理想
上記で引用した語義によると、「理想が高い」とか「〜が理想的」とかいうように「理想」という言葉を発した時、それはその言葉を発した人が考え得る最高のものということになる。
語義自体は「理想」がそれを掲げる人にとって分相応なのかどうかはあまり関係ないようで、その人が持ち得る能力などや周囲の支援などにより、その理想に辿り着けるかどうかはその時々ということになるだろう。
もちろん、「世界平和」みたいな一個人にはどうしようもないようなレベルのものも「理想」たりえるものではあるのだが、実際問題、個人の力では「世界平和」には辿り着けるモノではないだろうし、私個人の感覚では「世界平和」は実現不可能なシロモノだと感じている。(私だってそれを願ってやまないが)
また、「理想」の対義語が「現実」なのであれば、「理想」は永遠に「理想」のままなのではないだろうか?ある時の「理想」が「現実」のものとなったとき、それはもう「理想」ではなくなるのだから。
そして、その「理想」は“考えうるかぎり最もすばらしい状態”なわけで、残念ながら“考えの及ばない範囲”に「理想」は生み出せない。
さらに言えば、その「理想」を叶えるためにも、そこには“思考できて行動に移せる範囲”のことしかできないという「現実」がある。
地球上では物理法則は無視できないし、社会を構成する一人として法律や社会規範みたいなモノも無視することは難しい。
そういったことを考えると、最初から「理想」とは決して叶わないものとして考えた方がいいのではないだろうか。
最近、読み終えた『チ。-地球の運動について-』のように、天動説が当たり前の世の中で、知的好奇心によって突き動かされた人達が地動説を証明するために苦心するような、今ある常識を覆すことは私にはきっと出来ないだろう。
これは自分でも何故だかわからないが、どうも私は私自身を矮小化しようとしていると感じる。何かの裏返しなのかもしれないし、純粋にそうしたいのかもよくわからない。
でも、実際に矮小化したいという想い自体は本物だと思っている。
「自信を矮小化したい人間が何故こうして発信をしているのか」という当然とも言える問いについては、仮に私の発信が広まっていった先に、私自身の矮小化が「現実」のものになるかもしれないという淡い期待があるからなのだろう。
私はおそらく、仮に何かの拍子にnoteなりその他媒体なりで私の発信が広まり、そこにある結果が私の人格がほとんど無視されて文章だけが一人歩きした状態になることを望んでいる。
そもそも、こうしてnoteという場所を借りて文章を発信していることも、「私のことを理解してほしい」という想いが介在しているのは間違いないだろうし、逆に「これは本当に私自身の言葉なのか?」という気持ちだって捨てきれない。
こんなことを書いていても、私自身が半信半疑だし、読者の方からすれば、私以上にもっと理解不能かもしれない。
そうした自己矛盾を抱えながらも、それでも、こうして文章を発信し続けることで「私のことを理解してほしい」という想いこそが、私の決して叶うことのない「理想」なのかもしれない。
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