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消えてしまった、存在論ー写真についてー

 そのときもぼくは、写真で猫を見つけたときと同じように、自分が生まれるよりもずっと前に生きていた犬がいたことをすごくリアルに感じた。しかしこの感じを人に伝えるのはすごくむずかしい。それがどういうリアルさなのかとか、何によるリアルさなのかとか、自分でもよくわかっていない。というか、今こうして書くまできちんと考えてみたことがなかった。
「自分が生まれるよりずっと前に生きていた犬や猫がいた」
 写真の猫の話とシネマトグラフの犬の話で、ぼくが伝えたいのはそれだけだ。
保坂和志『<私>という演算』より

Ⅰ .消えてしまった

 最近、と言っても一年以内という程度の意味だが、昔から暇な時間さえあると本を読んでいるものだから、時々「どんな本を読んでいるんですか」とか「どういう本が好きなの」と聞かれることがあると、便宜的に「ドイツ文学が好きです」と答えるようにしていたら、それまで以上にドイツ文学やその周辺に関する本を読むようになった。
 もちろん嘘ではない。大学の頃はドイツ語を第二外国語で学んでいたし、卒論は(文学部でもないのに)わざわざある程度好きなテーマで書けるゼミを選んでノサックとアドルノについて書いた。それに昔からカントが好きだ。多和田葉子も文庫はほとんど集めるくらい好きだ。だから間違いではないのだが、とはいえキニャールやプルースト 、ドゥルーズやバタイユなどフランス文学や哲学も同じくらい読んでいたし、古代ギリシアやヘブライにも熱を上げている。だから「ドイツ文学ばかり読んでいる」というとやっぱり間違いなのかもしれない。しかしそう言っているうちに不思議なことになるのか、本当にドイツ文学ばかり読むようになってしまって、また久しぶりにドイツ語を勉強し直そうという気になってしまったのだから面白い。と、ここまではほんの前振りの話で本題はここからだ。
 何冊か、ドイツ語についてのテキストを買って、付属していたCDをスマホに取り込もうとしていたら、何を誤ったか、スマホのデータを初期化してしまった。一応、PCにはバックアップ用のデータが残っていたものの、そのデータは2年前のものだった。多くのアプリなどは問題なく復旧した。大体のものはログインをし直せばそのまま使えるようなアプリか、データがなくなってもさほど影響のないアプリだ。しかしやはり2年分の写真データは消えてしまっていた…

 別にぼくはそこまで頻繁に写真を撮るタイプでもない。ただ実家の猫の写真だけは別で、割と暇さえあれば撮っていて、結構な枚数になっていた。例えば家族や友人と撮った写真ならいい。データが消えてもその人に送って貰えばいい話だ。しかし相手が猫となると…。写真は一部はTwitterにあげたりなんかもしていたが、大部分はぼくのスマホの中にしかなかったから、完全にもう取り返しがつかなくなってしまった。

 別に猫の写真くらいまた撮り直せばいいじゃない、という話に思われるかもしれないが、そうもいえない。ここ2年というとウチの猫については色々と事件があった期間なのだ。小学生の時分から一緒に暮らしていたマリンが死に、また短い間だけウチで暮らして死んでしまった仔猫のニコがいた。福ちゃんがチコとマルを産んだのも去年のことなので、その間の写真がごっそりなくなってしまったということだ。マリンはそれまでの写真が残っているし、チコとマルは仔猫時代の写真はなくなってしまったとはいえ、これから写真をいくらでも撮ることができるからまだいい。しかしニコちゃんについては本当に何にも記録がなくなってしまった…。

Ⅱ .写真について

 最近、と言っても一年以内という程度の意味だが、僕は写真に少し熱狂していたところがある。もともと猫の写真やちょっとした風景写真は撮っていたし、Life is Strangeという写真が重要な小道具になるゲームでも少し興味が湧いたものの、それまで以上に写真に熱を上げるようになったきっかけはヴァルター・ベンヤミンだ。
 大学3年の頃だったか、一応岩波文庫から出ている『暴力批判論』と『ボードレール』という論集に目を通したことはあるが内容はさっぱりだった。だからしばらくは読んでいなかったのだけど、岩波現代文庫から出ていて長らく絶版になっていた『パサージュ論』が岩波文庫で復刊したから『失われた時を求めて』と『神の国』と一緒に月に一冊ずつ買って積んでおいたのをなんとなく読み出したらこれがとても面白かった。概説書も何冊か読んである程度ベンヤミンの読み方がわかってきたから、それまで読んでなかったベンヤミンの著作を買い集め始めて読み出した。
 ベンヤミンはあまりにバロックの再評価やユダヤ神秘主義的な側面など多面的な思想家だからそれを概説しようとするとかなりの紙幅になるため割愛するが、その一面として彼は『複製技術時代の芸術』や『写真小史』などだ写真(をはじめとする複製技術)について、「それまでの芸術の性格を一変させた」と主張した人物である。少し見てみよう。教会やそこにある宗教画を想像してもらうとわかりやすいように従来芸術は、<いま-ここ>的性質、つまりアウラを基盤とした礼拝的価値を持っていた。しかし写真をはじめとする技術が発明されると、芸術は容易に複製可能になる。その時芸術の持っていたアウラは無価値になり、その固有の絶対性から解放された作品が「それぞれの状況の中にいる受け手」がアクチュアルに作品と関係を結ぶことができるようになると彼は言うのである。ベンヤミンの複製技術とアウラをめぐる議論にはアンビバレントな要素が含まれているのでこうもあっさりまとめるのは少し問題含みだが、ひとまずはこうまとめておこう。
 彼の本を読む中で、写真について興味が湧いて、ソウル・ライターの作品集や岩波文庫のロバート・キャパの写真集を読み、さらには芸術としての現代写真を論じたシャーロット・コットンの『現代写真論』や、アマチュアの日常写真についての展覧会の図版である『時の宙づり:生・写真・死』、ロラン・バルトの写真論である『明るい部屋』を読むなど写真についての理論的なアプローチの基礎を学ぼうとした。しかしぼくはいつも理論的な知ばかりを好んで、それをもとに撮影の実践は行わず、相変わらずのんべんだらりと猫の写真ばかり撮っている。

Ⅲ.存在論

 ベンヤミンの考察は主に芸術の複製技術としての写真に主眼を置いているので、ある種アクチュアルな撮影の実践とは違う。風景や人物、猫の写真にはやっぱりアウラがある。これはあくまで撮られた写真を見る側の捉え方だろう。そういう意味ではぼくの立場はバルトの『明るい部屋』やその影響下にある『時の宙づり』の立場に近いんだと思う。

 『明るい部屋』は二部構成になっていて第一部では理論的に「観客」としての立場から論じてきたが、その最後に「私は、『写真』というものの本性を発見したわけではなかった」と書き、第二部からは写真をめぐる個人的な経験、亡くなった母の写真を巡って記述が進められる。母の死後まもなく、母の写真を整理していたバルトは、まだ少女時代の母の写真を目にした。彼は母の身につけている服装を見て、彼自身がまだ存在していなかったこと、その時期の母の服装を思い出すことができないこと、つまり彼自身から「歴史」によって分け隔てられていることを思い知る。少女は臨終の床で見た母には似ず、明るい表情で無邪気なポーズをとっていた。そして、<それは=かつて=あった>のだ!

 これは当たり前のことだというだろうか。しかしこの<それは=かつて=あった>ということは驚異的な事実だ。驚きは言葉で伝えるのは極めて難しい。ニコちゃんが死んでしまった今、ぼくはそのことを強く感じる。
 写真はウチに来てたった1ヶ月で死んでしまったニコちゃんがいた事を示すほとんど唯一のものだった。ソファの上で丸くなって、顔を自分のしっぽに埋めて眠るニコちゃんの写真、それだけが<かつてニコちゃんがウチにいた>ことを示していた。もちろんぼくは君のこと忘れない、そう思っているけれど、記憶は移ろいやすく、それが本当にあったことなのか、時々自信がなくなってしまう。しかしその写真は確かに君の存在を明証に示してくれていた。
 写真は単なる複製だ。もちろん厳密な意味での複製とはいえないものの、カメラが捉えた対象を、ある種の分身として確かにここにある。カメラがとらえた対象がもはや存在しなくなっても、分身だけは残り続けている。するとありふれたスナップショットが、忘れられていた真実味を、アウラを帯びて輝き始める。

 しかしそのニコちゃんの写真は今や失われてしまった。もちろん写真は紙なりPCハードなりの媒体に記録される以上永続的なものではない。どんな仕方で保存しているにせよ、何か偶然によって失われてしまう可能性があることはわかっている。それでもぼくはとても悲しい。ぼくにはもはや、「君を忘れない」と決意し続けるしできない。

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