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二階にいるもの

 それが始まったのは、祖母の家を片付けに行った後からだった。
 祖母の家は、山間の小さな集落にある。町の中央には川が流れていて、その川を中心として家が連なっている。川はぐねぐねと曲がっていて、幾度も氾濫したことがあるらしい.。それでも川を中心に集落を作るしかないのだろう。治水工事が進んだ今でさえ、時折氾濫するのだというから、昔はもっと被害が大きかったに違いない。
 とはいえ、普段の集落はどこまでも平和そのものだ。どの家も庭がとても広くて、庭の大部分は家庭菜園になっている。出荷するほどの量でないが、家族の食卓を賄うのには足りるくらい。いつでも沢山の野菜が採れるのだ。
 子供の頃は、夏休みになると遊びに行った。
 夜になると虫の声や蛙の鳴き声があまりにも大きくて怖かった。それに、夜の空が黒い。
 都会にいると夜の空は灰色だ。街灯のない通りですら、何も見えないほど暗くはない。けれど、田舎の空は真っ暗だった。
 その真っ暗闇の中を、時折コトコトと音をたてて電車が通っていく。その時だけ光が窓の外を横切っていく。それはとても幻想的な光景だった。
 私にとって祖母の家は、理想的な田舎の風景だった。
 実家ではないのに、あそこに行くたびに「あるべき場所に戻ってきた」って、そんな気持ちになっていた。

 祖父のことはあまりよく覚えていない。
 とにかく、びっくりするくらい無口な人だった。でもいつもにこにこしていたから、怖いと思ったことはなかった。

 ――今、思い出してみると、あの頃から不思議なことがいくつもあった。

 例えば祖父と祖母は仲がいい筈だけれど、別々の部屋で寝ていたこと。
 祖母はずっと二階の部屋で眠っていた。
 祖母の家は昔からお蚕様をやっていたと聞いている。白くてムチムチした芋虫。まるで赤ん坊の指みたいな虫を育てる。家の二階が虫だらけなんて考えるだけでぞっとする。
 芋虫が繭を作ると大きな釜でぐつぐつ煮込んで、よく乾かして糸をとる。あの一帯の家は稲作とお蚕様の両方で生活をまかなっていた。
 だから、一階は居住区だけれども、二階は仕切りがいっさいないがらんと広い大きな空間だった。昔はそこに沢山、お蚕様をいれた箱が並んでいたのだと思う。
 けれど昭和の終わりにはお蚕様を育てる農家はなくなった。そうなると、だだっ広い二階の空間はだいたいが倉庫になる。あの町にある多くの家がそうだった。二階は雑多なものが詰め込まれて、裸電球が数か所にあるだけだから昼間でも薄暗い。
 私はあの空間が怖かった。
 そこには飾らなくなった五月人形や、ぼろぼろになった子供用の木馬。そういうものが古市のように並んでいる。あそこはまるで死人の玩具箱みたいだった。たくさんの人形、たくさんの玩具。そんなものばかりが集められていた。
 私は玩具が苦手だった。
 とくに、誰かが遊んだあとの古ぼけた玩具。
 公園に忘れ去られた玩具はわけもなくゾっとするし、人形供養で集められた人形は見つめ返しているみたいで怖くなる。
 祖母はなぜか、そんな風に玩具だらけの二階に布団を敷いて眠っていた。
 不思議だった。
 あそこは冷房も暖房もなかったから、冬は凍えるように寒かったし、夏は田舎町とはいえ蒸し暑い。それでも祖母は夜になると二階の部屋で過ごしていた。
 子供の頃はそれを何とも思わなかった。
 子供の頃は大人っていうものが、完全に理性的な判断でもって効率的に生きているって思っていた。なにごとにもちゃんとした理由があるのだと思っていた。
 だから、祖母の行動も奇行だとは思わなかった。私には分からないけど理由があるのだろうと思っていた。

 不思議なことはほかにもあった。
 祖母の家に泊まりに行く時は兄妹と、それに従妹も一緒だった。夏休みになると合宿みたいにみんなで祖母の家に泊まりに行く。両親たちも夏休みが欲しかったのだろう。子供のころの私たちはまるで台風みたいだったから、数日でも静かな時間が欲しかったに違いない。
 実際、私たちは夏休みを満喫していたから、そのことに文句はなかったのだ。田んぼのあぜ道を歩いたり、川遊びをしたり、家の裏手にある神社でかくれんぼをしたり、夢に描いたような理想の夏休みを満喫した。
 そして夜になると、私たちは十畳くらいある部屋に適当に布団を敷いて眠っていた。
 寝た場所と起きた場所が違うなんて当たり前のことだった。
 寝相が悪かったり、誰かの悪戯で動かされたり。
 そう。
 悪戯だって思っていた。
 寝ている場所が変わっていたり、耳元で誰かが囁くのは、みんな悪戯だって思っていた。
 私が祖母の家に行きたがらなくなったのは、中学生になって地元の友達が増えていたり、部活動をはじめたせいもあった。
 でも、それだけじゃない。
 私はずっと違和感を覚えていた。
 真夜中にふいに足首を掴んで引きずられること。
 耳元でひそひそと誰かが囁くこと。
 そう、それにこんな事もあった。
 みんなで居間に集まって金曜ロードショーを見ている時だった。それは少し古い映画で、私は何度か見たことがあったから退屈していたのだ。
 だから、ふっと振り返った。
 居間は玄関前の廊下と面していて、すりガラスがはめ込まれた引き戸だった。
 そこに、顔があった。
 すりガラスに額がつきそうなほど近づいて、じっと中を覗き込もうとする子供の顔。
 私は慌ててテレビに向き直った。兄妹たちの悪戯だと思おうとした。でも、確かにあの時には、部屋の中に全員がいたのだ。
 すりガラスの向こう側の人影を見たのはその時だけではなかった。
 それは大抵、玄関前の廊下を通り過ぎていくだけだ。廊下の突き当りは階段だ。二階へのぼる階段。アレは二階へと登っていったのだろうか。そこには何もない筈だけれども。
 一度だけ祖母に聞いたことがある。

 「この家には座敷童がいるような気がする」

 それを聞いた祖母は、少し驚いた顔をした。それから祖母は深い、深いため息をついた。

 「私で最後だと思っていたのだけどね」

 なんとも奇妙な返答だった。
 それに、その時の祖母の顔。表情がすとんと抜けた虚ろな顔。あれはまるで、褪せたお面のようだった。
 そんなこともあって、私は祖母の家に寄り付かなくなった。
 それで、逃げられると思っていたから。


 祖母の家の片付けに呼ばれたのは、それから10年以上経った後のことだった。
 その頃には、あの奇妙な思い出は幼さから来る過剰な想像力によるものだと思うようになっていた。

「おばあちゃん、施設に預けることにしたの」

 電話越しに聞いた従妹の声は、当たり前だけれども随分と大人びたものにかわっていた。
 祖父は、大分前に亡くなった。ちょうど受験シーズンであったから葬式には顔を出せなかった。
 しばらくあの大きな家では祖母一人で暮らしていたが、数年前から従妹夫婦が一緒に暮らすようになったそうだ。

「階段から落っこちちゃって。もう歳だから、危ないって何度も言ったのにどうしても二階に行きたがるの。ちょっと目を離すとベッドから抜け出して階段をのぼろうとするから、もう危なくて見てられないってことになって」

 だから施設に預けることにしたそうだ。
 そういう訳で、あの二階のスペースに大量にたまっている玩具の片付けをすることになり、手伝いが必要とのことだった。いっそ業者を呼んで一括で引き取ってもらえばいいと思ったものの、久しぶりに田舎に戻るのも悪くないように思えた。
 私は、とても無邪気に出かけたのだ。

 私鉄の無人駅は十年経った今でも、驚くほど何も変わらなかった。
 車内から一歩出れば眩しい初夏の日差しと、それに鼓膜が割れそうなほどの蝉の鳴き声に晒される。強い日差しは、影を地面に焼き付けるばかりの勢いだったが、都会に比べれば随分と湿度が少ないのが救いだった。
 駅舎はペンキが塗り替えらえたのだろう。それに、Suicaの読み取り機がおざなりに設置されている。駅から出れば、山間の集落はやはりほとんど変わっていなかった。駅のそばにこそウィークリーマンションが幾つか建てられているものの、細い水路脇の道をしばらく進めば、かつての面影そのものの光景が見えてくる。

「いらっしゃい、呼び出してごめんね」

 景色に比べて従妹は随分と様変わりして見えた。あれから十年という事もあるが、すでに子供が二人いるせいか、母親らしい逞しさがにじみ出ている。
 家も概ね思い出のままだった。
 数年前に水回りだけリフォームをしたと聞いている。
 そういえば昔遊びに来たころには、トイレが縁側を歩いた先の屋外にあり、いわゆるぼっとん便所というやつで、臭いはさることながら夜はとても怖かった。
 麦茶を飲みながら他愛ない話をした後には、さっそく二階を見に行った。
 ああ、この匂いだ。
 ふいに記憶が蘇る。他人の家にあるどくとくな甘く饐えた匂い。二階はとくにその匂いが強く漂っている。
 そして、相変わらずの大量の玩具はかつてよりもさらに古ぼけていて異様な迫力を放っていた。

「この機会にいっそ処分しようと思ってね。それでお婆ちゃんに言ったのよ。てっきり反対されるかと思ったけど、あっさり頷いてくれてね。けど、片付けにはアンタを呼んでほしいって言い出したんだ。だからわざわざ来て貰っちゃって、ごめんね」
「私を?」
「そうそう。アンタはよく二階に来てここの人形で遊んでいたから捨てる前に欲しいものがあったら持って帰らせてやって、って言われてね」

 覚えがなかった。
 二階は恐ろしかったからほとんど近づかないでいたのだ。それに、お人形遊びにはあまり興味のない子供だった。

「私、お人形遊びなんてしてないよ?」
「うそ! 私も何度も見たわよ? 真っ暗な部屋のすみっこに一人で人形持って遊んでいてさ。正直言ってあれはちょっと不気味だったわ」

 相変わらずずけずけとものを言う。そういえば私は、従妹のこういう所が苦手だった。懐かしい思い出話の花が枯れれば、いやな記憶も沸いてくる。
 その後はあまり会話がはずむこともなく段ボールに黙々と玩具をつめこんだ。人形を無造作に段ボールへ詰めるのは、なんともなしに罪悪感がわきあがる。かと言って、一つ一つ丁寧に新聞紙で包むにはあまりにも量が多かった。
 それに、中には錆びたブリキの人形や、正体不明のマスコット、グリーンアーミーまで混ざっている。やけに古い市松人形や達磨などもあるというのに、あまりにも種類も年代も雑多だった。
 それでも黙々と詰めていれば、随分と空間は広くなる。

「子供たちはお人形で遊ばないの?」
「怖がって上がってこないわ。変な話だけどね、たまに走り回るような音がするの」
「え?」

 驚いて問いかけると、従妹は困った顔をしてみせた。

「おばあちゃんがあんなに元気に走り回る訳がないから、気味が悪くってね。それで、その筋の人からお札を貰って貼ってみたのに、おばあちゃんったら次の日には全部はがしちゃったのよ。押し入れの天井に貼ったやつまではがしちゃうんだもの。びっくりしたわ」

 ぞくっと背筋に寒気が走る。
 押し入れの天井に貼ったお札を、高齢の祖母がはがすことなどできるだろうか。
 やはりここには来るべきではなかったのかもしれない。子供の頃に感じたあの危機感はきっと間違っていなかったのだ。
 本当は一晩とまっていく予定だったが、仕事を理由に慌てて帰ることにした。
 せめてお茶でも飲んでからと言われたが、丁寧にお礼を言って切り上げた。家を出ると、外は夕やけ色の真っ赤に染まり、血の海に立っているようだった。
 わき目もふらずに駅へと急ぐ。
 まるで誰かに追いかけられているように、一歩進むごとにもっと早くと心が騒ぐ。幸いにも通勤通学の時間帯であったから、電車は思ったよりも早くやってきた。
 振り返えることなく電車に飛び乗り、そこでようやく顔をあげる。
 なにもない。
 そこには懐かしい無人駅があるだけだ。
 あの得たいの知れない不安感から逃げ切れた。ずるずるとその場にしゃがみこむ私を、そばにいた学生が心配そうに見つめている。それでも構いはしなかった。逃げ切れた。その安堵感で胸がいっぱいだったのだ。
 
 これで話は終わり。
 だったらどんなに良かっただろう。

 結局のところ、私は逃げきれていなかった。あるいは、それは、もっとずっと前にさだめられていたのかも知れない。

 真夜中にふいに目が覚めるあの瞬間。
 急速に意識が浮上する。なぜ、目が覚めたのだか分からない。
 私は真っ暗な闇の中で目を覚ます。
 そこはいつものベッドの上だ。けれど心音は早鐘を打っていて、言い知れぬ恐怖がべったりと背中を這い上がる。
 なぜだろう。なぜこんなに自分は怯えているのだろう。
 何もなかった。今までこの部屋でなにか怪異に出会ってしまったことはない。事故物件でもなかったし、幽霊の類いを見てしまったこともない。
 なのになぜか、今夜だけは「違う」のだと分かってしまう。

 かたく、かたく目を閉じた。壁掛け時計がカチカチと時を刻む音が、やけに大きく響いている。
 クーラーをつけて眠ったから、薄手の羽毛布団をかけていた。それを頭まで引っ張り上げて、息を殺して恐怖よ立ち去れとただ祈る。
 ふいに布団を足元から勢いよく引っ張られる。
 やめて、と心の中で絶叫した。
 やめて、ここは私に残された聖域なの。どんなに怖いホラー映画を見た時だって、布団に潜ってうずくまっていれば、そこは安全圏だった。
 なのに。

 またグンっと布団が引っ張られる。先ほどよりもより強い力で、誰かが布団を引きはがそうとしているのだ。

 やめて! やめて! やめて!

 けれど布団は、強い力でもって引きはがされ、ベッドの足元へと吸い込まれるように落ちていく。
 私はまるで素っ裸にされたようだった。
 何もない。私を守ってくれるものは何もなくなってしまったのだ。
 起き上がって膝を抱えてうずくまる。

 この部屋はこんなにも暗かっただろうか。
 真っ暗だ。
 いつもならばカーテンの隙間からもれる街灯だけでも室内はほのかに明るい筈だった。だが、暗い。黒い僅かな濃淡で見える部屋の様子は、得たいの知れない怪物の腹のなかにいるようだ。
 いや、実際に、部屋は蠢いているようだった。
 カサカサ、カサカサ、カサカサと。
 より闇の深いソファの影が、カレンダーがはられた壁が、すべてがかさかさと動いて見える。

「あ そ、ぼ」

 小さな白い指が見えた。
 ベッドの足元にしがみつくように伸びたのは真っ白なむちむちとした子供の指だ。
 声よりも雑音にちかい奇妙な音が言葉をつむぐ。

「あそ ん で あ そ ん、で」

 ああ、と思わず声が漏れた。今になって分かった。あの大量の玩具の意味が。二階をかけまわる足音の意味が。
 
「あそん で、 ア そ ボ」

 次の瞬間、私の足首が勢いよく引っ張られる。シーツに爪をたて、枕にすがりつき、それでも容赦なく引きずられる。ベッドから転げ落ちても、私はずるずると引きずられる。
 そして、ふいに動きがとまった。

「あ あ゛あああ゛ そ、ぼ」

 顔があった。子供の顔。
 真っ白な肌に真っ白な髪。白目のない、黒目だけの大きな瞳。
 子供はひどく楽しそうに、私に笑いかけてきた。


 私は、玩具を集めている。
 あの子が飽きないように。たくさんの玩具を。
 そうでないとあの子は、私を人形のように扱ってくる。だから、玩具を集めるのだ。
 たくさん、たくさん、たくさん。
 いつかこの子が他の家に行く日まで。

 そう言えば、兄に子供が出来たと言っていた。その子が無事に産まれたら、この家に招待してあげよう。
 これは受け継ぐべきものだから。
 これは我が家の遺産だから。

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