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『部品メーカー残酷物語』第十一話 ©99right

第十一話「セールス実習 その1『セールスレジェンド達』」

 〇〇自動車の新入社員にとって決して逃れられない実習がいくつかあるが、その一つが「セールス実習」だ。
 セールス実習とは、〇〇自動車が自社の販売店の各営業所に数名づつの新入社員を送り込んで、三ヶ月間プロのセールスマンに混じって自動車の販売業務を学ばせることである。
 ここでポイントは、否応に関わらずほぼ全てのセールス実習生が、配属される〇〇自動車の販売店において車を購入させられることである。
 先に新入社員の初任給について書いたが、とてもじゃないが新車を購入出来るような額を貰えているわけではないので、結局は全新入社員が入社後間もなく新車購入のローンを無理矢理組まされる。それは彼らに取って重い足枷に他ならない。

 当時、〇〇グループの中でもセールス実習を行なっていたのは〇〇自動車と当社だけだった。当社も他〇〇グループの企業と同様にセールス実習を行わないと言う選択肢もあったと思うが、土門社長の方針で私たちの時代もセールス実習に参加することになっていた。

 まず、セールス実習の前に〇〇自動車のセールス研修センターに集められ、先輩セールスマン達の講演を聞く。
 この研修センターは、販売店の社員のために作られているらしく、建物の内部には大量の自動車を販売して表彰され殿堂入りした先輩セールスマン達の顔写真があちこちに飾られている。そしてこの研修所では、そのレジェンド達が我々にセールスのノウハウやセールスマンとしてのあるべき姿を語ってくれるのである。

 今現在、どんな研修をしているのか私は知らない。しかしそれは現在の自動車販売の状況に合わせて行われているのだろう。
 であるならば先に当時の自動車業界、主に販売店の状況を振り返って見た方が良いだろう。

 当時のバブル景気もあって自動車業界も大盛況だった。自動車メーカー各社は、ファミリーカーだけでなく高級車やスポーツカーをこぞって企画製造販売した。今では一般的なカテゴリーになったミニバンは言葉すらまだ無く、代わりにワンボックスと言うカテゴリーがあった。
 装備で必ず話題になったのは、オートエアコン、デジタルメーター、パワーステアリング、パワーウィンドウ、ターボにスーパーチャージャー、サンルーフやムーンルーフ、本革シートだった。今ではこれらの多くが軽自動車でも常識的な装備だが当時は高級車や高級グレードにおける定番装備で、中低級グレードではそれぞれが数万円から数十万円もする個別のオプションだった。また今では絶滅しそうになっているが、当時はマニュアルシフト(MT)も健在だった。
 自動車メーカー間の競争は激しく、大手各社は現在同様複数の系列販売チャンネルを持ち、新たにブランドを立ち上げた中堅メーカーまであった。各社が多車種展開をした上、さらに何種類もの特別仕様車や限定車を販売していた。正直自分には全く実感が無いのだが、客観的に見て自動車自体よく売れた。中でも最も売れたのは最上位グレード、つまり一番価格の高い車が売れに売れまくっていた。
 顧客の車種選定において、最も大きな判断材料の一つは「値引き」だ。現代を生きる読者諸君には驚きだと思うが、当時20万円・30万円の値引きはごく当たり前だった。自動車雑誌には、どのメーカーのどの車種でどれだけ値引きを引き出したかの証拠に、サイン捺印された契約書の写真が載せられていたりもした。顧客はそんな雑誌を参考にしながら、各メーカーの似た車種を選定し見積もりを取る。そして多くの顧客が値引き後の最終支払い金額で購入する自動車を決定していた。もちろんお気に入りのメーカーや自動車自体のデザインや性能を含めた魅力も大事だが、残念ながら値引き金額の破壊力は強烈だったと強く記憶している。
 当時の営業マンには個別に値引き金額の枠が与えられていて、自分の裁量でどこまで値引きするかを判断できる。もちろんその範囲内で契約書に顧客のサイン捺印をもらうことが出来れば最良ではあるが、もし顧客を落とせなかった場合はすぐに営業所に電話をし、部長の決済で値引きの上乗せをもらう。
 もちろん交渉次第で上乗せの金額は変わる。その時点でのセールスマン個人の成績にもよるし、月末締め、期末締めなどタイミングにもよる。後に語ることになるが、一番影響が大きいのは営業部長のパーソナリティだったと私は思う。

 さてセールス研修センターでの、レジェンド達の講演の話をしよう。
 彼らはセールスでも天才だったらしいが、トークでも天才だった。全員が一流のセールスマンであり、一流の語り部だった。
 自動車販売での自分の経験を一片の奢りもなく語る彼ら。セールスマン生活の中には、苦しさや悔しさもあったろう。でもそれを一切感じさせずに冗談さえ交え、聴いている私達を魅了するそのトークのレベルの高さと言うか、もうそれは熟練した語りの技術にさえ思えた。まるでベテランの浪曲師や落語家の様に、私には聴こえた。
 残念ながら、内容はやっぱりあまり覚えていない。
 ただ一様に彼らが語った内容の中で一番心に残った言葉は「車を売るのではなく、まず自分を売れ!」である。

 この言葉がある意味当時の日本をよく表している様にも思える。当時、競合の自動車達の仕様や性能、さらにデザインまでもが大きな差は無かった。だからこそ「値引き」が大きな決め手だったし、それを売りに来るセールスマンの愛想の良さや語り口調などのパーソナリティこそが販売の成否を決定付ける大事な要素の一つだった。

 講師は講演の最後に研修生の中から数人の名前を呼び、これからのセールス実習に関して不安に思うことや、疑問に思うことを尋ねた。
 なぜかこの時も私は講師から指名を受けた。

 私は正直セールスなんてやりたくはなかった。そんなことをやるためにこの会社に入ったのではない。あくまで私はデザイナーとしてデザインの仕事をするために入社したのだ。
 セールス実習は無難に行なって三ヶ月が早く過ぎてくれればそれで良い。不安なんて特に無い。あるとしたら、本社の寮からなるべく近い営業所に配属してもらいたい……。

 気付いたら私の口から本音が漏れていた。どこから頭の中で考えて、どこから喋ってしまったのかよく分からない。自分の口の悪さはある程度自覚していたので、なるべく人前で喋らない様に気を付けていたつもりだったが、緊張するとどうにも体が思う様に動かない時がある。

 さて私の話を聞いて講師がどう思ったかは後日分かることになる。

 数日後、別の研修が終わり翌日からセールス実習の開始と言う日、全員解散の直前にマッチョ係長が各自の配属先を発表した。この時私の所属先は一番最後に発表された。
 その内容は、どう見てもおかしかった。悪意だとは思わないが公平だとも思えない。
 なぜなら、私以外の寮生全員の配属先が寮のある本社工場からさほど遠くない〇〇自動車の販売営業所だったにもかかわらず、私の配属先は30キロ以上も離れた販売店の営業所だった。もちろん私以外の全員が徒歩で通える範囲だが、私は早起きをして電車を乗り継ぎ、さらにバスで行かなくてならなかった。

 私は鈍感なので、すぐには気が付かなかった。しかし後からよく考えれば、セールス研修センターでの私の軽口が講師の癇に触ったのが原因らしかった。

(続く)

 

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