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楽しむ筋力?

自分が物事を楽しもうとする内在的な意思に欠けていると感じたのは主に大学生の時だ。最近憧れの人と議論していた時にその意思について「楽しむ筋力」と表現してみた。するとそれは言い得て妙だと言ってくれたので、書き起こしてみようという気になったのである。

楽しむ筋力が希薄だと、明らかに誰もが楽しいと思われる状況でもっとはっちゃけたいのにできないとか、楽しさを追求する自由を解放されているのにあえてしないということが起きる。一方で残念に思い改善したいという希望もある。ならばどうしてしないのかと問われると、筋肉量が足りてないからということになる。

ではその筋力はいつ身につけるのかといえば、幼少期から思春期まで、つまり広義の子ども時代である。そうした多感な時期に感情に蓋をする癖をつけてしまうと、人として自然な感情さえも適切に表現する術を見失ってしまう。自分ですら自分がどう思っているのか分からないという虚しさが湧き起こる。

人生の夏休みともいわれる大学生の時に密かに悩んでいたのは、その弊害があまりにも多く損していた気がするからだ。皆と同じようにテーマパークに行きたがらないし特定の誰かと付き合うことをゴールにしないし思い出づくりのイベントは総じて煩わしく思っていた。割り切っていればまだいいけど、なぜ楽しめないのかと自己嫌悪を感じていたのもたしかだ。

とはいえ生きていればもちろん心踊る瞬間は沢山ある。小さなトキメキを大事に日常を生きれば、ちょっと筋肉痛になって鍛えられるかもしれない。楽しいことを追求する権利を自覚して謳歌するのはいつだって遅くないはずだ。

自分だけしか分からないと思っていた現象と、同じことを思ってる人がいた時の感動は並々ならない。モヤモヤしていたことが言語化されてよかったと言われると、間違ってなかったんだと思い報われる。これからも自分なりの思索を続けていきたいと思う。

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