17夜の話
タイトル kocorono
僕はずっと彼女の鷲鼻が好きだったのだけれど、本人はその賢そうな鼻を好きではなかったみたいだ。彼女のことは出会ったときからずっと好きだったけれど、彼女は1度も僕のことを好きだとは思ってなかった。さみしいことだが、感傷的な話をしたいわけではない。あのとき僕はひどく若くほとんどなにも分かっていなかった。自分が心の底から求めているものすら……。
祖母は東京でホステスをやっていたのと話す彼女は、たしかに目を引く美人であの冬、【魔の山】と僕らが呼んでいた病院でも引く手あまただった。チューインガムの包み紙で織られた鶴が窓辺に並ぶラウンジは、病棟のなかで彼女と邪魔されず話せる数少ない場所で、退院前の最後の外泊前夜、僕はそこで声を震わせ好きだと告げた。
「足、どうして骨折したの?」
彼女は僕の告白をはぐらかした。足の話をするのは、2度目だった。
「嫌になっちゃったんだ。憂鬱も限界を超えると死にたい気持ちが強くでてくる」
「でも、治ってよかったね。痛かったでしょ?」
「Mは自殺したいと思ったことないの?」
「ないよ。そんなのあるわけない」
Mは街で錯乱して保護された。外界のすべてが昔の恋人に紐づけられているような感じだったと言っていた。
「雪が降っていたわ。するとね、頭の中で同じ音を持つ幸彦の姿が現れてしまうの。雪片は空から無数に降ってくるでしょう?そうすると、幸彦の顔がたくさん、たくさんでてきてしまう。慌てて金物屋に逃げ込むとゴリラのような男が出て優しくしてくれるんだけど、男は私の体が目的だったわけね、泣いて謝っても男は腰を振り続けるし、それも幻なんだろうけど、そのうちゴリラの顔が幸彦になって、私のこの鷲鼻を甘く噛むの」
「ひどく混乱していたようだね」
僕が言うとMは大きな声で笑った。
「それでも死のうなんて1度も思わなかったの。私、この【魔の山】を出て幸彦に会いに行かなければならないしね」
僕はそれほどMが愛する男を思い浮かべようとしたが、嫉妬しか沸かなかった。
「ねぇ、Tは23歳って言ったよね?」
「ああ、そうだよ?」
「30くらいになって、その気になったらあなたきっと、私なんか追い越して、ずっと遠いところに行っちゃう。それはわかるの。なぜか。私、もう30よ。あなたが私のこと好きでいてくれるのは感動しちゃうけど、わるいけどそんなに待てない」
僕は唇をかみしめていた。
「じゃあ、俺は……」やっと僕がいうとMは微笑んだ。
「力の使い方だね」とMは言った。「素晴らしいものを持ってるのよ、あなた? でも今は色々なものに縛られ過ぎているから力がはいらないし、死にたいなんて弱気にもなって、自分が何をしたらいいのかわからないのよ。あなたが本当にしたいのはこんなおばさんを相手にすることじゃないでしょ?」
自分が何をしたいのか、心から欲しいものはなにか、僕はMの言った通りわかっていなかった。Mの退院が延びて彼女がひどく落ち込んだとき、僕は僕が創作した話を聞かせてみたことがあった。
その時、彼女はすごく面白いと褒めてくれた。僕は褒められることに慣れていなかったから素直には受け取れなかったが……。そしてあのとき、あなた物語を創る人になれるかもよ、と言われたのを思い出す。
僕が何をしたいのか、心から欲しいものはなにか?今なら分かる。僕は彼女のような人の、心から微笑んだ顔を見たくて、ただそれだけを叶えるために物語を語りたいのだ。
それが僕のkocorono
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