見出し画像

【裏シトラス】 放課後UNION

※この作品は織田先生を主人公にした『シトラスの暗号』裏バージョンです。先に『シトラス』本編をお読みいただくと、より味わいが増します。

1997年6月、東京近郊の大学附属高校職員室


 俺の名前は織田修司。25歳独身。職業は高校の物理教師。
 大学卒業後、3年勤めた中高一貫のT女学園を3月末に退職して、4月からここS高で常任講師をしている。

 先月、着任後初めての定期考査があった。
 それほど難しくしたつもりはないのに、学年平均点は52という悲しい結果に終わった。
 生徒の物理に対する苦手意識への対策と、平均点の底上げについては期末までの課題にするとして。
 ある女生徒の点数について、学年主任から物言いがついた。
 入学以来、理数系はすべて5で通してきた3年女子トップの彼女が、なぜ55点なのかと。
 答案とクラス名簿を照らし合わせて、ああ、あの子かとすぐに思い出した。
 6組38番、水木清香みずきさやか
 もう1度答案をチェックしてみる。
 採点に不備はない。ないどころか、✕になった設問はどれも白いままで、手を付けた跡すらないのだ。
 しかも◯の中には応用問題が何問かあるというのに、基本問題は手付かずになっている。
 どうやら一筋縄ではいかないようだ。

 授業で答案を返却した今日、放課後職員室に来るよう伝えて事情聴取をすることになった。
 事情聴取? そんな大層なもんじゃない。
 俺の授業に問題があると、カスタマーからクレームをいただくためのリサーチだ。
 何か悩みごとや相談があるなら聞かせてほしいと言った俺に、緊張した面持ちで彼女が言い放ったセリフはこうだった。
「嫌いなんですよね」
「んん?」
「わたし、織田先生が嫌いなんです」
 不意を突かれて返答に窮している隙に、彼女はその場から颯爽と立ち去ってしまった。
 尻を半分浮かせてドアを振り返ったまま固まる俺に、誰かが声をかけた。
「織田せんせー」
 押し殺した声。
 見ると、向いのデスクとの衝立て代わりになっているファイルや参考書の隙間から、国語科の遠山先生が顔を覗かせていた。
「うわあ! なんです?」
「しーっ!」
 唇に人差し指を当てる。
「さっきのって」
「はい」
「告白だと思いますけど」
「はい!?」
「女の子がわざわざ嫌いなんて言うのは、わたしを気にしてって意味ですよ。うふふふふ」
「え、まんじゅう怖いってやつですか?」
「そんなの高校生は知らないんじゃない?」
 そうか。落語ネタは授業で使わないように注意しよう。
 俺は1日の疲れが一気に出た気がして、椅子にドカッと腰掛けた。
「もー、素直じゃないんだから。水木さんかわいいわー」
「かわいいですかねえ。変わった自己アピールだなとは思いましたけど」
 まったく、女子高生ってのは未知の生物だ。
 実在が確認されているってだけで、UMAとたいして変わらないんじゃないかと思う。
 確認済みならIdentified Mysterious Animal?
 アニマルなんて言われたら、きっと激怒するだろうなあ。
 俺が男子校出身のせいもあるかもしれないが、それを差し引いても、若い女の考えることはさっぱりわからない。
 女子校で3年教えて余計わからなくなった。
 わからなすぎて恐ろしい。むしろこっちが教わりたいくらいだ。


 遠山先生はデスクに山積みの資料と参考書と少年ジャンプをかき分けて、ついでに俺の方の参考書も両端に寄せて、無理矢理空間を作った。
「開通〜。国境の長いトンネルを抜けると、二枚目が居た」
 なんだそりゃ。
「川端康成が怒りますよ」
「川端のお父さんは美男子だったそうよ。彼は寄宿舎の自室に父親の1番いい写真を飾ってたんですって。お耽美なのよ。だから怒らないわ」
 オタンビってなんだ? 業界用語か? なんの業界だよ。
「水木と仲いいんですか? 抱きついてましたけど」
「うらやましい?」
「別にそういうわけじゃ」
「わたし美化委員会の顧問やってるじゃない? 水木さん1年からずっと会計やってくれてるのよ。教科担当してなくても委員会で一緒だから、もううちの子って感じ」
「そもそも美化委員会って何やってるんですか? 掃除の後巡回して点数付けてるイメージしかないですけど」
 確か清掃点検とか言うやつ。小学生じゃあるまいし、どうかと思うよ。
「美化委員会の目的はね、ズバリ男子生徒の美化!」
 ビシッと人差し指を立てて見せる。
「男子生徒……」
「目標は校則の改定。男子の坊主頭禁止、長髪推奨。音楽必修、エレキギター推奨。喧嘩上等」
 一條誠か。
「嘘だけどね」
「当たり前です」
 よくこんなのに委員会顧問やらせてるな。楽しそうだから、適任と言えなくもないけど。
「水木のことよく知ってるなら聞きたいんですけど。あの子、ちょっと変わってるとかあります?」
「変わってるって?」
「実は前から気になってたんですが」
「ふんふん」
「授業中僕のことを睨んでるんですよ」
「ふーん?」
「板書が終わって後ろを向いた瞬間とか、たまたま目が合うじゃないですか。そうすると、すごい目付きで睨んでくるんです」
「ほほう」
「最初は目が悪いのかと思ったんですけどね。なんで睨まれたんだろうって気になって、ついまた見ちゃうと、また睨まれる。ああまた睨まれたってドキドキヒヤヒヤするし、余計気になるし。これ繰り返してたら、吊り橋効果で変な気持ちになったらどうしようって」
「あら、相思相愛ってこと?」
「違いますよ」
 聞く相手を間違えた。水木よりこの人の方がよっぽど変わってる人だった。
「発展の余地ありだわ」
「ないです。さっき嫌いって言われたし」
「だからそれは、好きって意味よ! 水木さんねー、賢いわりには直情型で瞬間湯沸かし器なのよね。一直線だし真面目だし、なんでもかんでもひとりで抱え込んじゃって思い詰めるようなとこあるから、心配なのよ。年上で包容力のある男性がそばに居てあげたら安定すると思うの」
「先生、精神分析までできるんですか?」
「まで? 他に何かできたかしら?」
「いや、日本語の他に古文と漢文もできるのに」
「古文は日本語です!」
 憤然と立ち上がる遠山先生。
「〈なに・ぬ・ぬる・ぬれ・ね〉とか、すでに外国語の域ですよ」
「かぐや姫言はく、声高になのたまいそ。屋の上にをる人どもの聞くに、いとまさなし。いますがりつる心ざしどもを思ひも知らで、まかりなむずることの、口惜しう侍りけり。美しい日本語じゃないですか」
「大丈夫ですか? なんか電波受信しました?」
「もー! これだから理系は! でも、二枚目だから許すっ!!」
「え……」
「あっ、でも、1番は一條くんですからっ! 絶対的に一條くんです!」
 デスクの上から漫画キャラの切り抜きが入った写真立てを取り上げ、ねーっと話しかけて胸に抱き締める遠山先生。
 見て見ぬふりをする教員たち。
 俺は何か間違ったカードを引いてしまったようだ。


 遠山先生が静かになったところで、俺は急に現実に引き戻された。
 デスクの上に出しっぱなしになっていた水木清香の成績ファイルに目をやる。
 背表紙に貼られた青いテープは、成績上位者の識別用だ。常に学年10位以内をキープしてきたらしい。
 だが今回はどうだ。俺の物理のせいで、20位にすら食い込んでいない。
 1年1学期からテストの点数を指で追う。
 55より低い点なんて、家庭科でしか取ってないじゃないか。入試に出ない家庭科と同レベルかよ。
 どうしたもんかね。
 期末までこんなことになったら、真面目な話、俺の首が危ないかもしれない。
 暗澹たる気持ちで、上座におわす学年主任服部大先生様をチラ見すると、眼鏡をずらして新書サイズの本を熱心に読んでいる。
 明日の授業の準備かと思ったら、囲碁の指し手の研究だった。
 人が悩んでいる時に、何を呑気な。
 ため息をついたら、目の前にコーヒーのカップが差し出された。
「どうぞ」
 遠山先生だ。
「ありがとうございます」
 ちゃんとブラックだった。しかもインスタントじゃない。
「ドリップコーヒーあるんですね」
「わたしの私物」
 なるほど。コーヒー好き? ピーターラビットのカップでロイヤルミルクティーでも飲んでそうだけど。
「クッキーもありますよ?」
「いえ、僕甘いものは苦手で」
「そうよねー。お顔がこんなに甘いんですものねー。もう十分よねー」
「いや、あの……」
 俺、この人も苦手かもしれない。
「失礼しまーす」と、隣の席から椅子を出して座った。さっき水木が座っていた若井先生の席だ。
「織田先生、東大つながりで仲良くしましょ」
 カップをコツンと合わせてくる。
「え、先生も東大でしたか? 文Ⅲ?」
「ビッグ東大よ。知ってる?」
「……だ、大東大!?」
「正解!」
「お笑い芸人ですか」
「あら、大東大生は自己紹介でまずこう言うのよ。基本中の基本」
 そうなのか。世の中には俺の知らないことがまだまだたくさんあるな。はー。
「で、どうするの、水木さん」
 また現実に戻される俺。
「もう1度ちゃんと話した方がいいと思うんですよね。できればここじゃない所で」
 家庭訪問か? 気が進まないな。
 親御さんの前で、織田先生が嫌いだからなんてぶちまけられたら、どうしたらいいんだ。
「じゃあ、ちょうどいいからデートに誘っちゃえば?」
「は?」
 満面の笑顔だ。なぜそうなる?
「人を犯罪の道に落とすのはやめてください。なんですか、ちょうどいいって」
「だって、デートなら外で会えるしふたりきりでしょ? ゆっくり話せるからちょうどいいじゃない」
 どういう思考回路してるんだろう。
 ちょっと遠心分離機にかけて沈降分離させてみたい。
 比重で沈んだら、やっぱり一條誠が1番下に行くんだろうか。
 水面にはお花が浮いてそうだ。
「デートコース考えてるの?」
「考えてませんよ! 僕を洗脳しようとしてます?」
 もはや怪しい宗教じみてきた。


「水木は授業中よく本読んでるんですか?」
「そんなことないけど。彼女頭いいから授業退屈なんじゃない?」
「そうかもしれませんけど」
「現国ってつまんないもん」
 生徒には聞かせられないな。
「なんで国語教師になったんですか」
「他に教えられるものがないから?」
 なぜ疑問形。
「そう言えば先生、『マディソン郡の橋』ってどんな話でしたっけ」
 水木が授業中に読んでたという本。何年か前にベストセラーになっていたはずだ。
「ゆきずりでセックスした男が一生忘れられなかった主婦の話です」
「それロマンチックですか?」
「男女間のドロドロがまだ現実的でない部類の女性には、ロマンチックでしょう」
「なるほど」
「あれが本当の恋だったなんて正当化しても、しょせん不倫は不倫です」
 身も蓋もないな。
「ロマンチックなんて、表現次第でいくらでも作れますでしょ? それが国語と物理の違いですのよ」
 へー、そんなこと言っちゃうんだ。ちょっとイメージ変わったな。
「遠山先生って」
「はい」
「お花背負った少女マンガの主人公みたいで、いつも夢の国に住んでると思ってましたが、結構辛辣ですね」
「現実世界に生きてない風でいた方が、めんどくさいことに巻き込まれずにすむでしょ」
 いきなり真顔で言った。
「院に居たから、学内の汚い政治やら醜い争いやら、さんざん見てきてるのよ」
 そうか。英語科の今泉先生ばかり有名だが、この人も隠れ院卒だったんだっけ。
 俺が面食らっていると、いつもの花背負ってぱぁぁ.。.:*・'(*°∇°*)'・*:.。.という笑顔に戻って言った。
「それに、現実世界に一條くんは居ないしね」
 うん、やっぱ女は怖い。
 わかってもわからなくても、とにかく女は怖いってことで結論。
「でも、織田先生みたいな二枚目も居るんだから、現実世界も捨てたもんじゃないわよねー」
「僕は長髪にはしませんよ」
「先生って、街でスカウトとかされたことないの?」
「ありますよ。いや、今はオッサンだからさすがにないですけどね。高校時代は何度か」
 かーちゃんがミーハーじゃなくて良かったよ。
 下手したらどっかのアイドル事務所に売り飛ばされてたかもしれない。
 あのクソオヤジは、俺が芸能界入りたいって言い出したらどうしただろう。
「モデル?」
「まあだいたい」
「断ったの?」
「僕は東大の理学部に入ってノーベル物理学賞取るんですって毎回言ってたら、業界内で痛い子認定されたらしいです」
 どうせ「ノーベルくん」とかあだ名付けられてたんだろうな。ムカつく。
「本当に理 Ⅰ 入ったって知ったら、びっくりするんじゃない?」
「ノーベル賞はまだ取ってないですけどね」
「まだ……取るつもりでいるんだ」
 何か問題でも?
「当たり前です。可能性っていうのは0パーセントじゃなければなんでもいいんですから」
「そっか! なら現実世界で一條くんに出会える可能性も、0パーセントじゃないかもしれないわ」
「なぜそういう流れになるんでしょう?」
「わたしが一條くんと結ばれる可能性が0じゃないならー」
 なんか勝手に発展してるな。
「水木さんと先生が両想いになっちゃう可能性も0じゃないのよねー」
 いやいや、勝手に発展させるな。
「まずはデートに誘うことね!」
「遠山先生、それ100パーセント教唆犯です」
「あら、犯罪犯すつもりかしら」
「そそのかさないでもらえます?」
「ちょっと楽しそうよね♪」
「いや、勘弁してください」


 水木清香について、俺がこの後2年も思い悩むことになろうとは、この時誰が想像し得ただろうか。いや、できはしない(遠山先生に捧ぐ反語表現)。

ご厚意は感謝いたします、が、サポートは必要ありません。がっつり働いております。執筆活動に費用はかかりません。その大切なお金で、あなたの今晩のおかずを1品増やしてくださいませ m(_ _)m