記者が話を聞こうとして来るのだ。許可を出す前からカメラを向けてくる者までいるのだから、できるだけカーテンを閉じておく事になり、そのせいで家の中が薄暗い。

 「あのユーチューバーだっけ? あの人達には困ったものよね。この間なんて勝手にお隣の庭に入っていたし。夜中にも来ていることがあるもの」
 「あいつらはすぐに飽きるだろうからまだいいさ。町の連中はもっとタチが悪い」
 「そうなの?」

 それは初耳だった。
 確かに倉敷のことがあってから、この町の住民に対して不信感はあるものの、あれは彼女のみがおかしいのだと分かっている。

 「そうだよ。バスに乗ったりしてると陰口を叩いてきたりするだろ?」
 「気付かなかったわ」
 「佑衣子はぼーっとしてるからな。アイツらは新しく越してきた人間が嫌いなんだよ。だからいつもヒソヒソ話してるんだ」
 「そうなの? でも私たち何か言われるようなことはしてないわよ?」
 「何もしてなくたって気に入らないものは気に入らないんだよ」

 なんだろうか。
 佑衣子は首を傾げた。
 和彦は苛立っている様子だった。それはここ最近の事情を考えれば仕方ないことだろう。だが、どうにもおかしいのだ。
 確かに佑衣子は和彦に比べてぼんやりとしている事がある。それでもバスに乗っている間に陰口を叩かれた覚えはない。

 「ねぇ、和彦。もしかしてちょっと疲れてるんじゃない?」
 「そりゃ疲れてはいるけど。何だよ、もしかして佑衣子まで俺がおかしいと思ってるのか?」

 ガタンっと和彦が勢いよく立ち上がり、佑衣子は驚いて目を見開いた。

 「違うわ。そんな事は思ってない。ただ疲れてるんじゃないかって心配しただけ」
 「疲れてるのは認めるよ。だけど俺はおかしくない」
 「誰かにそう言われたの?」
 「黙れ」

 和彦がテーブルに拳を振り下ろす。ドンっと大きく音が響き、その音に驚いたのかジローがリビングに入って来る。

 「ジロー」

 佑衣子は愛犬に視線を向け、その様子に驚いた。
 ジローは明らかに怯えていた。低い声で唸りながら、体を小刻みに震わせる。威嚇する時と同じように牙をむき出し、その目は和彦を見詰めていた。

 「ジローどうしたの?」

 慌ててしゃがみ込んでジローの体を撫でてみれば、掌ごしにブルブルと震えているのがよく分かる。ギャウっとついにジローが吠え声をあげた。目は相変わらず和彦を見詰めたまま離れない。

 「おい、やめろ」

 和彦が苛立った声で言う。だがジローはギャンギャンと激しく啼きはじめた。

 「おい! 黙れ!! 静かにしろ!!!!」

 大股で近寄ってきた和彦が拳を振り上げる。佑衣子は慌ててジローを庇うように抱きしめた。

 「やめて!! 怖がってるのよ!」

 ぎゅうっとジローを抱きしめると、ようやく鳴きやみはしたものの低く唸る声が聞こえてくる。

 「二度と俺に向かって吠えさせるな。今度やったらゴミ袋につめて捨ててやる!」
 「何てこと言うの!?」

 思わずヒステリックな声が出る。次の瞬間に視界がぶれた。
 なにが起こったのか分からないまま勢いよく床に倒れこむ。
 頬が痛い。殴られたのだと分かるまでにおおよそ30秒は必要だった。
 それに、頬の痛みよりも、再び噛みつかんばかりに吠えだしたジローを抱きかかえているのに必死だった。
 和彦は拳を握りしめたまま、じっと佑衣子を見下ろしている。その顔には何の感情も見当たらない。
 佑衣子もまた、無言のまま和彦を見上げていた。
 痛みよりも。恨み事を言うよりも。ただただ信じられなかった。
 やがて和彦は大きなため息を吐き出すと、自室へ無言で去っていく。
 佑衣子はジローを抱きしめた。そうして、ドアが閉まる音を聞いたあとに、ようやく声を殺して泣き出した。

 
 * * * * * * * *

 里穂子が来たのは土曜日の昼すぎだった。
 里穂子は佑衣子の妹だ。歳は6つ離れているから、ほとんど衝突することもなく過ごしてきた。家が共働きだったため、佑衣子が中学生になった頃からは里穂子の世話を任されることが多かった。
 歳が離れていたために遊び相手にはならなかった。
 それでも姉妹の仲はずっと良好だったと言えるだろう。
 佑衣子が社会人になってからもしばらく自宅暮らしを続けていたのは、里穂子の面倒を見ていた事もある。その里穂子も大学に入ってからは自宅から出て自炊を始めるようになり、ようやく佑衣子も家を出ることが出来たのだ。

 「久しぶりー、ジロー!」

 里穂子が家にやって来ると、ジローは尻尾を千切れんばかりに振り回して喜んだ。
 このところ元気がなかったから、そんな無邪気な姿を見ていると安心する。
 里穂子を家に招いたのは、ジローを一時預かって貰うためだった。和彦と揉めた一件以来、ジローは和彦に向かっても激しく吠えることがある。
 それに対して和彦は苛立ちを見せていた。
 あの日から大きな衝突はなかったが、ジローが鳴くたびに和彦の顔色を伺うのは辛かったし、実際、あんな風に吠えたてられては和彦にもかなり負担だろう。今の和彦は疲れている。そんな彼を無暗に刺激するのは避けたかった。

 「なんか色々大変だったんだってね」

 足元でじゃれつくジローを撫でながら里穂子が気づかわし気な様子で切り出した。

 「うん、まぁね。と言っても事件があったのはお隣さんだし、顔をあわせた事もなかったのよ」
 「でも暫く報道陣とか多かったんでしょ?」
 「そうだけど。それも一家心中だって分かってからはさぁっと引いていったわ。行方不明になった子も、最初からほとんど見込みなしだったでしょ?」
 「まだ見つからないんだっけ?」
 「そうらしいわね。もっと早く気付いていれば違ったかも知れないけれど」

 それは佑衣子にとって後悔だった。
 警察の話では隣家の夫妻が亡くなったのは一ヶ月以上前だという。つまり、佑衣子たちが越してくる前に事件はすでに起こっていたのだ。
 だが自分が、自分達が。
 引っ越しの日にきちんと挨拶に言っていれば。
 何かがおかしいと気付けていれば。
 行方不明の子供は助かったのではなかろうか。そんな風に思ってしまう。

 「お姉ちゃんも分かってると思うけどさ、それって絶対にお姉ちゃんのせいじゃないからね」
 「そうね。分かってる。でもなかなか割り切れないの」
 「それはそうだろうけど。……いいの? ジローを連れて行っちゃって。ジローがいた方が気がまぎれるんじゃない?」
 「そうなんだけどね。ジローはどうもここが合わないみたいなの。この子も老犬だから、私の都合で慣れない環境で引きずり回すのも可哀そうだと思って」
 「お姉ちゃんが大丈夫ならいいけど」
 「平気よ。そんなに遠い訳じゃないんだから顔が見たくなったら遊びに行くわ」

 里穂子はジローを丹念に撫でまわすと、小さな体を抱き上げた。

 「ねぇ、本当にそれだけ? お隣さんの事件は気の毒だけど、なんだかお姉ちゃん凄く疲れてるみたい。大丈夫?」

 そう問いかけられて苦笑する。
 ずっと妹の面倒を見てきた佑衣子は世間でいう「良い子」として育ってきた。それは成績が良いという事ではなく、世話がかからず聞き分けが良いという意味だ。
 そのせいか佑衣子は疲れたり、体調が少し悪い時も黙っていることが多かった。いや、黙っているというよりも、自分自身で具合の悪さに気が付けない事が多々あったのだ。
 そんな佑衣子の不調にいち早く気が付くのは里穂子だった。
 正直に言ってしまえば大丈夫ではなかった。
 けれど、その原因を考えれば考えるほど解決方法が見つからない。倉敷の奇行、和彦の不機嫌、それにこの間見た子供の足。どれもこれも様子見をするしかないだろう。家を引っ越す、和彦と別れる。今の時点でその選択肢は選べない。だからただ耐えて過ごす以外に仕方ない。
 だが里穂子には何かしらの返答をしなくてはきっと納得しないだろう。

 「……ご近所にちょっとおかしな人がいてね。その人も何年か前にお子さんが行方不明になったのだけれど、何故かその子がうちに来てると思って何度も訪ねて来るのよ」

 佑衣子としては、分かりやすくて無難な事柄を選んだつもりだった。
 だが里穂子はあからさまに顔色を悪くした。予想以上の動揺を見せる里穂子を見て、佑衣子自身も戸惑った。

 「どうしたの?」
 「ううん、なんでもない」
 「何でもないって顔じゃなかったわよ。そこで誤魔化されたらかえって気になるに決まってるでしょ」

 佑衣子の言葉に、里穂子は視線を泳がせる。

 「でも……」
 「もしかして何か見えたの?」
 「え!?」

 里穂子は大きく目を見開いた。ああ、やっぱり。佑衣子はゆるく息を吐き出した。
 家に入ってから里穂子はどことなく落ち着かない様子を見せていた。だからもしかして、何かを見たのではないか。そんな風に思ったのだ。

 「……玄関に入った時に、リビングのドアから子供が覗いてたように見えたの。ほんの一瞬だったから見間違いかなって思ったんだけど」
 「そうなのね」
 「お姉ちゃんも見たの?」
 「一度だけ。見えたような気がしたことがあるわ」
 
 佑衣子は肩をすくめてみせた。わざと明るく、なんてことないように笑って見せる。

 「私は大丈夫よ。もうちょっとだけ様子を見て、本当に無理そうだったら考えなおすから」
 「お姉ちゃんの大丈夫って全然大丈夫じゃないことが多いんだもん。お願いだから本当に無理ってほど我慢しないで。例えばさ、数日実家に戻るとか、私の部屋もお姉ちゃん一人くらいなら泊まれるからさ。息抜きに来たりしてね」
 「分かった」

 約束する、と言って頷いても里穂子はどこか納得していない顔だった。
 きっと私が無理をするのだと疑っているのだろう。残念ながらそれは正しい。しかし長年染み付いた性格はそうそう変わりはしないのだ。

 「次の週末にもう一回来るね。ジローも連れてくる」
 
 そう言って里穂子は帰っていった。
 残された佑衣子はやけに静かになった家の中でしばらく何もせず、ただソファに座っていた。
 疲れた、と思う。
 ひどく疲れた。誰もいなくなると、気を張る必要もなくなってその分だけどっと疲れが押し寄せる。
 そうして佑衣子はいつの間にか、ソファの上で眠っていた。

 
 * * * * * * * *

 夕方のチャイムの音で目を覚ます。
 壁掛け時計を見てみれば、17時をまわったところだった。

 「しまった、……買物」

 佑衣子は慌ててソファから飛び起きた。
 忘れていた。いつもならば会社帰りに駅前のスーパーで買ってくる。
 だが金曜日は残業で疲れ切っていた。買物をする気も起こらなくてそのまま帰ってしまったのだ。
 だから今日は昼間のうちに買物に行く予定だった。里穂子が帰る時にでも駅まで送っていってついでにスーパーに寄ろうと思っていたのだ。
 それをすっかり忘れていた。
 明日の朝ご飯に必要だったパンも牛乳も足りなかった。ご飯はあるけれど、和彦は朝ご飯はパンが好きなのだ。
 和彦は今日は出勤だ。帰りに買って来て貰えるよう頼んでみても良かったが、あの事件以来、なんとなく溝が出来ているし、期限が悪い時が多かった。買物を頼んだくらいで揉めたくない。
 パンを諦めてご飯にする手もあるけれど、やはりそれももめ事の種になりそうで、その方がずっと面倒だった。
 仕方ない。近所のコンビニで済ませてしまおう。
 まだ眠い目をこすりながら、買物袋をもって家を出る。
 つい今日の朝までは。佑衣子が家を出るたびにジローが玄関まで見送りに来てくれていた。それが今はないのが少し寂しい。
 コンビニまでは片道10分ほどの距離だった。
 国道に面した神社の隣にたっているので、ジローの散歩コースでもある。
 ジロー、ジロー、ジロー。歩きながらずっとその事ばかりを考えている。今生の別れでもあるまいし、なんともセンチメンタルなことだった。
 そうしているうちにいつの間にかコンビニに辿り着く。
 コンビニは好きだ。色々なものが置いてあるし、新作のスイーツは見ているだけで気分を明るくしてくれる。
 それに店員も客もお互いに無関心なのが心地いい。
 お目当てのパンや牛乳、それに卵を買物かごに放り込み、悩んだ末に缶チューハイを二本買う。それに夜食になりそうなお惣菜も何品か。
 そろそろちゃんと和彦と向き合って話し合おう。でもあまり堅苦しいのは嫌だった。そんな時にアルコールは役に立つ。
 会計を済ませて帰り道を歩きながら、どうやって切り出そうかを考える。

 久しぶりにお酒でも飲みながら映画をみない?
 引っ越し祝いがまだだったから軽く乾杯でもどうかと思って。

 ふわふわと取り留めなく考えていれば、少しずつ気分が上がってくる。
 考え過ぎなのだ。きっと。
 引っ越した矢先にあんな事件が起こったら誰だってナーバスにもなるだろう。
 そんな時こそ支え合うのが夫婦というものではなかろうか。
 一歩一歩踏みしめて歩きながら、上向きなことを考える。

 「見つけたわ!!!! ちょっと、佑衣子さんッ!!!!」

 突然の声に佑衣子はハッと我に帰る。
 そうして、道の向こうから倉敷が小走りで近づいてくるのに気が付いた。
 しまった。すっかり油断してしまった。この辺りは倉敷と初めて出会った場所なのだ。つまり、偶然に出会ってしまう可能性もある。

 「待って、ねぇ、待って頂戴。話だけでも聞いて欲しいの」

 すぐさま追いついてきて隣に並んで歩く倉敷を、佑衣子は無視して歩いていく。
 はやく家に帰ろう。何もいない。何も聞こえない。そう念じながらひたすら足早に歩いていく。
 誰かに助けて欲しくても、すれ違う人などほとんどいない畑の真ん中の道なのだ。民家もほとんどないのだから、たまたま窓から覗いて異常を察知してくれる人もいなかった。

 「お願いよ。あの子に会わせて欲しいの。せめて一目みたいのよ。無事でいるならそれでいいの」

 倉敷の声は真剣だ。最初の頃は気の毒な人だと思っていたが、執拗に毎日やって来られれば、ただただ迷惑だとしか思えない。
 ようやく家に辿り着く。
 玄関の鍵を出したところで、倉敷が強引に腕に縋りついてきた。

 「無視しないで! 大事な子なの。私にはあの子だけなのよ!」
 「離して下さい!」

 強引に腕を振りほどこうとした所で、かえって強く掴まれる。その反動で買物袋が落下した。

 「あ、ッ」

 ぐしゃっと小さな音がした。
 折角買ってきた卵が割れてしまった。その途端、自分でもどうしていいか分からないほど激しい怒りが込み上げる。

 「いい加減にしてッ!!!!」

 ドンっと思い切り倉敷の体を突き飛ばす。怪我をしようが構わなかった。
 倉敷がバランスを崩して地面に転がる様子を見ても、何の感情も沸いてこない。
 ため息をついて今度こそドアを開いて買物袋を拾い上げる。
 だが倉敷も負けてはいなかった。しばし呆然としていたが、慌てて起き上がって閉まりかけのドアに猛然と突進してきたのだ。

 「駄目よ!!!! いやッ!!!! 返してッ!!!! あの子を返して!! 返しなさいよ!!!!」

 ドアに縋りつく倉敷は狂ったようにがなり立てる。
 ああ、うるさい。うるさいうるさいうるさい!
 不快な音だ。まるでボリュームを間違えた耳鳴りのように、それは頭を締め付ける。

 「黙ってッ!!!!」

 渾身の力でもってドアノブを内側に引っ張った。
 その途端、ガズっと鈍い音がして、固い何かが潰れた感触が伝わった。
 あ、指だ。
 佑衣子は無感情にドアからはみ出した指を見つめていた。
 五本の指。それがドアに挟まっている。
 わずかな間をおいて倉敷が無様な悲鳴をあげはじめる。うるさい。不快な音だ。だがこのままではドアが閉められない。
 仕方なく一度ドアを開けると、驚いたことに倉敷は今度は両手でドアにしがみついてきた。
 馬鹿なのか?
 痛い目を見ても分からないのか?
 ガンっともう一度ドアを閉める。挟まった十本の指が電気を流したように跳ね上がる。

 「ちょっと、離して下さい。怪我しますよ。指がなくなってもしりませんよ」

 もう一度、もう一度。
 ドアを開いて閉じる。佑衣子がやっているのはそれだけだ。別に傷つけようだなんて意図はない。
 ただこの女が。不法侵入をしようとドアに縋りついているだけなのだ。だから私は悪くない。
 佑衣子は淡々と、何度も何度もドアをしめる。骨が砕け、指の皮がずる剥ける。でもそれは、この女が望んだ結果だから仕方ない。
 何度目かでドアを開いた瞬間に、倉敷が倒れこんできた。

 「あ、……」

 だがドアを閉める勢いは止まらない。ガンと今度は倉敷の頭が挟まれて、今までより鈍い衝撃が伝わった。
 倉敷はバタバタと手足をはねさせたが、やがてそれもおさまれば今度はピクリとも動かなくなってしまう。
 佑衣子はしばらく心が麻痺したままだった。
 殺した、という自覚はある。
 自覚はあるのに、なぜか現実感が追いつかない。
 だって今この瞬間、私は世界と切り離されてしまっていた。ここには私たち二人きりで、誰も助けてなどくれなかった。だから、それ以外の現実なんてここには介入しなかったのだ。
 だから、……だから、……

 「佑衣子、どうした?」

 気が付けば目の前に和彦が立っていた。いつの間にか仕事から帰ってきたのだろう。顔は疲れきっており、手には通勤鞄をもっている。

 「……せっかく、買物に行ったのに卵が割れちゃったの」
 「そうか。残念だったな」
 「だから明日の朝は卵なしでもいい?」
 「いいよ。取りあえず、それを風呂場に運ぼう」

 和彦はやけに淡々とした態度だった。
 玄関の中に入ると鞄を置いて倉敷の体を羽交い絞めにするように持ち上げる。

 「足の方、持ってくれ」
 「うん」

 分かったと頷いて倉敷の足を持ち上げる。細い足だ。持ち上げた拍子にサンダルが玄関に転げおちる。
 ぞくにトイレサンダルなどと言われる茶色のサンダル。よくもこんな歩きにくいサンダルで追いかけてきたものだと感心する。彼女はきっと、本当にたまたま佑衣子を見かけたのだろう。だから慌てて走ってきた。その結果、自分が死ぬとも知らないで。

 「ねぇ、なんで風呂場に運ぶの?」
 「仕方ないだろ。こうなったら隠すしかない。その前に小さくしておかないと」
 「小さく?」

 和彦の言葉に少しずつ現実感が戻ってくる。同時に、言いようのない違和感が湧き上がる。

 「ねぇ、それって不味いんじゃない? だってほら、死体って傷つけたら罪が重くなるんでしょ?」
 「そうだよ。だからバレないようにやるんだ」
 「でも、それよりもさっさと通報した方がいいんじゃないかしら。すぐに言えば、混乱してたって、家にはいられそうで怖かったって。そう言えば情状酌量の余地があるんじゃない?」
 「甘いな、佑衣子は」

 和彦は笑った。

 「お隣さんが死んだだけでもあんなに大変だったんだぞ。警察が来て根掘り葉掘り取り調べられる。しばらく刑務所で拘束される。情状酌量の余地があっても立派な犯罪者だ。大勢からそういう目で見られるんだぞ。それでもし釈放になったって同じ生活に戻れるはずがないだろ。会社は首になる。下手したら家族にも迷惑がかかる。それに子供が出来たらどうするんだ?」
 「そんな、……でも、……」
 「もう無駄だよ。死体を運んだ時点で隠蔽しようとしたって言われて罪が重くなる。もう無駄なんだよ佑衣子」

 なんで、どうして、和彦は笑っているんだろう。佑衣子は反論できないまま、倉敷を風呂場に運んでいく。
 なんとか倉敷を風呂場まで運ぶと、和彦は一度玄関に戻り、庭の倉庫から鋸や金槌をもってきた。鉈や手斧、ビニール袋やロープまで。それらは何故か一つの大きなナップザックに入っている。

 「ねぇでもきっと無理よ。彼女がうちに来たってすぐにバレるわ」
 「大丈夫さ。ここじゃ誰も見てないんだ。お隣さんだってそうだっただろ。ここは何をやったって見つからない。そういう土地なんだよ」
 「でもッ!」

 声を張り上げた瞬間に、和彦が鉈を振り下ろす。刃は倉敷の首へ深々と突き刺さり鮮血がタイルに飛び散った。

 「ほら、もう無理だ。言い訳出来ない。取り返しがつかない」

 返り血を浴びた和彦は、見たこともなくらい満面の笑みだ。

 「俺たちは共犯だ。共犯なんだよ、佑衣子。いいんだ、気にするなよ。俺はずっと求めてたんだ。罪で繋がる仲っていうのは他の何よりも強いんだよ。お前はもう絶対に俺を裏切れない、そうだろ?」
 
 愛してるよ、と和彦は言う。
 佑衣子はただ頷いた。

 「さぁ佑衣子、手伝ってくれ。はやくこいつをバラさないと。裏の山に捨てるんだよ。そうすりゃ熊が勝手に食べてくれる。さっさとやっちまおう。ああ、泣くなよ佑衣子。お前が悪いんじゃない。ここの連中が悪いんだ。ここの連中が悪いんだよ」

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