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『部品メーカー残酷物語』第十三話 99right

第十三話「セールス実習 その3『まずは喫茶店でお茶!』」

 後堂さんは振り向きもせずに、その大きな体からは想像も出来ないほどの早足でオフィスを後にした。私は自分のカバンを持って後堂さんの後を追おうとしたが、後堂さんは手を振って制止した。
「カバン……いらない」
「あーっ……はい」
 駐車場に入って白いセダンのところまで行くと、後堂さんは私に助手席に座るように促した。
「えっと……後堂……さん」
「うん?」
「これから……どちらへ?」
「いいから、いいから」

 5分も走らないうちに後堂さんが運転するセダンは、近所の喫茶店の駐車場に入って行った。
 明るい店内に入ると後堂さんも店の店主も慣れている様子で軽い口調で天気の話をし「彼女、新人なのでヨロシク〜」と私を紹介してから、私達は空いているテーブル席に座った。
 これからどんな話をしていただけるのだろうかと身構える私をよそに、後堂さんはホットコーヒーを二つ注文してタバコに火を点けてから漫画を読み始めた。最初、私は何が起きているのか分からなかった。仕事時間中に喫茶店で漫画を読むなんて信じられなかったのだ。
 しばらくして運ばれて来たのは溶けたバターの美味しそうな香りをしたトーストに茹で卵、ピーナッツを乗せた小皿とミニサラダ。そしてホットコーヒーだった。いわゆる「モーニングセット」と言うやつで、この地方特有の文化(?)で、店にもよるがこの時間帯は特に何も言わなくてもホットコーヒーにいろいろとお得なモノが付いてくる。
 後堂さんは漫画を読みながらムシャムシャとトーストを頬張り、コーヒーを口に運ぶ。けれど私はセールス実習初日とあって、緊張でどうすれば良いか分からない。
「遠慮せずに食べなよ」
「あ……はい。ではいただきます」
 私は、こう言う曖昧な状況が嫌いだ。それに仕事中だと言うのに出勤直後にこうやって喫茶店でコーヒーを飲み漫画を読んでいる、この状況が居た堪れない。
 何の指示も無い。やることも無い。何をすれば良いのかも分からない。例えそれが分かったとしてもカバンを置いてきたので筆記用具すらない。私は不安な気持ちを隠せずに、手持ち無沙汰で指を忙しく動かしながら後堂さんが何か喋ってくれるのを待っていたがその願いは叶わなかった。
 こんな感じでのんびりと1時間ほど過ごしてから、後堂さんは突然立ち上がった。私は慌てて後堂さんの跡を追う。レジで財布から自分の分のお金を出して渡そうとしたが、後堂さんは無言で私の右の掌を押し戻して受け取らなかった。

 次はどこに行くのか不安だったが、セダンに乗り込むと後堂さんはドアポケットから地図を取り出し周辺のページを開いた。
「ここが本社営業所でこの喫茶店がここ。で、この赤で囲ったところが俺らの担当エリア」
「はい!」
 ようやく仕事の話になったと私は嬉しかった。
「研修何ヶ月だっけ?」
「三ヶ月です」
「じゃあ5周くらい出来るね」
「5周?」
「一軒一軒、飛び込み営業を5周だよ」
「えぇ!」
 覚悟はしていたが、この広いエリアをくまなく回って一軒一軒チャイムを押して行く。それを5周もするのだ。
「まあ明日からでいいよ」
「いえ! 今日からやります」
「フハハハ」
 後堂さんは、太い声で笑った。
「いいよ。で買うの?」
「え? (何を……)」
「車、買っていけばいいじゃない。メーカーの子は皆んな買って行くよ」
「……私、免許持って無いんです」
「えぇー」
 後堂さんは目を丸くして驚いた。それもそのはず、自動車関連会社に入社することが決まったなら、誰もが運転免許証を取得して自動車を購入するものだと思うだろう。このセールス実習では自分のために購入する一台も自分の成績に入れることができる。だからこそ全ての実習生が入社前に教習所に通い自動車運転免許証を取得するのだ。
 私も皆と同様にそう思ったが残念ながら私には出来なかった。当時の私にそんな金銭的余裕は無かった。だから自分がこの会社に入って働き、自分で稼いだ金で自動車学校に通い、免許を取るしか方法は無かったのだ。

 この後、私は会う人全員と全く同じ会話をすることになる。

「車、買うの?」
「いえ。私、免許持っていないんです」
「え?」

「何買うの?」
「あぁ 私、免許持って無いんで……」
「何!?」

 その度に相手は呆れた顔をして私を見てくる。心の中では私を馬鹿にしていた人もいただろう。でも仕方がない。私は彼らの冷たい視線に耐えるしかない。

(続く)

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