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「生きる意味」についての誤謬

僕は近場の喫茶店で毎週開催される哲学カフェに、たまーに顔を出す

リアルで開催される哲学カフェなんていうものは、だいたい常連でコミュニティが出来上がっていて、僕が参加しているものも例に漏れず

なかでも必ずと言っていいほど会うのが、スノッブ趣味のオーラの漂う、カミュやショーペンハウアーを偏愛する読書家の彼である

彼がいつものシニカルな口ぶりで「生きる意味なんてものは存在しない。なぜなら…」と続けるのを聞く

毎度似たような話をしているようで、他の参加者のなかにはウンザリしている者もいるようだけれど

なぜなら…に続く部分は回を追うごとにより長く、詳細に、筋道が通ってきている

少なくとも僕にはそのように聴こえる

彼は哲学の修士課程に在籍しているが、大学内では物足りないとあちこちの哲学カフェに顔を出したり、友人・家族・職場の同僚…と隙あらば哲学的な議論を仕掛けているそうだ

「生きる意味なんてない!」と力説する彼の姿からは、彼の「生きる意味」をひしひしと感じる次第である…

という導入ですが(フィクションです)

「意味」というとつい言葉で説明したくなりますし、辞書的なニュアンスで、明晰に説明されたものかどこかにあると思いがちですが

僕は「意味」と「有意味さ(無意味さ)の感覚」とは区別しないといけないと考えています

形而上学、オントロジーとかの中で扱われる「生きる意味」について、それが無い・不可知であるということは、具体的な個人の「生きる意味」とは直接関係がありません

「人間の存在、生に意味はない(わからない)」という命題が論証されてるから演繹してじゃあ僕も他の人も生きる意味はないんだというのは誤謬です

他の人生にその人の主観性を無視して解釈や意味付けをするのは現象の記述としては明確な誤りなのでやめたほうがいいです、それはあくまで「あなたの世界観」の中での意味の配列なので

「あなたの世界観」の中だとしてもあなた自身を無意味な存在だとするのは自己ラベリングです、開発する余地があるのに決めつけるのはやめましょう せめて選択しましょう

「生きる意味」を失ったり探したりしている人は、形而上学的な議論をしているわけでも参加したいわけでもない場合が多いと思います

何かについての「有意味さの感覚」を喪失して、「無意味さの感覚」を覚えている人だったり、「有意味さの感覚」を得たいという人だと思います

ある対象についての自己投入が「生きる意味」として語られるに足るだけ、当人がそれに「有意味さ」を感じ、またその持続のなかで生活を送っていることが「生きる意味がある」という言葉の指示対象であることが多いんじゃないかなと

「生きる意味」をめぐる議論や哲学対話は「生きる意味がわからない」ことに対して回答を与えることはありません 

知識として身体から独立して存在しているものではなくて、「ある感覚の表象のひとつ」だからです

その「生きる意味」は普遍的にあるorないとかいうものではなくて誰にでも、その人固有の形で開かれているものです

その「生きる意味」について考えるのに必要なのはニーチェではなくて、やりたいことをやって失敗して反省してやりたいことを先鋭化させることと実験精神です




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