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今週月曜日に、父の一年忌(一周忌)がありました。

横浜に住んでる叔父さんと、東京に住んでる兄はコロナの影響で来れなかった。
他にも今回は遠慮しておきますという親戚もいたと思う。

一年忌って表現をするのは沖縄ぐらいなんですかね。

前日は早く寝ようと思って半身浴もして準備万端だったのに、急に色々と思い出して、久々にBadに入ってしまって夜中3時ごろまで寝れませんでした。

お父さんが亡くなって最初の半年ぐらいはしょっちゅう夜に悲しくなって寝れなくなることがあったんですが、最近は割と受け入れられたのか泣くことはなかったんですが、
やっぱり、「明日で1年か」と考えてしまうと悲しくなってしまいました。

当日は久々にお母さんと姉と私と3人そろって、普段家で一人の母も久々にたくさん喋れるってなったのか、ずっと喋ってくれました。
お母さんも多分悲しい気持ちはあるだろうに、それを感じさせないぐらいずっと喋ってました。
おかげでその日1日は元気にお客さんを迎えて、父を送り出せたと思います。

母の日の翌日が一年忌だったので、母の日のプレゼントとかも渡しにくくて、まだ渡せてません。今年は5月の1か月間を母の日とするみたいなので、時間があるときにプレゼントを渡したい。

受け入れるまで時間がかかる

寿命で亡くなった、とかではなかったので気持ち的にも受け入れるのに時間がかかって、亡くなってしばらくは飲んでるときにいきなり泣いてしまったりとか、情緒が非常に不安定でした。周りの友達に申し訳ない。

(カラオケで悲しい歌でもないのに歌ってる途中で急に泣き出して、トイレに行ったと思わせてそのまま帰ってたこともあったらしい。記憶にないけど自分でも怖いと思った)

時々夜中に悲しくなってインスタストーリーに小さい文字で吐き出して、あとからそんなことをSNSに吐き散らすことに自己嫌悪して、の繰り返しでした。
ただ、悶々とした気持ちをSNSとかに吐き出すとすっきりするのも事実でやめられませんでした。

またいつそんな日がくるかわからないので、このnoteに自分の気持ちを整理する目的で書き殴ろうと思います。

誰かに知ってほしいとか、
慰めてほしいとか、
共感してほしいとか、
そんなんではなくて、ただ単に自分の中の気持ちを整理したいだけなので、ご了承ください。

突然の救急搬送、入院

おととしの秋、二日酔いでベッドから出れなかったある土曜日の昼に、急に母から着信がありました。

またいつもの何でもない用事かなあと思ったのに

「お父さんが救急で運ばれた。危ない状況でもしかしたら助からないかもしれない」

嘘だろと思いました。原因は事故みたいなものでした。
交通事故とかではないです。

急いで高速に乗って病院に行って、病院の人が手術の同意書とか色々説明してサインを書かせているんだけど母も私も今何が起きているかわからなかった。

救急搬送でそのまま緊急手術をしているけど、もしかしたら助からないかもしれない。

お母さんは泣くとかではなく呆然としていて
「お父さんが可哀想」って言っていたのがすごく印象的でした。
私はもう耐えられなくてずっと横で泣いていて。

何時間たったのかわからないけどどうにか一命は取り留めて、ICUに入りました。

久々にあったお父さんが変わり果てた状態で、たくさんの機械が繋がっていて、
ICUの機械の「音」は今も忘れられないです。

そこから何回か手術をして、ICUからHCUに移って、もうしばらくしたら一般病棟に移りました。

呼吸もしているし心臓も動いている。
だけど意識がない。

意識がないから話すこともできなくて、時々片目を開けて天井を見つめているだけ。
きっと今自分に何が起きているか理解もしていないんだろうと思います。


でも、「耳」は最後まで機能しているとよく聞いていたので、とにかく面会に行ったときはいつもお母さんと話をしていました。
時々、話の内容を聞いてか、笑ってる?表情をするときがあって、
「きっと今の話聞いて笑ってるんだはずね」とか話してました。

父が好きだったものに関する「音」を聞かせるのがいいと聞いて、
缶ビールを開ける音とか、スポーツの音とかを聞かせたりしました。

入院して半年が経つと、この現状にも少しずつ慣れて、現実を受け止めつつありました。
だけど、役所の方から、「障碍者手帳の手続きをしてください」と連絡があったと母から聞かされた時に、また悲しくなりました。

わかっていたけど、現実を突きつけられたというか。

すごく元気だったころの父はもういないんだな。とか。

もう一回でいいからお父さんと話がしたいな、最後に会話したのいつだったけな、とか考えてました。

でも結局、最後までお父さんと会話することは叶いませんでした。


最終的に搬送されて入院してもうすぐ7カ月、という所で
父は容態が急変して亡くなってしまいました。


それも、ある手術をしたら「覚醒」というのが起こって、意識が戻る可能性があると言われていて、
それは前回の手術から一定の期間が経たないとできないとのことで、その手術ができる日を希望に毎日過ごしていた矢先でした。

病院のベッドにいられる期間は限られていて、いったん別の病院に転院をして、それからしばらくたってからの容態急変でした。

その病院に対して色々思うこともあって、正直亡くなったことも納得いっていない部分もありました。

だけど、私の中では
「もうずっと寝たきりで、こんな状態がずっと続くのが耐えられない」
って思ったのかなぁとか思ったりしました。

向こうの世界があるとしたら、自由に動き回って、大好きなお酒も飲んだりできるだろうしな、それならそっちの方が幸せなのかなとか。


でも、亡くなってすぐお母さんが言っていたのが
「たとえずっとこんな状態で良くならなかったとしても、ただ生きてくれているだけで、それだけで幸せだったのに」
と言っていて、お父さんに会いに病院に行くのが心の支えだったんだなぁと思いました。

こんな状態になってはじめて、お母さんはお父さんのこと本当に大事に想っていたんだなと気づきました。
そして、私自身も、お父さんのことがすごく大きな存在だったことにも気づきました。

あまり仲がいい方ではなかった

正直言うと、いなくなってから大切さ気づくとかその類で、
私はあまり家族のことが好き、という感じの人ではありませんでした。

母はすごく気が強い人で、父は酒癖がすごくて、
しょっちゅう口喧嘩しているのを見てきた私は、「両親は仲が悪いんだ」と思っていました。

父がいない所で母が私に父の愚痴をこぼすのは日常茶飯事で。

正直そんなに一緒にいてイライラするなら別れればいいのにと思ったことも何回もあるし、家の居心地が悪くてあまり家に居たくなかった時期もありました。
わたしが飲み歩いたり休みの日は常に予定を入れて出ていたのは、家に居たくなかったからというのもあります。

実家を出る少し前から関係がよくなった

私は末っ子なので最後まで実家にいたので、父が定年退職した後は、よく父と母と私の3名でご飯を食べに行ったりとかしてました。

割と定年退職後は父も母も喧嘩することが減っていたように感じます。

退職後の父は、これから家族サービスいっぱいやるぞ、っていう感じだったんだろうなあ。
「初めての年金が入ったからステーキ食べに行こう」って言って連れて行ってくれたステーキは本当に美味しかった。

母には新しく車を買ってあげるんだと言って、私に「新車の○○(車種)にしました」ってLINEが来たり。
(結局その新車も父が入院してしばらくしてキャンセルしました。それも悲しかった。)

「親子の適切な距離感」というのは人それぞれ違うと思っていて、
わたしの場合は、「実家を出る」というのが「適切な距離感」が取れるようになったきっかけでもありました。

引っ越しの当日は、父は石垣島に行っていて、帰ってきたときに
「そうか、瞳美はもういないのかあ。せっかく石垣牛のお土産買ってきたのに」
って言ってくれてたらしくて、なんか微笑ましいなあとか思っていました。

数日後に荷物を取りに行ったときに母からそれを聞かされて、その買ってきてくれた石垣牛のハンバーグを母が焼いてくれて、めちゃくちゃ美味しかった。
それをみてすかさず、「だろ、美味しいだろ!?」って自慢げだったのもよかった。

実家を出てからは、母とも父ともいい関係が築けて、これから色々面倒かけた分返していきたいなという矢先に、父は事故にあってしまったので、本当に悲しかった。

後悔していることとやってよかったこと

父はまだまだ現役だと思っていたのに急に向こうに行ってしまったから、
後悔していることが2つあって、

まず1つは、「家族全員の写真が撮れなかった」こと。

8月に東京にいる兄がお盆で帰省したときに、父の大好きなステーキを皆で食べに行こうということになり、
姉も一緒に5名でほんとに何年ぶりだろう、という日がありました。

父と母と私の3名でのディナーは何回かあったんだけど、5名揃ってのディナーは本当にレアで、
その日記念に写真を撮りたいな、と思ったんだけど、
なぜか撮らずに帰ってしまいました。

でも今となってはあれが家族5人そろった最後の日でした。
なんで写真を店員さんにお願いしなかったんだろう、と本当に後悔しています。

私たち家族はあんまりみんなで写真を撮るということにはならないので、
家族写真というのは私たち子どもたちが本当に小さい時以来撮っていないはず。

家族の思い出はこまめに残すべきだと本当に思います。

その2か月前くらい(実家を出る前)に、私と母の誕生日のお祝い(誕生日が1日違い)でステーキを食べに行ったときに、3名で写真撮ろう!ってお願いをして、撮った写真があります。
父もうれしかったのか、現像するからメールで送ってと帰ってすぐに言って、わたしにも現像した写真をくれました。

その時は、「いや写メのデータあるから現物はいらんよw」とか思ってたんですけど、今となっては部屋に飾るぐらいの宝物となりました。

結局それが一番新しい父の写真だったので、それを遺影に使いました。
告別式や初七日に来てくださった方にも「いい写真だね」って言ってもらえたのを覚えています。

でも、やっぱりそれより後に家族全員で集まったときの写真を家族全員で形見として持っておけたらなと今でも悔やんでいます。


もう1つは「バージンロードを歩かせてあげられなかった」こと。

昔酔っぱらった父から電話がかかってきて(そのとき私も飲んでいた)、
「お父さんはバージンロード歩きたいんだよぉ、兄弟で希望があるのは瞳美だけなんだよ、頑張ってくれ」
って言われて、その時は笑って流していたんですが、
父が搬送されて入院した瞬間に最初に思ったのは
「バージンロード歩きたいって言ってたじゃん」でした。

その当時は彼氏がいて、「お前がいつも見慣れない車から降りてくるの見てるんだぞ」とかちょっと怖いこと言ってて、でもなんだかんだ期待してるんだろうなとか思ってました。
結局その人とは別れて、結婚は遅い方と色んな占いでも言われていたので、あと2、3年はかかるかなぁとか、結婚式は絶対に挙げたいなとか思ってたのに、まさか父の寿命の方が先に来るなんて。

姉は結婚したけど結婚式は挙げなかったので、父からしたら結婚式は夢だったんだろうなあ、叶えてあげられなかったな、ごめんね。

孫も抱きたかったと思うのに、こんな娘でごめんねって思います。
いつになるかわからないけど、仏壇にいい報告が早くできるようにしないとなあ。


逆にやってよかったと思うのは、「父を散歩に連れ出せたこと」。

転院した病院はリハビリをやってくれる病院で、
ときどき車いすに乗せて病院内を散歩させていると聞いて、
去年のGWに「散歩させてみたい」と母にお願いをして、
前もって理学療法士さんにも伝えてもらって、当日車いすに乗せてもらって、散歩をしました。
母が車いすを押して、私は横に並んで歩いて。
景色を見てくれてると思いきや爆睡してたのは残念だったけど。笑

本人ぐっすり寝てるし、長い時間散歩させられないね、てなって少しの時間しかできなかったけど、私的にはとても満足でした。

その10日後には父は無くなりました。
あの散歩も今度でいいや、と思っていたらできないまま亡くなっていたと思うので、そこはやってよかったと思います。


亡くなった後、葬儀屋さんの手配をしたりとか、四十九日までの色々なやることをたくさんやって、すごく大変だったけど、もう1年たったんだなあと思うと色々な感情が湧いてきます。

一番つらいのは母だと思うから、やっぱり早く母にプレゼントを渡しに行こうと思います。
定期的に実家に行って母と話す時間を取らなきゃな。

なんだかんだ言って、この両親の子供でよかったと大人になって日々感じます。
「親孝行したいときに親はなし」という言葉があるけど、
父にはあまりできなかったけど、母にはいっぱいやっていきたいです。


気づいたら5000文字以上書いてました。
少し気持ちの整理ができたと思います。

noteという場所に感謝です。ありがとうございました。



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