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Fly me to the moon

November Steps

自らの誕生日を公開する、というのはなんとも、「祝ってほしい」という幼い願望を最も明け透けな形で呪詛に変えてしまう営みであるように思われる、とそんなことを考えたのはいつのことだったろうか、ともかくそれからは、なんでもかんでも人に喋ってしまう自分にしては相当厳戒して、自らの誕生日をむやみに言わないように努めていた。とはいえ友人との雑談の中でそれを聞かれた際に、「さあ……」と躱すほど意地が悪いわけでもなく、結局毎年、そういった会話の端くずを律儀にカレンダーアプリに入力する類の律儀で愛おしい友人、または、腐れ縁と形容すべき友人、といった少ない人々にひっそりと祝われるのが、わたしの誕生日ということになっていた。

そう、今年を除いては。


Blue Moon

大学で出会った友人に、偶然誕生日が一日違いのひとがいて、普段なにかと懇意にしてもらっていることや、共通の知人も多いことなどから、今年は合同誕生日会なんてのをやってみようか、という話になった。その話が持ち上がったのは私たちの誕生日より何か月も前のことで、そのときは、スワイプした遥か先の部分にある該当月の該当日に予定を入れては、実感はひとつも湧かないながらも、「楽しみだね」などと言っていたのを思い出す。そうして、まだまだ先だなと思っていると気づかぬうちに目の前にあり、そして気づいてからは途端にスローモーションになる(思うに、ガラスの花瓶が机の端で傾いたときに息を呑むのに似ている)のが時間というものの恐ろしさであるわけだが、みごとに、誕生日の一週間前にして、わたしは、どことなくおかしくなってしまった。これは毎年のことだが、ここには多少の揺らぎがある。その程度と、向きについて。今年に関しては、大幅に・活発という感じになった。わたしの誕生日を巡るこの悪癖については、当日海で野宿を試みるなどの前例があることから、注意はしていたのだが、それしきで自制できるのならば悪癖とも言わないだろうと思う。事実、今年も、台風の中心である誕生日に近づけば近づくほど、わたしは浮足立ち、なんとなくのんきな振る舞いをするようになっていった。よく会う友人に対しては、何度誕生日の話をしてしまったことか、申し訳なくなってくるほどだ。……もしこれを見ていたら、ありがとう、そしてごめん、いつもお世話になっています。


Moonlight Serenade

大学生活を営むマンションの一室、からほど近い川辺、そこはわたしの生活から切り離せない場所となっているが、どこで誕生日を迎えるか(日付が変わるのを待ち受けるか)を考えるにあたって、もうここしかないだろうなという確信があった。バイト帰りの放心も、友人との花火も、ぜんぶここでやってきたのだ、私の悪癖がピークに達する瞬間を迎えるのは、今更ここ以外ではありえないだろうという、もはや意地にも似た確信があった。ともあれ11:57に部屋を出て、急いで暖かい飲み物を買うと、川面への階段を降りた。上空の月に向かってスマホを向けた瞬間、日付はわたしの誕生日となった。空気は澄んで、目を凝らして表れた星の瞬きが、いつか見た遠い街の夜景のごとき儚さを届けている。足元には穏やかに川が流れ、かつて知っていたのかもしれない、でも今は思い出すことも叶わない、母の胎の中のような水音を聴く。誕生日だった。それは、人間のきまりのなかで作られたカレンダー的循環における形式上の重なりであって、ほんとの誕生日は、わたしが産声を上げたあの日でしかありえない。そんなことは分かっていても、スマートフォンに表示される日付は確かにわたしを祝福していた。記念日だとかいうのに興味はないが、こうして、螺旋の中で、時間というy座標が否応なく上昇していく中で、わたしという矮小な生きものが、自分の意志で死なないでいる、生きているということを定期的に実感する。それだけで、カレンダーの中に存在する一日というのは意義があるのだと思う。ほんとうに綺麗な夜空だった。わたしだけが見ていていいのかしら、と思うくらいには壮大だった。そして、わたしの誕生日付近に表れ始める悪癖について少しだけ、何かがわかった気がした。

(グレン・ミラー・オーケストラのほうを載せようか迷ったが、歌が欲しいなという気分だったのでこちらを載せた。相当暇な人はそちらも聴いて欲しい。)

Vou te contar(Wave)

起きて、なんとなく片付けでもしてみようかと思い立ち、自分の準備も終わっていないのに呑気に自室の片付けをした。結果、その日唯一の授業に遅刻した。30分ほど。先生の寛大さに甘えながら入室し、ことも無く授業が終わると、友人たちに対面で祝福の言葉をかけられる。全員、日付が変わった瞬間にLINEにてもメッセージをくれた人々だ。川辺でぽちぽちと返信を打つ間、破顔していただろう昨夜のことを薄ら恥ずかしく思いながら、素直にありがとうと言う間に、誕生日プレゼント、なる紙袋(すてきだ!)を貰った。今日は海に行く予定なので、そこで開けさせてもらおうと思った。そして海へ行くべく、電車に乗り込む、その前に、例の悪癖の結果、とくに2人で遊んだこともない先輩をいきなり海に連れ出そうとする愚行を犯し、もちろん断られた。(今から海行きましょうよ、が許されるのは夏においてか狂気においてかのどちらかだ。それらはイコールの関係かもしれない。)わたしの悪癖は毎年必ず被害者を出す。去年は高校の同級生だったが、今年は大学の先輩になってしまった、などと思いつつ、今年の被害者の方、もしこれを見ておられたら、いきなり変なことを言った件についてお詫び申し上げるとともに、これからもご愛顧賜りますよう……とビジネスメールじみてきたところで、海の話に戻る。車窓については特筆すべきことはない。それは実家への帰路だからだ。電車の揺れに微睡んでいたが、見慣れた海岸が車窓に表れると急に意識が浮上して、電車を降りた。駅を出て右、海岸を見渡せるデッキを素通りして、急かされるように砂浜へ向かう。砂の沈むのに足をとられる感覚が久しぶりで、ひとり心の中ではしゃぎながら海に向かう。波打ち際で無邪気に笑い合う2人の知らない娘たち、をさらに通り過ぎ、波止場を突き進む。波止場の先端に着くと、我がもの顔でどっかと座った。駅のコンビニで買った飲み物片手に、来る波を眺める。その海は穏やかで、満潮に向かって、なみなみと揺らめいていた。川とは違った安寧がここにある。もとよりわたしは海の人間であるという自負があり、川を見ていると、その行き着く先である海が、どうしようもなく恋しくなることだってある。そこはいつでも終着点だった。Destinyという単語の次に見るDestination、その意味においての目的地である。わたしは数時間、そこで気ままに時間をつぶした。


Agua de beber(water to drink, おいしい水)

わたしの悪癖は、おそらく、誕生日を、自分だけが主人公になれる日だと認めているから表れるのだろうと思う。普段そこまで主体性を欠いているというわけではないし、好き勝手に生きているつもりだし、周囲に迷惑をかけまくっているのだが、やはり抑圧される部分というのは出てくるらしい。非日常らしい日常を生きたいと思っていても、気づいたらなんとなく収まりのいい日々を暮らすことに終始している。だから一年に一回、まったくおかしな挙動をとる日を作るのが、きっとわたしのメンテナンスなのだろう。しかし、周りの人々も、こんなにおかしくなっているのだろうか。気になるところである。

ともあれ今回の誕生日は、今まででいちばん印象深いものになった。あと何回誕生日を迎えられるのか、見ものである。(おそらく何十回もある)

最後に。その誕生日というのは今日ではない。









#いきなり短歌コーナー

Fly me to the moon あの欠けたとこ、太陽からも逃げて踊ろう


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