思考
思考した結果は感情ができるだけ乗っていないものであるべきだと考えている。
喜怒哀楽などの感情が混じった思考は、感情に引っ張られてしまい結果がブレてしまいかねないと思っている。もちろん、思考する過程に感情があること自体はロボットではないので難しい。だが、思考によって導き出した最終的な結論は、感情をできるだけ排除したものであることが望ましい。
例えば、思考する過程で「なぜこの思考を行なっているのか」を自問してみる。
それは怒りから芽生えたものであったり哀しみから芽生えたものであったりするのではないだろうか。だいたいの思考において、喜怒哀楽で言えば、怒と哀が思考の原点であることが多いと感じている。
冒頭で引用した語義②でも『意志・感覚・感情・直観などと区別される人間の知的作用の総称』とあるので、哲学的な観点では感情と思考は区別されるものであるとされている上に、意志や感覚、直観までも区別の対象となっていて、それらを思考の過程で省いて結論を出すことができているかと問われると、なかなか難しい。
これは人によるだろうが、私の場合は最終的な結論は直感から導き出されることが多いような気がしているので、それすらもNGということになるか。(これを「私がINFJたる所以かもしれない」というのは自称INFJという認識からのバイアスがかかった結論といえるかも)
まぁ、「意志・感覚・感情・直観・思考」という並びで見ると、やはりユングのタイプ論をイメージをしてしまうが、この語義もそれに倣っているのかもしれないなと感じた。
感覚(S)と直観(N)、思考(T)と感情(F)、それでいくと意志は何にあたるのだろうか。
というか、私個人が哲学と心理学の違いがイマイチ把握できていないのも実感する。
閑話休題。
引用元に用例としてあがっているように、「余は思考す,故に余は存在す」というのが、結局のところ、感覚として一番近いのかもしれない。
夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で「猫」が人間(ここではデカルト)に対して、幼い子でも分かるようなことを十何年もかかって真理を考え出した、と揶揄というか皮肉を言っている。現代では(特に日本では)、この『吾輩は猫である』しかり「我思う、故に我あり」という言葉自体が割と一般的教養と言ってもいい言葉であるが、その原点であるデカルトのコギトエルゴスム〖cogito,ergo sum〗まで辿るかというとそうでもないような気がする。(私もこの記事を書くにあたってそこまで辿りついたように)
結局、私が考える「思考」というものについても、先人が考え残した答えからは大きく外れることもないというのが結論なわけで、「思考」することで自分自身の存在を実感するというのも間違いないだろう。特に"自分自身について"を「思考」するときに最もそれを感じるし、それはINFJで言うところの代替機能であるTi(内向的思考)を使うことにあたるのだろう。
つまりは、私にとって”「思考」とは、最終的に何かを理解すること”だと感じる。
それは、デカルトがコルトエルゴスムと真理に至ったように。
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