自分の投薬と絵の変遷の記録2022
場所は海外
私は幼少期より、両親、兄弟達からノートに絵を描くと
それを奪われて、家族の前に晒されて笑って馬鹿にされました。
公開処刑、晒し処刑ですね。
そしてそれが終わると母親に「ノート(紙)を無駄にしてごめんなさい」と関係のない大人達にも謝りに行かされ、
私自身の手で絵を消す、という躾を受けていました。
父親曰く家系に画家や絵を描く人がいないので、やめろとのことでした。
引越しのたび、落ち葉を燃やせる場所がある時は親同伴の下、
処分し切れない私が漫画を描いたノート等を燃やしに行ったりしました。
そのうち引越しの日が近くなると
自分から描いたものを進んで処分するようになりました。
その当時はよくわかっていませんでしたが、
自分の好きなもの、心を込めて描いたものを処分する/処分される行為は
自分の魂を殺すのに等しい行為でした。
幼少期の頃から
父親に日本の家に私の居場所は無いことを知らされていました。
そして育てていただいた養育費、◯◯億円を父親に返す義務があると言われ続けてました。
母親からはお世話になった人達全員(母と母の親族)にもお金を返す義務はあるのよと誰もいない時に吹き込まれていました。
1,2年で国を跨いで引越しをする私の人生。
私の存在意義について長く長く自問していました。
親は毎月「◯学年になったら自由にして日本に帰してあげる」と言っていました。
中学生になった時
私の良くない成績でキレ散らかしてる父親に「お前は俺を怒らせる天才だ。本当に何がしたいんだ。今なら叶えてやるから今言ってみろ」と言われました。
即座に「日本に帰りたい」と答えました。
即座に却下されました。父親から見て私が根性無しだからでした。
高校の頃、母親が「このまま海外の大学に行きなさい。ここまでこれたなら日本に帰らなくてもいけるわよ」と言いました。
自分の両親の手足になり、望む現実を展開してあげるのが私の、この親達にとっての存在意義だとやっと理解しました。
「私の意識はもういらない」そう思った数日後
体が動かせなくなるほどのうつ病になりました。
幸い自力で駆け込んだ現地の病院で
「絵を自由に描かせること(好きなことを存分にさせること)が回復の条件だ」と医師に告げられ、権力に弱い父親がやっと手を緩めた瞬間でした。
家事をやりながら回復に取り組みました。
場所は日本
その後日本に帰ることになりました。
そして数年経ち私は父親の定年を狙っていました。
出て行く前に
母親の教育虐待のせいで統合失調症になってしまった弟を回復まで守ること、
出て行ったらしばらく絵を描ける状況にならないだろうから
ベースを築き上げておくこと、どこででも絵を描けるようになること。
実際は現在から3年前に精神科医にレクサプロを処方され、
2022年頭にアトモキセチンを処方されるまで
行動や意欲を抑制する、脳が再生する親の躾の声に対処できませんでした。
👇の絵がアトモキセチン6ヶ月目の絵です。
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