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生成

 そのお団子屋さんは商店街の中ほどにあった。
 店の入り口はドアがない。通りに面して開かれており、たくさんのお団子が並べられたショーケース、それにその場で食べていく人のために緋毛氈がかけられた縁台がある。
 店内には縁起物の豪華な熊手や、招き猫が飾られている。
 そしてきっとあれは奥様の趣味だったのだろう。季節おりおりの花が活けられていて、それはとても美しかった。
 観光地にあるようなにぎやかな店ではないけれど、近所の人から愛されている店だった。ぽかぽかと暖かな日などは、この縁台でお団子を食べているととても幸せな気持ちになれるのだ。
 そんな店を支えていたのは、いつも笑顔を絶やさないお爺さんだった。
 お爺さんはまるで、神社の境内でうららかな日差しをうけて立っている古木のような人だった。
 どこか浮き世離れした穏やかさをもっていて、深く深く刻まれた皺は人々を見守り続けた年輪のようだ。お爺さんはいつだって笑顔だった。くしゃくしゃの顔をもっとくしゃくしゃにして、いつだって笑いかけてくれたのだ。

 「若い子なのに、和菓子が好きで嬉しいなぁ。ほら、もう1本食べていきなさい」

 そんな風におまけしてくれるところが大好きだったし、学校帰りに通りかかれば、「お帰り」と声をかけてくれた。
 当時、私は小学生だった。親が共働きだったために、「お帰り」だなんて声をかけてくれるのは、このお爺さんだけだった。私はそれが嬉しくて、少し遠まわりになってでも、わざわざ和菓子屋の前を通って帰ったのだ。
 このお団子屋さんのお爺さんには、10歳ほど年下の奥様がいた。年下といっても、お爺さんはすでに齢70を超えていただろう。奥様もそこそこのお年だった。
 この奥様は、その年齢には珍しく大学まで出たという才女であったのだと聞いている。対してお爺さんの方は第2次世界大戦まっただなかで幼少期を過ごし、高校にもろくに通えぬまま必死に働いてきた人だった。それ故にか、奥様はどこかしらお爺さんを見下していた部分があったのだろう。その、奇妙にざらつく感触は、幼い私でもうっすらと感じ取っていた。

 「うちの人はねぇ、生け花なんて分かりゃしないのよ。道端の花だって名前1つ知りもしないんだから」

 いつだったか、店内にあった花の名前を聞いたときに、そんな風に言葉を返されてひどく面食らった覚えがある。
 いじわるな言葉だった。それは、自分に向けられていないときですら、じくじくと痛む棘になる。
 そんな奥様は才女なだけでなく、とても綺麗な人だった。
 目尻にも口もとにも皺が目立っているものの、妖艶な美しさがにじみ出る。かつては銀幕の女優であったなどと言われても「そうなのか」と納得してしまうような人だった。
 でも私は奥様のことが苦手だった。
 今、思えば近所の人たちも奥様のことをあまり好きではなかったのだろう。それはみんなして彼女のことを「奥様」と呼んでいたことから何となく察せられるものがある。
 美しさと教養を皮肉っていたのではないだろうか。
 小学生の私では気が付かなかったのだけれども、世間は昔っからどこか冷え冷えとしたところがあったのだ。




 事件が起こったのは、師走も中ごろを過ぎたころだった。
 商店街はクリスマスムード一色で、サンタクロースの垂れ幕が下がり、音割れのひどいスピーカーからは繰り返しクリスマスソングが流れている。
 洋菓子店ははりきってケーキの予約を受付ていたし、学校帰りの道のりでもイルミネーションをした家が増えてくる。
 クリスマス、そのあとはお正月だ。誰もが浮き足だっていた。
 商店街は人通りも多く、16時半をまわると車両通行止めになる。買い物客がどっと増えて、夕焼け色にそまった道が活気づく。

 「ふざけんじゃないわよ!」

 ランドセルを揺らしながら歩いていた私は、突然の罵声に固まった。
 周囲の買い物客たちも一斉に押し黙って、そうしてゆっくりと視線を声のもとへと向ける。

 「何を言ってんだ! 年甲斐もなく恥ずかしくないのか!」
 「うるさいわね! アンタに男の甲斐性がないせいでしょ!」
 
 鬼のような剣幕で喚きちらしているのは奥様だった。

 「年がどうこう言うんだったらねぇ、アンタなんてとっとと耄碌して死んじまえばいいんだよ! こっちはアンタみたいなつまらない男のせいで一生を食いつぶされてんだ!」

 ふざけんな、この! と、奥様は商品である大福を掴んでお爺さんに投げつける。
 お爺さんは避けようともしなかった。
 その顔面に大福が当たって、床をごろごろと転がっていく。
 私は2人の喧嘩よりも、転がっていく大福の方にショックを受けた。
 そこまで大福が好きだったとか、食べたかったからだとか、そういう訳ではないのだ。心を籠めて作ったお菓子が八つ当たりの道具として消費されるのが悲しかった。

 「ここのお団子が1番おいしいの。どうしてかな?」

 いつだったか、お爺さんにそんな風に聞いてみたことがあった。そうすると、お爺さんはふんにゃりと嬉しそうに笑ったのだ。

 「それはねぇ、1つ1つにたっぷり愛情をこめて作っているからだよ。お嬢ちゃんは恋文って知ってるかな? ああ、最近の若い子はラブレターって言うのかな。あれと同じでね、これは私からのラブレターなんだ。お嬢ちゃんに美味しいものを食べて幸せになってほしいって気持ちがた~っぷり籠ってるんだよ」

 お爺さんはそう言って、もう1個お団子をおまけしてくれた。
 そんなお爺さんの作ったお菓子が無惨にも床に転がっている。きっとそれは、ラブレターを目の前で破いて捨てられたような気分だろう。
 後になって知ったことだが、私の感覚はあながち間違ってはいなかった。
 あの喧嘩は奥様が浮気をしたことが原因であったらしいのだ。相手は奥様より1回りも年下で、大分前からお団子屋さんで弟子として働いていた男だそうだ。
 お爺さんは以前から気が付いてはいたものの、ずっと我慢を続けてきた。けれどある日、きっと何かきっかけがあって、少しばかり注意でもしたのだろう。それに奥様が激高した。

 商店街で起こったその騒動は、しばらくの間、ひそひそと囁かれていた。
 しかし、当のお爺さんが店を閉めてしまったこともあり、大っぴらに騒ぐ大人は見なかった。少なからず、皆が奥様の浮気にはきっと気付いていたのだろう。大人たちにしてみれば、起こるべきことは起こったという、それだけの話かもしれない。




 お団子屋さんのシャッターが降りたままになってから、2ヶ月ほどが過ぎたころだった。
 クリスマスもお正月もほとんど何も変わらずに過ぎていった。お団子屋さんで新年の餅つきがなかったり、花びら餅が食べられなかったくらいのことで、結局のところそれは「ちょっと残念」の範疇だった。
 底冷えするような冬の寒さが少しずつ和らぎ、近所の公園では福寿荘が黄色い花を咲かせ始めた。梅の花もほころんで、もうじき一斉に咲こうとする花たちが「まだあともう少し」と息を潜めているような、そんな春を待つ頃合い。
 あの日以来、私は学校帰りにお団子屋さんの道を通ることはなかったというのに、その日はふと、何かに誘われるように商店街の道を選んでいた。
 そうして、ぽんっと何事もなかったように開いている店を見つけて、しばし言葉を失った。
 もう2度と食べられないと思っていた。周囲の大人たちも「あんなことがあったから、再開はないだろう」と話していた。
 ああ、良かった。
 私は素直に喜んだ。
 奥様とお弟子さんは駆け落ちをしてしまったらしいけれど、お爺さんは何とか気力を取り戻すことができたのだろう。もともとお団子作りが生き甲斐なのだと言っていた。だから、奥様がいなくたって、きっと大丈夫なのだろう。

 「こんにちは!」

 私はすぐさま店の中へ踏み込んだ。残念ながら、今はお金を持っていなかったけれど、挨拶だけでもしておきたい。そんな風に思ったのだ。
 けれど、1歩踏み込んだ瞬間に、その異変に気が付いた。

 ――何かが臭う。

 饐えたような何かの臭い。
 ふっと店内を見回せば、縁起物の熊手はたった数か月とは思えないほど真っ白に蜘蛛の巣がはっており、縁台は一目で分かるほどはっきりと埃を被っている。
 何よりも異様だったのは、ショーケースに並んだお団子だった。
 それはまるで、幼稚園児が砂場で作った団子のように、不格好で不揃いだったのだ。大きさもまちまちだったし、餡子がはみ出しているものもある。

 「ああ、いらっしゃい! 久しぶりだねぇ!」

 ひゅっと、私は大きく息を飲みこんだ。
 お爺さんはまるで別人だったのだ。
 目はやけに水分が多く、まるで爬虫類を思わせる。頬の肉もぱんぱんとはち切れんばかりで、雪国の小学生のようにつややかな赤みを帯びていた。
 何よりも異様なのは口角がつり上がった笑顔のまま、まるっきり表情が動いていないことだった。
 瞬きすらしていないのではなかろうか。

 ――これは、何だ?

 分からなかった。よくよく見れば、そこにあのお爺さんの面影はあるけれど、なにかが根本的に違うのだ。
 病気だろうか。いや、むしろ、お爺さんはすこぶる健康そうだった。だがそれは、どうにもおかしいのだ。まるで何かに取り憑かれたような。何か恐ろしい執念が、無理やりに体を生かしているような異様さだ。

 生成。

 ふいにその言葉が湧き上がった。
 あれはいつだったか、学校行事で能楽堂に行ったときのことだった。ロビーには様々な能面が飾られていた。その中で妙に目に焼き付いたのが「生成」の面だった。
 般若に属する女面の中でも、まだ鬼になり切れていないモノの面。
 すべての情が削ぎ落とされ、般若となった女の面も恐ろしい。だが、人間のねっとりと柔らかな皮をのこした「生成」の面の方が生理的な怖じ気がこみあげた。

 「お団子食べにきてくれたのかい!? 嬉しいねぇ!」

 お爺さんはニコニコと満面の笑みだった。
 私は必死に頭を回転させて、逃げる方法を考える。本当は、回れ右して走って逃げ出してしまいたかった。でも、そんな風に逃げ出したら、お爺さんは追いかけてくるのではなかろうか。だって、恐ろしい獣は、背を向けて逃げれば追いかけるものだと聞いている。
 悟られては駄目。何事もなかったようにしなくては。

 「うん、お店が開いていたから見に来たの。でも今日はお財布がないから、また今度買いに来るね」
 「いいんだよ!」

 先ほどから、お爺さんはやけに声が大きかった。音量を調整することを忘れてしまったかのようだった。ほとんど言葉を遮るように大声を被せられて、私はぎゅっと身をすくめる。

 「お嬢ちゃんは大事なお客さんだからね! ほら、座って! 食べていきなさい!!」

 座る、って。
 私は恐る恐る縁台を見る。埃をかぶって、うっすら白くなっているのがはた目からでも分かるのだ。

 「だ、だいじょうぶ。今日はちょっと、急いでて。このあと塾が……」
 「いいんだよ! お勉強なんて、お勉強なんてねぇ!」

 お爺さんは懐紙にきなこのお団子を乗せると、はいっと笑顔で差し出してくる。私は気おされたまま受け取った。
 食べなくちゃ。
 無理やりに笑顔を作りながら、串を持ってお団子にそっと歯を立てる。
 それはねちょと歯に絡みつき、かと思えば粉が固まったまま零れだす。隠し味の塩も大きな粒のまま固まっていたし、きなこには砂糖が入っていなかった。
 ああ、駄目なんだ。本当に、本当に駄目なんだ。
 お爺さんはニコニコ笑っている。けれどその目は血走っていて、やはりどう見ても異常だった。何よりも、このお団子がお爺さんが壊れてしまったことを如実に表しているだろう。

 「美味しいだろう? アイツもなぁ、美味い上美味いってそりゃあ喜んで食べてくれたんだよ!」

  もぐ、もぐ、と必死にお団子を咀嚼しながら、お爺さんの話に頷いた。アイツというのはきっと奥様のことだろう。早く食べなくちゃ。早く食べてここを出よう。その一心でひたすら口を動かした。

 「確かにねぇ、アイツの言う通り、私は甲斐性なしだった! 勉強もろくにできないから、金勘定だって下手くそだった! 仕入れで騙されたこともあるし、そりゃあ、馬鹿みたいなことはいっぱいあった! けどねぇ、若いころのアイツは、それでも美味い美味いって、私のお団子を嬉しそうに食べてくれたんだ! いいんだよ、アンタはそれでいいんだ! こんなに美味しいお団子があれば私は幸せなんだから! そう言って嬉しそうにしていたんだ!」

 こわい、こわい、こわい。
 お爺さんは目を爛々と輝かせ、頬は燃え上がりそうなほど紅潮させ、満面の笑みのまま語っている。

 「だからねぇ、私は幸せだった! 幸せだった! 幸せだったんだよ!!! アイツが美味しいって笑ってくれれば、それだけで良かったんだ! 子供が出来ないって聞いたときも別に構いやしなかった! 2人で幸せに暮らしていければ良かったんだよ! アイツの顔に皺が増えたって私はちっとも気にしなかった! 一緒に歳を重ねていくのが嬉しくて仕方なかったんだ! アイツの皺の1本1本まで愛していた!! なのに、! 何で! なんで! なんで!!!」
 「ご、! ……ごちそうさまです!!!!!」

 私は勢いよくお辞儀をして、お爺さんの言葉を遮った。

 「あ、ありがとうございました。とっても美味しかっ、……」

 ヒっと思わず息を飲んだ。
 顔をあげて改めて見たお爺さんの顔は、ごっそりと表情が抜け落ちていた。
 虚ろな目。なんの感情もない顔だ。
 その目尻がピクリと動き、唇が糸で引っ張られたかのごとくに笑顔の面につり上がる。

 「そうかい!!!! そりゃあ、良かった!!!!!」

 もう駄目だ。もう耐えられない。
 私はもう1度頭を下げると踵を返して逃げ出した。
 走って、走って、あまりにも必死に走ったものだから、肺が痛くなるほどだった。家の中に逃げ込めば、すぐさま鍵をかけて玄関にずるずるとしゃがみこむ。
 少しずつ呼吸と心音が落ち着けば、改めて恐怖と、そして悲しさが溢れ出した。
 人は壊れてしまうのだ。あんなにずっと穏やかに生きてきた人ですら、狂ってしまうことがある。その悲しさと恐ろしさとを、私は初めて知ったのだ。




 それからほどなくして、お団子屋さんは再びシャッターが降りて、そしてそのまま少しずつ忘れられていった。私は大分長い間、お団子屋さんの前を通ることすらためらっていたけれど、中学生になった頃に目の前を通ったときに、そこは時間貸しの駐車場になっていた。
 ぽんっと抜けた空間。
 私は思わず足を止めた。見慣れた風景であった筈なのに、なくなってみると記憶からも消えてしまうかのような、奇妙な感覚。しばらくして、私はそこが件のお団子屋さんだったのだと思い出した。
 ああ、本当になくなってしまったんだ。
 それは安堵でもあり、悲しさでもあった。もし、あのお爺さんの心が戻っても、あの頃からかなりの高齢だった。だからきっと、何がなくても今の今まで営業していた「もしも」なんてないだろう。
 そうか。なくなっちゃたんだ。
 私は心を痛めながらも、そのことを心のアルバムの1ページにして、過去のことだと追いやった。それで、終わったと思っていた。





 ――けれど、この話には、まだ続きがあるのだ。すっかり途絶えたと思っていた縁は、忘れたころになって、ふいに私の前へ現れた。
 それは、私が社会人になって数年経った秋のことだった。
 社会に出たら家を出よう。そんな風に思っていたが、女の1人暮らしはなかなかに敷居が高かった。1度だけ家を出たものの、慣れないアパート暮らしと会社務めに疲弊して、実家に戻っていたのだった。
 街路樹の銀杏が黄色に染まり、そろそろ厚手のコートが欲しくなる。夕方ともなれば、頬を撫でる風は冷たくなり、手はポケットに入れたままになる。
 商店街を歩いていた私は、ふと異様な気配を感じて立ち止まった。

 「え?」

 そこに、お団子屋があったのだ。
 私は意味が分からずに立ちすくむ。だってそこには。少なくとも1週間ほど前に通ったときには、駐車場があったのだ。それにお団子屋は、長い間、風雨に晒されたかのようなボロ家だった。
 入り口のシャッターは錆びついて斜めに降りており、店内も取り壊し途中かと思うほどに荒れている。

 「ああ、久しぶりだねぇ、お嬢ちゃん」

 店の中から、ひゅうっと隙間風のような声がした。
 その瞬間、私の視線は店内の闇に引き寄せられる。商店街の喧騒が遠ざかり、私と世界との繋がりは、その店だけになっていく。
 私が日常から切り離されて、お団子屋さんと私以外が何もなくなってしまったような感覚だ。
 行きたくない。
 そう思うのに、そこに「行かなければならない」と強く、心が急きたてる。
 嫌よ、行きたくない。そう思うのに、足はゆっくりと歩き出す。

 「いらっしゃぁあい、よく来たねぇえぇえ」

 店の中もボロボロだった。
 外から見たほどに真っ暗ではなかったが、ショーケースは割れ、縁台は足が腐って斜めになり、熊手は床に落ちている。
 お爺さんは、骨と皮だけのミイラのようになっていた。
 何で生きているんだろう。そう思ってしまうほど、眼窩が髑髏の形が分かるほどにげっそりとくぼみ、禿げ上がった頭には僅かばかりの毛髪が無秩序に伸びている。

 「美味しいねぇ、お団子を、作ったからねぇ。お嬢ちゃんにもあげようねぇ」

 震えながら差し出した手にボトリとそのまま大福であろう何かが乗せられる。
 私はちっとも動けなかった。
 動いているのに、動けないのだ。
 私は店の中に入り、手を差し出してお爺さんから大福を受け取った。そして今、それを口に運ぼうとしているが、それは何1つ、私の意思ではなかったのだ。
 体が勝手に動いている。
 私はそれを見ていることしかできないのだ。
 ぐじゅっと大福を食べる。
 ちがう、ちがう、こんなのは大福の感触じゃない。味だって、苦くて、それに、黒豆かと思ったソレは体をのたくらせている芋虫だ。ぽろぽろと手の中から零れるのは、小さな蛆の卵だった。

 「美味しいだろう? ずいぶんとねぇ、ずいぶんと時間がかかったんだ。でもねぇ、ようやくアイツを見つけたんだ。夫婦ってのは不思議でねぇ、殺したいほど憎いなんて思うことがあってもねぇ、それでもやっぱり愛おしい、愛おしいと思うもんだ。だからねぇ、私はアイツをずっと愛することに決めたんだ。アイツの大好きなお団子を作ってねぇ、たっぷり食べさせてやってるんだよぉ」

 んぐ、あぐ、あぎゅううぅ、と店の隅から声がする。
 私はギシギシと錆びついたブリキの人形のように歪な動きで視線を向けた。
 そこにいたのは、大きな白い芋虫に見えた。白く、ぶよぶよして蠢いている肉の塊。だけど私は気付いてしまう。それが肥満しきった人間の体であることに。膨れ上がったその顔に、わずかながら奥様の面影があることに。そしてその、顎が外れそうなほど開かされた口の中には大量のお団子が詰め込まれていることに。

 「なぁ、お嬢ちゃん。愛情っていうのは美しいもんだろう? 私もねぇ、アイツも、これでようやく、誰にも邪魔されずに幸せに暮らすことができるんだ。2人でずうううううぅうっと一緒に、幸せに暮らして行くんだよぉ」

 ひゅるぅ、ひゅるぅとお爺さんの喉から空気が漏れる。
 生きていない、と私は思う。この2人はもう生きてない。体がとっくに死んでいる。それなのに、執念だけでこの世にしがみついている。悲しく、惨たらしく、恐ろしい。

 「でもねぇ、足りないものがあってねぇ。アイツはねぇずうぅっと子供を欲しがってたんだよ。だからねぇ、お嬢ちゃんがいてくれれば、きっと喜ぶと思うんだぁ」

 ぷちぷちと咥内で潰れる虫の感覚に、胃酸が込み上げて喉を焼く。
 ゴポっと塊を吐き出した。気持ちが悪い。指を咥内に突っ込んで、喉の奥を刺激して蠢く塊を嘔吐する。
 ごめんなさい。吐き出しちゃってごめんなさい。でも駄目なの。これは私には食べられない。
 吐き出したそれは、床に広がって蠢いている。かつて恋文だったもの。それは今や悍ましい何かになってしまった。

 「ごめん、なさい、ふたりで、し、……しあ、わせに、くらして、くだ、さい」

 私はようやく、何とか口を動かした。

 「わた、し、を……帰して、くだ、さい」

 ほんのちょっと。まだ少しでも。お爺さんに人の部分があるならば。
 私は涙目で訴えた。また胃液が込み上げて、びしゃびしゃと足元に残る欠片を吐き出した。

 「……――そうかい……」

 お爺さんの声は静かだった。

 「残念だなぁ。残念だ、残念だなぁ」

 お爺さんはくるりと背を向けると、奥様に向かって歩いていく。その手にはお団子がたくさん握られている。
 私はようやく自分の意思でもって足を動かした。
 その瞬間、お腹が焼けただれるように痛くなる。腹の中にわずかに残ったお団子が、燃え上がって溶けていくかのようだった。
 お腹を庇って、よろよろと必死に歩いていく。1歩進むたびに全身から汗が噴きだしてくるほどに、痛くて痛くて仕方ない。それでも私は、這う這うの体でお団子屋さんから逃げ出した。





 それからのことはほとんど覚えていなかった。
 私は道端で倒れているところを発見され、救急車で病院に運ばれたらしい。原因不明の高熱で1週間も生死の境を彷徨っていたのだと聞いている。
 最悪の場合も覚悟してください、とそんな風にも言われていたそうだ。
 結局、私は助かった。
 あの日の出来事がいったい何であったのかは分からない。
 お爺さんと奥様が、どうなったのかも分からない。風の噂で聞く限りでは、お爺さんは店を畳んだあとにはひどく耄碌して老人ホームに入ったそうだ。奥様の方は駆け落ちしたまま行方知れずのままだという。
 でも私は、きっと今も、これから先もずっとずっと、2人で暮らしているのだろうと思っている。
 壊れてしまった歪なままで、ずっとあの場所に囚われて過ごしているのだろう。 


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