キ域_01
※「キ域」は一話完結ではなく、シリーズ作品となります。
分かりやすいように「キ域」シリーズはサムネイル画像を赤に変更しております。
第一印象は「思った以上に綺麗な家」だった。
築30年以上は経っていると聞いている。大金をはたいて購入する家となれば新しい家が良かったが、佑衣子と和彦の給料ではそれは夢のまた夢だった。
それでも一軒家に住まえるだけ随分と恵まれているだろう。
最寄り駅まで車で10分、都心部まではそこから電車で40分ほどかかったが、それでも1時間圏内だ。その条件で購入出来る家としては、かなり良心的な値段だった。
それに、そう。
家は佑衣子が想像した以上に綺麗だった。
売りに出す前にあちこちをリフォームしたと聞いていたが、これならば新築と言っても通じそうだ。
「いい家ね」
佑衣子がそう漏らすと和彦は得意げに笑ってみせた。
「だろう? 大学の同期で不動産業についた奴がいたんだ。そいつのコネで探して貰ったんだよ」
「そうね、とてもいいわ。国道から離れているから車の音もうるさくないだろうし、ジロ―ものびのびと過ごせそう」
ジロ―というのはペットのウェルシュ・テリアだ。
和彦と結婚するより以前から佑衣子が飼っていた犬で、今は実家に預けている。佑衣子が一軒家の購入に前向きになった理由の一つが愛犬と一緒に過ごしたいという気持ちからだった。
この家ならば愛犬を連れてきても大丈夫だろう。
もし夜中に吠えることがあったとしても近所トラブルになることもなさそうだ。都会とは異なり、家々は一軒一軒の間隔が広い。よくある新興住宅地のようにすし詰めに建てられている訳でもなかったから、少しくらい騒がしくても平気だろう。
「中も入ってみないか? キッチンなんかは佑衣子が直に確認した方がいいだろ?」
「やあね。私だけに家事をやらせようっていうなら承知しないわよ?」
「まさか! そんなつもりはないって事は知ってるだろ? でも俺は佑衣子の作った餃子が食べられないと生きていけないんだ」
「私も。あなたの作ったカレーがないと生きていけないわ」
佑衣子は笑いながら和彦から鍵を受け取った。
ガチャリっと鍵を差し込む。
その瞬間、ふいに背筋が寒くなった。
なんだろう、今の感覚は。
佑衣子は首を傾けた。これは、多分「忌避感」だ。鍵という小さな金属を通してチクチクと針でつつかれたような奇妙な違和感が這い上がる。
「佑衣子? どうかしたか?」
声をかけられると同時に、奇妙な違和感は消え去った。
「ううん、なんでもない。ちょっと緊張したみたい」
「ならいいけど。それじゃあ中を見てみよう。お先にどうぞお嬢さん」
「ありがとう」
佑衣子はわざとらしいほど満面の笑みを浮かべてみせる。
それは自分自身への発破だった。あの奇妙な違和感を払いのけるためのおまじないのようなもの。
大丈夫。なんでもないわ。
緊張している。それだけのこと。
だってこれは人生を左右する買物になる。それだけのことよ。
佑衣子はドアを大きく開け放った。
家の中も外観と同じように綺麗に整えられていた。
水回りはほぼ最新のものに変えてあったし、雨戸や窓ガラスも恐らく新しくしたのだろう。フローリングもぴかぴかで、新築特有のワックスの匂いが漂っている。
「本当に、これなら新築と変わらないわね」
そうだろ、と和彦は上機嫌に頷いた。
綺麗だ。それにとても静かだった。
都会に暮らしていた時には、朝から晩までさまざまな騒音に満ちていた。車の排気音、隣家の室外機の音や時間帯によっては飛行機が上空を通過していく音もする。
少し離れたところに学校があったせいで、子供の叫ぶような声も聞こえてきた。運動会の時期ともなれば耳栓が必要になるくらいの騒音にかなり悩まされていた。
それに比べ、ここは本当に静かだった。
耳をすませても聞こえてくるのは鳥が鳴く声くらいだった。それも、都会にいるようなキィキィと甲高く啼く鳥ではなく、名前は分からないが、きっと何種類かの野鳥が鳴いているのだろう。
いいところだ、と素直に思う。
家の裏手は小高い山になっているから、そこに鳥がいるのだろう。
「部屋割りはどうしようかしらね」
「お、大分その気になってきたな?」
佑衣子が真面目に検討しはじめると、和彦も隣にたって腕を組む。
「一階の洋間は夫婦の寝室かしら。二階も捨てがたいけど、そのうち子供が出来たらそっちが子供部屋になるわよね」
「そうだな。まぁ子供が出来た時のことはその時に考えてもいいんじゃないか?」
「そうね。でもなんだか考えるのが楽しくって。こんな贅沢な悩みなんて久しぶりだから」
「それもそうか。なら一生懸命悩んでみよう。ひとまず寝室は一階で、二階はそれぞれ趣味のための個室を持つっていうのはどうだ?」
「いいわね。そうしたらまた私も油絵をはじめようかしら」
佑衣子は油絵を書くのが好きだった。
だがこれも実家を出てからはずっと諦めていた趣味だ。借家ではとてもじゃないが匂いが染み付いてしまって描けなかった。でも自分の家ならば臭いの心配はいらないし、ここならば大抵の季節は窓を大きく開け放っていてもなんら問題がないだろう。
ためしに二階に登って窓を開けて見てみれば、隣家との距離はそこそこある。
これならば油絵具の臭いが迷惑にはなることはないだろう。
佑衣子は周囲を見渡しながら、ふと山際にある建物に気が付いた。
「ねぇ、あそこ。あっちにも。ちょっと大きな建物があるけど何かしら?」
そういえば、ここに来る間にも車の窓からいくつか大きめの建物が見えていた。
最初は病院かと思ったがそれにしては数が多い。人口を考えてみれば、こんなに沢山の病院はいらない筈だ。
「ああ、あれは老人ホームだよ」
「こんなところに? 来るのが大変じゃない?」
「仕方ない。都会じゃほとんどのホームが満杯で入居するのに数年待ちなんてザラだからな。だからこういう辺鄙なところに建つんだよ。まぁ現代の姥捨て山みたいなもんだ」
「ちょっと!」
佑衣子は思わず声を荒げた。
「それはないんじゃない? 預ける人にはそれぞれ事情があるんだろうし」
「そりゃそうだ。それを含めて姥捨て山だって言うのさ。誰だって肉親を捨てたいなんて思ってない。
うちの爺さんもそうだったよ。心筋梗塞でしばらく脳に血が回らなくてさ。それですっかり頭が壊れちまった。最初は家族で面倒を見ようって話してたけど、段々と世話をしてる側の具合が悪くなっていったんだ。それで、仕方なく預けることになった。都会じゃまったく見つからないか、馬鹿みたいに高いところばっかりでさ。仕方なく遠いホームに預けることになった。
最初はみんな悲しんでたけど、それだってそうそう続かなかった。アッと言う間に爺さんがいない事が当たり前になって、そうしたら遠いのも相まって誰も見舞いにいかなくなった。
ありゃあそこに捨てて来たんだってまだ中学生だった俺でも思ったよ。当事者がそう感じてるんだ」
でも、と言いかけた言葉を引っ込める。
和彦の言葉は現実の一面でもあるのだろう。そういった面ばかりではないだろうと否定するのは簡単だ。
だが少なくとも和彦は自身の経験からその答えを出したのだ。佑衣子の気持ちも綺麗ごとばかりではなかったが、そういった意見の差異は埋められない。
「そうなのね」とだけ頷くと、和彦も少々気まずさを感じていたのだろう。それ以上、持論を続けることはなく、しばし並んで外の風景を眺めていた。
「……それじゃあ、このまま家を購入するって方向で話を進めても構わないか?」
ややあって、和彦が口を開く。
佑衣子は「ええ、勿論よ」と頷いた。
「それにしても、内見だっていうのに不動産屋の人は来ないのね」
「じっくり水入らずで見て来ていいってことだろ。有難い心遣いじゃないか」
「そうね」
笑って頷きながらも、少しばかり引っ掛かりを覚えてしまう。
確かに水入らずは嬉しいが、それでも鍵だけぽんと渡して「後はご自由に」というのはあまりにも不用心ではなかろうか。それとも、多少不用心だとしても、ここに近寄りたくない理由でもあったのではなかろうか。
駄目よ。
佑衣子は首を振った。
なんでも深く考えすぎるのは悪い癖だ。
今は三月の中旬だ。不動産屋としては引っ越しシーズンの真っただ中でひどく多忙なのだろう。
「出来るだけ早く越して来たいわね。真夏に引っ越しなんてゾッとしないもの」
「そりゃそうだな。汗だくで荷物を運ぶのは遠慮したい」
和彦は楽し気にお道化てみせた。
* * * * * * * *
契約から引っ越しまではとんとん拍子で進んでいった。
だが引っ越してからの生活は順風満帆とは言い難かった。
まず最初に佑衣子を困らせたのは愛犬のジロ―だった。
ジロ―は平均的な小型犬としては、無駄吠えをすることがほとんどない。だが、荷物の運び入れが終わり、実家から連れてきた時には車のドアを開けるや否や、歯をむき出して唸り声をあげたのだ。
その後も車から降りるのを嫌がってキャンキャンと泣き喚いた。
こんな事は今まで一度もなかったのだ。
動物病院に連れていった時ですらここまで大騒ぎはしなかった。
それでも何とか時間をかけて宥めてから、家の中に連れていった。だがやはりジロ―は落ち着かない様子でうろうろと歩き回り、時折何もない場所に向かって吠えていた。
吠え癖がついたかもな、と和彦に言われるくらいに、引っ越してからのジロ―はその後も事あるごとに吠えるようになってしまったのだ。
幸いにして、近隣住民からの苦情はなかった。
いや、正確にはご近所さんがいなかったのだ。
以前に内見に来た時には隣の家のベランダには確かに洗濯物が干してあった。だが今は全ても窓に雨戸がしまっており人の気配は伺えない。佑衣子たちが来る間に、どこかに越してしまったのだろう。
ご近所さんがいないお陰でジロ―の無駄吠えを気に病む必要はなくなった。
だが、近隣住民がいないというのはそれはそれで不安なのだ。
他にも問題はいくつもあった。
例えばまず買物だ。
この町は、駅前に大きなショッピングセンターが建っている。その周辺にいくつかの商業施設が集まっており、駅から少し離れると住宅密集地になっている。だがそれも山際にいくに従って徐々に畑が増えていき、家も少なくなっていく。佑衣子が住んでいる場所は、病院や老人ホームが多くたっていることもあり、個人住宅は点々と建っているといった具合だ。
であるから、陽が落ちると周囲は真っ暗になってしまう。
以前ならば何か足りないものがあっても近所のコンビニに買いにいけばこと足りた。
だが今は、コンビニに行くにも国道沿いまで出ていくことになり、これが歩いて10分ほどかかるのだ。
街灯も都会に比べればかなり少なく、緑が多いことで暗闇になる場所も多かった。
こんな夜道で不審な人物に出会ってしまったらどうしようもなかったし、それ以外にも熊の目撃情報なども聞こえてくる。
他にも目に見えて大変になったのが通勤だ。
佑衣子と和彦は別の会社につとめている。で、あるから、出発時間は異なっており自家用車を出すのはもったいない。幸い近所には老人ホームが多いためバス停もそこそこにあるのだが、そのバスが30分に一度しか来ないのだ。
朝はバス停までの時間を見計らって出かけていけば問題ない。しかし帰りは駅前で15分近く待つこともあり、通勤時間を引き延ばす要因になっていた。
だがもっとも佑衣子を悩ませたのは倉敷という女性の存在だ。
倉敷と知り合うことになったのは、引っ越してから一ヶ月ほどたった頃。
ジロ―の散歩に出かけていた時のことだった。
実家に住んでいた時には、会社から帰った後にもジローを散歩に連れ出していた。けれど、最近では休日のみになっている。申し訳ないという気持ちはあったが、ジロ―は老犬の域に達している。運動量としては恐らく問題ないだろう。
その日は朝ご飯を終え、洗濯物を干したあとにジロ―を散歩に連れ出した。
季節は五月だ。
若葉だった緑がより深みを増していく。アスファルトの道の僅かな割れ目からも雑草が顔をだし、周囲の木々も日ごとにぐんぐんと葉を拡げ緑の勢力をのばしていた。
新居に越してから一ヶ月。
最初の頃はひっきりなしに吠えていたジロ―も最近ではその頻度が減ってきた。
だが相変わらず火が付いたように吠えることもあったし、心なしか以前よりも神経質になったように思う。
そんなジロ―も散歩に連れ出した時は前と同じように元気だった。
広い畑に隣接した道を歩いていけば、細い用水路に辿り着く。しばらくは用水路沿いの道を歩くと、徐々に国道に近づいていき、そこには神社がたっていた。
最近のジロ―の散歩コースは、この神社まで辿り着いてからUターンして家に戻るものになっている。
佑衣子はこの神社が好きだった。
畑の中にぽつんとある神社は、そこだけ高い木々に囲まれているので、遠くから見ればまるで小島のようだった。周囲の畑が水田であったならば、まさしく島のように見えることだろう。
このあたりの畑は、茄子やトマト、キュウリやネギなどが多かった。それでもやはり、畑の中にある神社は島のようで、境内に入ると木陰の涼しさもあいまって別世界のように感じられる。
中には水飲み場もあったので、ジロ―に水を飲ませるにも便利だった。
「あら、見たことのないワンちゃんね。もしかして引っ越してこられた方かしら?」
倉敷が声をかけて来たのは、ちょうどジロ―に境内で水を飲ませている時だった。
ふり返ると、50代と思われる痩身の女性がたっている。エプロンをつけたままだったので、恐らく近所の住人だろう。
どこにでもいそうな中年女性というのが倉敷の第一印象だった。
痩せており、疲れているのか目の下にはっきりとした隈が出来ていたが、とくに珍しいことではない。
「はい。最近越して来たんです」
佑衣子はにこやかに挨拶した。
そうして、境内のベンチに腰を下ろしてしばらく会話を楽しんだ。
こちらに越してきてから、近隣の住民とはほとんど話したことがない。知り合いがいるのは良いことだと思ったし、佑衣子自身も会社と自宅を往復するだけの毎日で、会話に飢えてしまっていた。
倉敷はもうこの土地に20年以上住んでいるとのことだった。勤務先は佑衣子の家からも見えていた老人ホームでそこで事務をしていると言う。
お薦めの八百屋や市役所行きのバスの乗り方。休日にちょっと奮発して楽しめるレストラン。
そんな事を教えて貰い、久しぶりに気軽な会話が楽しめた。
おおよそ一時間ほど話したあと、「またの機会にお会いしましょうね」と言って別れたのだが、まさかその日の晩に再び会う事になるなど夢にも思いはしなかった。
倉敷が訪ねてきたのは夕飯を終えて、そろそろ風呂に入ろうかというくらいの時間だった。
ピンポーンとドアホンが鳴り、玄関を開けてみれば憔悴した顔の倉敷が立っていた。
「あの、遅い時間にごめんなさい。実はその、雄太が。うちの子が帰ってこなくて。それでもしかしたらお宅に訪ねて来てるんじゃないかと思ったの」
「え?」
佑衣子はまるで意味が理解出来ずに固まった。
子供が帰ってこない。それは分かるし一大事だろう。だが何故、佑衣子の家に訪ねて来ると思っているのかが分からない。
「ええと、お子さんが行方不明なんですか? 警察には?」
「ここには来てないんですか?」
「来てないですよ。そもそもその、雄太君とは会ったこともないので、うちには来ないと思います」
「でもね、もしかしてって事もあるでしょう? 良かったら家の中を確認させて貰えないかしら」
何を言っているのだろう。
昼間の倉敷はまともな様子だったが、今はおかしな人だった。
困っていると、佑衣子の後ろから和彦がやって来る。
「どうしたんだ?」
「ええと、その、この人が、倉敷さんって仰るんだけど、お子さんが帰ってこないらしくて。それでうちに来てるんじゃないかって」
佑衣子の言葉に、和彦も意味が分からない様子で眉をしかめる。
「うちには来てませんよ。こんな時間に探して回るよりもさっさと警察に連絡すべきです。それでもし、警察が我が家を調べたいというならばご協力します」
和彦がきっぱりと言い放つと、倉敷は悲し気に顔をゆがめた。だが、これ以上は無駄だと諦めたのか、「分かりました」と言って去っていく。
「何だったんだろう。でも、お子さんは帰らないなんて心配よね」
「そりゃそうだけど、ありゃなんかおかしいぞ?」
それは佑衣子も同意だった。
だが、子供が帰ってこないとなれば、親は動揺するだろう。だから、筋が通らない行動に出てしまうこともある。そんな風に考えた。
ところが、倉敷は次の日も佑衣子の家に現れるとまったく同じことを言ったのだ。
そして次の日も。
立て続けに3日連続で訪ねて来られると、流石に異様さが際立った。
「あの、ですから。何度も申し上げていますけど、我が家に雄太君は来ていないんです。とにかく警察に相談して下さい」
「でも、あなたはうちの子の名前を知ってるでしょ?」
「それはあなたの口から何度もお伺いしてるからです。うちに来るよりもちゃんと警察に言って下さい。というか、どういう事なんですか? 毎晩帰ってこないんですか? それとももう3日も帰ってきてないってことですか?」
佑衣子の問いかけに倉敷は髪を乱して首を振る。
「違うのよ。3日じゃないの。もうずっと帰ってきてないのよ。15年間も戻ってこないで、お腹がすいていないか心配なの!」
途端にゾクリと背筋が寒くなる。
倉敷は本当におかしいのだと実感した。
「帰って下さい!」
思わず佑衣子も語気を強めた。そうして勢いよくドアを閉めようとすれば、倉敷が慌てて縋りつく。
「いやよ、帰らないわ! あの子が見つかるまでは帰らない! ここにいるのよ。そうでしょ!? 雄太! 雄太ちゃん! ママよ! 中にいるなら返事をして!!!!」
「いい加減にしろ!!!!」
大声で怒鳴りつけたのは和彦だった。
流石に男の怒声には怖気づいたのか、倉敷が数歩後ずさる。
その隙に慌ててドアを閉めて施錠する。いつもは鍵だけですませたが、今日はキーチェーンでもロックした。
「完全にイカれてんな、あの婆さん」
和彦は呆れた声で吐き捨てる。
「それは、まぁ、そうかもしれないけど。お子さんをなくしたなら、仕方ないのかもしれないわ」
佑衣子も和彦と同じ気持ちではあるものの、いかれてる等と断言されるとフォローの言葉も投げたくなる。
「でもこの辺りってほとんど子供は見かけないのに、何で訪ねてくるって思うのかしら」
「いや、たまに見かけるぞ」
「え?」
驚いて問い返すと、和彦は肩をすくめてみせる。
「実際に見た訳じゃないけどな。この辺りを散歩してると山の方から子供の声がする時があるだろ。けっこう遅い時間まで遊んでるみたいだぞ?」
「え? 嘘でしょ?」
「嘘じゃないって。こっちのガキは元気だなぁって感心してたんだ。うちにも子供が出来たら山の中を走り回ったりするのかもな」
和彦は笑いながら風呂場に向かって歩いていく。
残された佑衣子はもう一度「嘘でしょ?」と呟いた。
だって裏山は子供が遊べるような場所じゃない。斜面はきつく、登山道のようなものもなかったし、あったとしても地元の山菜とりが登っていくような獣道程度のものだろう。
そんな場所で遊ぶことを親が許すはずがない。
そもそも子供たちとて、何もない山の中を駆け回って遊んだりするだろうか。
現代では遊べるものは沢山ある。公園で遊ぶ子供も減ってきているという中で、遊具もない山を遊び場に選ぶなど考え辛い。
で、あるならば。
それならば和彦が聞いた子供の声は一体何だと言うのだろう。
「駄目」
佑衣子はあえて口に出した。
それ以上は駄目。考え過ぎては駄目。
私も和彦も疲れている。だからきっと彼も何かと聞き間違えでもしたのだろう。
佑衣子は自分自身の頬を軽くパチンっと叩いてから、思考を無理矢理に切り替えた。
* * * * * * * *
その日、佑衣子が仕事を終えて戻ってくると、家の周囲には多くの野次馬が集まっていた。
五月だ。日が暮れるのはかなり遅い。その日もまだ日は落ち切っていなかったが、朝から降っていた梅雨の先触れのような雨で、周囲は普段よりも薄暗かった。
集まった野次馬たちの合間から、赤い光が見え隠れする。
パトカーのランプだと気が付くのにそう時間はかからなかった。
まさか自分の家で何かが起こったのだろうか。咄嗟に浮かんだのは連日にわたる倉敷の奇行だ。だが、たとえば家に侵入したとしても、これほどの大騒ぎにはならないだろう。
嫌な予感がこみあげる。
それに臭いが。
バス停を降りて自宅に近づいていくにつれ、嫌な臭いがだんだんと強くなっていく。
足早に進んでいけば、ようやく我が家が見えてきた。
どうやら人が集まっているのは佑衣子の家ではなく、すぐ隣の家のまわりのようだった。
一体なにがあったのか。
パトカーはすでに5台以上集まっており、何にもの警察官がせわしなく動き回っている。隣家の周囲には立ち入り禁止のテープがはられており、佑衣子の家の目の前にも制服を来た警察官が立っていた。
「……あの、……この家のものなのですが」
声をかけると制服の警官は「ああ、すいません」と会釈する。
そうしてすぐに警察手帳を提示した。
「佐竹、と申します。お疲れのところ申し訳ありませんが少々お話を聞かせて頂けないでしょうか」
警察官は40代くらいの男だった。日に焼けていて恰幅がよいせいか貫禄がある。
「私は影山です。お疲れでしょうからまず荷物をおいて、家の中でお話をさせて頂けませんか?」
佐竹の後ろから顔を出したのは、佑衣子と同じくらいの年齢の女性警察官だった。柔らかな物腰に安堵する。無意識のうちにかなり緊張していたようだ。
気が付けば通勤鞄を握っていた手は力が入りすぎて指先が白くなっている。
「何かあったんですか?」
恐る恐る尋ねると、佐竹は困った顔をしてみせた。
「いや、我々もまだはっきりとは把握出来ておりませんで」
「そう、ですか」
佑衣子は頷くと、鞄から鍵を取り出して玄関をあける。
中に入れば勢いよくジロ―が走ってきたが、佑衣子の後に続いて警察官二人が顔を出すと、慌てて奥へ逃げていく。
「どうぞ、お入りください」
二人を促してリビングに向かう。和彦はまだ帰って来ていないようだった。
鞄を置いて椅子に座ると、警察官二人にも座るように促した。
「すいませんね。お疲れかと思いますので簡単に質問させて下さい。ただ場合によってまた後日お伺いしてお話を聞くことになるかもしれません」
「ええ、……はい、大丈夫です」
佑衣子が頷くと、佐竹はよく使い込まれた手帳を取り出した。
「ええとまず、お名前をよろしいですか?」
最初は名前や年齢、家族構成など簡単な質問からはじまった。佐竹の声には犯人を問い詰めるような威圧感はないものの、佑衣子にとっては家に警察官がいるだけでもかなり萎縮してしまう。
疲れもあいまって胃がキリキリと痛みはじめるのを自覚した。
「それでは一ヶ月ほど前に越していらしたという事ですね。その際にお隣さんには……」
「いえ、お会いしていません。雨戸がすべて閉まっていたので、てっきりいないのかと思っていて」
「越してきた当初、すでに雨戸は閉まっていたと。引っ越しの日の正確な日付は分かりますか?」
「4月の最後の土曜日です」
佑衣子の返答に、桧山が「最終土曜というと、4/27ですね」と補足する。
「はい、そうです。引っ越しのご挨拶にと思って菓子折りを用意していたので、どうしようかって夫と話したのを覚えています」
「なるほど。……正面門までまわると自転車なんかが残っていたのですが、そちらはご覧にならなかったという事ですか?」
「そうだったんですね。すいません、そこまで確認しなくて。あの時は引っ越しでバタバタしていたので」
「ええ大丈夫です。分かります。越してくる以前に隣人に会ったことはありますか?」
「いえ、ありません。内見に来た時には、ええと、……確か3月の23日です。その時にはベランダに洗濯物が出てるのを見ましたが、お会いすることはありませんでした」
「そうですか」
他にもいくつか質問をしたあとに佐竹はぱたんと手帳を閉じた。
「他に何か気になっていることなどはありませんか?」
「ええと、その、……毎晩、訪ねてくる人がいるんです。倉敷さんっていうんですが、お子さんが行方不明になったと言って、我が家にいるんじゃないかって」
「ああ、……倉敷さんか」
佐竹は困り顔でため息を吐いた。その様子から、恐らく今までも何度か相談が寄せられていたことが伺える。
「あとで倉敷さんの所によって注意をしておきます。ただまぁ何というか、聞き入れないというか、理解して頂けないというか。しばらく我慢すれば、多分、一ヶ月もすれば収まります。よほどご迷惑をおかけした時には遠慮なく110番して頂ければ駆け付けますので」
「分かりました。そうさせて頂きます」
話している間に、ようやく和彦が帰ってきた。
外の様子にも、家の中に警察官がいることにも驚いているらしく早足でリビングに入ってくる。
「佑衣子、なにかあったのか?」
「大丈夫。うちの話じゃないから。それじゃあ刑事さん、今度は夫から話を聞くんですよね。私はちょっと疲れたので失礼させて頂いていいでしょうか」
勿論です、と佐竹は大仰に頷いた。
佑衣子は和彦に椅子を譲るために立ち上がると、2階の自室へふらふらとした足取りで上がっていく。
部屋について窓を開ければ、ちょうど隣家から黒いシートに詰められた何かが運び出されていくところだった。
雨の匂いに入り混じって、あの嫌な臭いがあたりに漂っている。
腐った臭いだ。暑い日に放置され腐りかけた乳製品の臭いにもよく似ている。
一つ、二つ。
袋が運び出されていく。
分かっている。あれは死体だ。もう動かなくなった人だったもの。
佑衣子はただ無表情でそれを見詰めていた。
予感がした。
これはただの始まりだと。
本当の不幸は、きっとこれからやって来る。
回り続けるパトランプが、災いを暗示するかのようだった。