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中動態と荘子

「能動」でも「受動」でもない概念

「能動的に動いていこう」
「受動的になるな」
このように仕事などで言われることは良くあるだろう。

不思議と「能動」はポジティブ、「受動」はネガティブに捉えられることが多い。
しかし、そのどちらでもない概念があるのを知っているだろうか。

「中動」である。

「能動」と「中動」

「能動」「受動」という二項対立は、
実は割と新しい考え方であるということをご存知だろうか。

我々には浸透しきっているこの価値観は、
昔とは違うものなのである。


元々は「能動」と「中動」という分け方がなされていた。
その違いは何か。
それは「行為が影響を及ぼす対象」である。

「能動」というのは、
動詞の主語が、主語の外で作用し、外で完遂するものを指した。
一方で「中動」は、
動詞の主語が、主語の内部で作用することを指した。

「歩く」とは、どういうことか。

わかりづらいので、例を挙げて考える。
「歩く」という行為は「能動的」に行っていると思うだろうか?

確かに、私自身の意思で歩こうとしているし、
能動的という印象を持つだろう。
しかし、この行為は「中動」である。

つまり、「私が歩く」という場合、
歩いているのは私であり、そしてその影響を受けて、作用しているのも私である。

「だから何?」
と思うかもしれないが、これはとても大切なのである。

「能動」「受動」で考えると、
受動、すなわち「歩かされる」というイメージはあまり持たない。
だから「歩こうとする」、つまり能動と考えるが、実はこれも微妙である。
なぜか。2つ理由がある。

1つ目。
確かに自分で足を動かしているかもしれないが、
その瞬間に外部からの影響をすごく受けているのである。

足を置く場所が、足に対して水平に近い状態で、
しかもある程度硬くなければ歩くことは難しい。
また、一歩一歩進む度に、踏む場所の条件は細かく変わっており、
それに対して足は対応しなければならない。

2つ目。
あなたはその歩き方で「歩こう」としたのか。
そうでないパターンが大半ではないだろうか。

特定の歩き方を自分で習得したわけであり、
ある意味ではその歩き方で強制されているとも言える。

「意志と責任」

そのような、
強制的にやらされてはいない
でも自発的でない
にも関わらず同意している

という状態、それこそが「中動」である。

これは、「意志」と「責任」の話に繋がる。
この話は「中動態の世界」(著:國分功一郎さん)のもので、
詳しくは本を読んでもらう方がいい。

簡単に言えば、
「意志」はゼロから生まれるものではなく、
「意志」や「責任」という概念を持ち出すことによって、
逆にどうにもできない悩みや苦しみがある。
ということである。


これは、昨日の荘子に繋がる話なのである。
荘子は、「受け身こそが最強の主体性」と考えた。

ただ、この受け身の考え方は「中動」に近いものだと思う。
「周りの流れに順応しながら、
あらゆる外部からの影響にも反応できる強さ、
そしてその中で遊ぶ精神」

それはまさに自分の内部で作用し、
強制的でもなく自発的でもなく、それに同意する
「中動」の姿なのではないかと思う。

「荘子」や「中動態」に触れながら、
これまで固定されていた「意志」や「責任」についての概念を、
少し解放してあげてもいいのかもしれない。

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