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坂本企画『抱えきれないわたしを抱いて』観劇

坂本企画21『抱えきれないわたしを抱いて』
脚本・演出:坂本涼平

坂本企画さん(公式HP)の新作、『抱えきれないわたしを抱いて』を拝見してきました。(終演後撮影OKでした)

【あらすじ】
頑張り屋さんの13歳の少女Aが、難病の少女Bのケアについて、少女Bの母親から学校のクラスへの強い介入を受ける。
自身もネグレクトを受け孤独な少女Aは、唯一心を許す担任の男性教師の中に自分の居場所を作るため、
自ら少女Bのケアを買って出て、少女Bから男性担任教師との二人の時間を取り戻そうとする。
幼い決意が招く、「罪と罰」の物語。

坂本企画公式HP「抱えきれないわたしを抱いて」作品紹介より

千秋楽だったこともあり、会場販売分の上演台本は完売ということで、配送分を購入。届くのが楽しみです。
作品から受け取ったものが記憶から抜け落ちていかないうちに、何とか言葉にしたいと思い、戯曲に対する感想が中心のとりとめのない文章ですが、記録として。

※東西千秋楽後なので、物語の詳細にも触れます
※作品の解釈などは、あくまで個人の感想ですので、作者の意図とは異なる可能性もあります

「罪と罰」の物語

刃物でゆっくりと刺されていくようで、徐々に暗闇に追い込まれていくようで、とても心を抉られる作品でした。暫くはこの物語と、観劇で生じた想いを引きずりそうです。

終演後立ち上がるのにも、劇場を出て街を歩くのにも、うまく身体に力が入らない。茫然自失のまま、なんとか帰路に就きました。(普段から割と、重めの作品を好んで観ていますが、久々に、観劇でこんなにボロボロになりました。体力のいる作品……!)

少女Aの回想録

少女Aの独白と回想から、物語は始まります。
物語の全ては、少女Aから先生に向けて語られる「過ぎ去った出来事」。

本作トリガーアラートに記載された内容等、いくつかの「問題(要素)」があり、それぞれに色々と思うものがありましたが、全てを語るには長くなり過ぎる気がするので、主題であり、最も強烈であった『生死』についてを中心に。

何故人を殺めてはいけないか

「ねぇ先生、どうして人は人を殺してはいけないの?」
問われた「先生」は27歳の若手教師。観劇して、後に続く出来事を全て知った後では(この時教師がもっと違う答えを返していたら)そんなことを思ってしまうけれど、
私は、私なら何と答えるだろう。
『社会契約』、『倫理』……俗に言われる模範解答のような返しならいくつか思い浮かぶけれど、いざあの状況で13歳の少女にそんな言葉を投げかけられたら、何も伝えられないかもしれません。

悪いのは「先生」?

ある意味では、少女Aが堕ちていく元凶の一つ、とも言える「先生」。
なんて弱いんだ!!非力なんだ!この先生のせいで!!と思う観客もいると思います。
でも、悪いのは「先生」だけでしょうか。
27歳の1人の人間が抱えるにも、重すぎる問題だったように思います。
ほんの少しのミスで死んでしまうかもしれない生徒。巻き込まれたくないと遠巻きに見ているであろう同僚たち。恐らく職員室では浮いた存在。相談できる先輩教師もいない。親しい人もいそうにない。いつ「襲来」するかも分からぬ生徒の母。崩壊していくクラス。こんなはずじゃなかった。何もできず、うまく立ち回れず、救えず、抱え込んで、空回りして……
主人公は少女Aですが、「先生」が「壊れていく」様子もまた、恐ろしさがありました。

悪いのは「母親」?

難病をかかえた少女B、そんな少女の母親は所謂モンスターペアレントかつヘリコプターペアレント。(「先生」の崩壊の一つの原因。)
荘司歩美さん演じる「常軌を逸する」母親。この母親もなかなかに強烈でした。登場シーンでは、(演技の方向性はこれで良いのか?)と思った程に、本当に常に「異常」。一貫して「異常」。
(荘司さん。「娘たちのうたわない歌」を観ても思っていたのですが、やはり独特の存在感と味のある役者さんです!)

この作品の中では描かれていませんが、この「母親」も以前は普通の人で、少女Bの病気の進行とともに、徐々に「崩壊」してしまったのではないかなと、そんなことを思いました。

「ひとごろしっていけないことかしら」

重度の障害を抱えた少女B。
目も見えなくて、動けなくて、自分の意志をうまく伝えることもできなくて。体の中に閉じ込められていて、自身のせいで周りの人たちを苦しめていて。周囲から、いなければいいと思われていて。わたし(少女A)なら死んでしまいたい。
少女Aは思い立つ。

次第に叫び声のように変わっていく、少女Aの長い独白。狂気に満ちた言動。
鳩川七海さんの迫真の演技には、息をするのも忘れる程。劇場内の張りつめた空気。皆の意識が一点に集中していることを感じました。

人を殺める行為を容認するわけではないですが、きっとあれが、あの少女が考え出した【最良】だったのだろうなと思います。
「わたしだったら、こうなったら、殺してくれてありがとう、って思うと思うの」
「それでもやっぱり ひとごろしっていけないことかしら」

鳩川七海さん演じる少女Aのこの台詞が、観劇後、頭にずっと残っています。

※ここまでは、第一幕の台本として、坂本企画さんのHPで公開されており、事前に拝読しておりました。(一幕・二幕は休憩など挟まず続けての上演)

もう一つの乳母車

一幕の時点でなかなか重い内容で、ずっしりと心にのしかかってくるような作品でしたが、第二幕はそれを凌駕。

第二幕、少女Aの衣裳が変わる。乳母車を押す先生の姿。先生に元気に話しかける少女A。明るい表情の二人。
あれ?一幕は、「もしも」の世界だった?もしくは、二幕ではバッドエンドでない世界線の話が始まる?
そう思っていたら、地獄に叩きつけられました。

乳母車の中にいるのが、少女Aだった。少女Bと同じ病。
(そんな巡りあわせ実際にあるだろうか、という観点もあるかもしれませんが、病が存在する以上確率ゼロではないし、ここではそんな議論は対して意味をなさないので省きます)

罪を贖う

身体の自由を失い、やがて全てを失っていくであろう少女A。
少女Aの先生への想いと、犯した罪。
もう会いに来ないと少女Aに伝える先生。わたしを殺して、そうでないならば結婚して、と先生に迫る少女A。病によって奪われる少女Aの声。

『償い』もテーマにあるこの作品。
・先生が少女Aを殺めて、先生がその罪を償っていく
・少女Aを殺めることなく先生は去り、少女Aは長い孤独の中で贖い続ける
この時点での私の予想は上記2点でしたが……
登場したのは、真白の花束を持った先生。

先生の「贖罪」

白い花束を持った「先生」、私には狂気に見えました。
そうか、その選択をするのかと。先生はそうやって、罪を贖うのかと。
(このシーンの、中野聰さんのお芝居。ある意味ゾクゾクしました。)
先生は少女Aを(恋愛感情として)好きだったのか。私はそうは思いません。
昔の自分を見ているようで、放っておけなかった。(=先生が救いたかったのは、本当は少女Aでなく、過去の自分自身だった)そうして、彼女を狂わせてしまった。

これからも少女Aと生きて、生き続けて、考え続ける。それが彼なりの、少女Aと、少女Bに対する「贖罪」なのだなと。

少女Aは「さいご」に罪を知る

予想外の展開だったものの、あぁなるほどそういうラストか、と肩の力を下ろそうとした瞬間。
『全身白い服の女』が、現れた。
現れた瞬間にその先が見えたので、息をのむと同時に、坂本涼平さんーーー!!!そういうことでしたかーーー!!と叫び出したくなりました。

「先生に殺されたかった」
「そうか、あの子(少女B)も、誰か、殺してほしい人がいたかもしれない」
「さいごがわたしで、ごめんね」
凄絶なラストでした。

カーテンコール

鳩川七海さんが歌う曲。優しい歌声とその歌詞が、心に響きました。
愛されることを いつか してみたかった
この世界にある多数の問題・要素が複雑に絡み合った作品ですが、
曲の最後のフレーズが、少女がAが抱えていた(抱えきれなかった)ものの核心ではないかなと思いました。

生きる権利・死ぬ権利

前述のように様々な要素が含まれるこの作品。
人それぞれ、物語の捉え方や観劇で感じるものが大分異なるのではないかなと思いました。
私も観劇後……色々なことが頭の中を巡っています。

まだまだ語りつくせませんが、一先ずこの辺で。(作中におけるアーノルド(教室で飼われていた亀)の存在などについても語りたいところ……)
観劇することができて、とても良かったです。台本が手元に届いたら、もう一度、あの時間のあの空間に戻って考えたいと思います。


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