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まなざしからの逃避行:『冬の旅』(1985)によせて

 『冬の旅』は、南仏の葡萄畑の片隅で若い女性の死体が発見されるシークエンスから幕を開ける。地元の警察の調査によって、それが自然死であると断定されるところまで映画は外面的な描写を中心に進んでいくが、そこに監督アニエス・ヴァルダ自身による以下のナレーションが挿入される。  モナの最後の日々を語るのは、彼女が旅先で出会った人々である。(一方で、モナ自身の心情や彼女が何ものにも縛られない自由を求めて旅に出るまでの背景はほとんど語られない)。彼らの証言から明らかになるのは、男たちはモ

    • 個人的なことは政治的なこと:『マリア・ブラウンの結婚』(1979)によせて

       本作は、ヒトラーの肖像画が爆撃で吹き飛ぶ象徴的なシークエンスに始まり、ドイツ連邦共和国の歴代首相の顔写真…アデナウアー、エアハルト、キージンガーをネガで、そしてシュミットがネガからポジにフェードオーバーしたところで幕を閉じる。(ただし、その中にヴィリー・ブラントの写真はない。これは、発展が続くことに懐疑的な態度をとっていたファスビンダーが、ブラントに関してはその限りではなかったことを示そうとしたためと考えられる)。その間に本作の舞台である、不在の男たちに代わって女たちが主体

      • 幸福が楽しいとは限らない:『不安は魂を食いつくす』(1974)によせて

         本作は「幸福が楽しいとは限らない」という印象的な一節から幕を開ける。初老の未亡人エミと若いモロッコ人の出稼ぎ労働者アリの結婚生活を表すのに、これ以上の言葉は見当たらない。(これは、ゴダール『女と男のいる舗道』からの引用だとファスビンダーは述べているが、元はマックス・オフュルスの『快楽』に登場する台詞である)。孤独な者同士であるふたりの結婚は互いの魂を慰め合うが、周囲の人々は彼らに激しい嫌悪を示し、嫌がらせを繰り返す。  ファスビンダーは差別・抑圧というテーマを物語や台詞か

        • ジェンダー/フェミニズムの視点から読むホラー映画『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)

           『ローズマリーの赤ちゃん』は、そのタイトルが如実に示すように、妊娠・出産を主要モチーフとするホラー映画である。大まかなストーリーは次のようなものだ。主人公ローズマリー・ウッドハウスは、俳優である夫ガイと共にニューヨークのいわくつきのアパートメントに引っ越す。隣人であるミニーとローマンのカスタベット夫妻の養女が謎の転落死を遂げたことをきっかけに、ガイは夫妻との親交を深めてゆくが、ローズマリーは彼らの過剰なお節介にしばしば困惑する。そんな折、ライバルの俳優が突然失明したことをき

        まなざしからの逃避行:『冬の旅』(1985)によせて

        • 個人的なことは政治的なこと:『マリア・ブラウンの結婚』(1979)によせて

        • 幸福が楽しいとは限らない:『不安は魂を食いつくす』(1974)によせて

        • ジェンダー/フェミニズムの視点から読むホラー映画『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)

          『パルプ・フィクション』(1994)を映画史に位置づける

           『パルプ・フィクション』はメインプロットである①ヴィンセントとジュールスの物語 ②ブッチとマーセルスの物語、そしてサブプロットないし枠物語である③パンプキンとハニーバニーの物語から成る。ただし、本作は原因と結果によるストーリーを分解し、その順序をラディカルに置き換えて呈示する。「ヴィンセント・ヴェガとマーセルス・ウォレスの妻」や「金の腕時計」、「ボニーの一件」というインタータイトルは、そこから独立した物語が始まると思い込ませるための仕掛けとなっている。初めて本作を観た観客は

          『パルプ・フィクション』(1994)を映画史に位置づける

          フィクションに対してある種の信仰を持つこと:『緑の光線』(1985)によせて

           ヒロインのデルフィーヌはヴァカンスの期間中ひとりでフランス各地をさまよう。本作では、撮影時に同時録音された環境音がそのまま用いられており、それが各避暑地を印象付けるのに一役買っている。例えば、パリのシークエンスでは車の走行音、教会の鐘の音、石畳を歩く靴音、鶏の鳴き声などが聞こえるのに対して、港町のシェルブールでは漁船の汽笛、波や風の音、海鳥の鳴き声が聞こえる。同じく海辺の保養地であるビアリッツでも波の音が聞こえるが、シェルブールとは異なり漁船の汽笛は滅多に聞こえず、代わりに

          フィクションに対してある種の信仰を持つこと:『緑の光線』(1985)によせて

          フラストレーションの累積、そして爆発:『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)によせて

           本作の監督スパイク・リー自らが演じるムーキーは消極的な主人公である。ほとんど全編を通して、彼は命じられるがままにピザを配達しては道草を食っている。カメラはしばしばムーキーから離れて、昼間から飲んだくれている市長(メイヤー)や、通りすがりの白人男性に喧嘩を売るバギン・アウト、大音量で《Fight The Power》を流し続けるラジオ・ラヒームはじめ、ヘッドフォード=スタイヴェサント地区の他の住人の動向を呈示する。  本作のプロットは散漫で起承転結という明確な型を持たない。ス

          フラストレーションの累積、そして爆発:『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)によせて

          『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』(1971)における死の表象

           『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』(以下『ハロルドとモード』と省略)は、死に魅了された青年ハロルドが何ものにも縛られずに生きる天真爛漫な老女モードと出会い、愛し合い、離別する過程を通じて人生を受け入れる様を描いたフィルムである。だが本作で示されるのは生きることの素晴らしさばかりではない。このようなモードの人生賛美的な台詞はたしかに全篇に渡って語られるが、作品の中で繰り返し描かれるのは死や戦争の影である。モードと向き合うことで主人公ハロルドが直面するのは、生を謳歌する喜びと

          『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』(1971)における死の表象